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第3話 不識の天井

 時生は体にじっとりと汗をかいている気がした。何度か目を開けようと努力したのだが、瞼がピクピクと動くだけで、酷く重く感じ目が開けられない。全身が熱い。それからまた、意識が遠のいた。


 次に気づいた時は、随分と楽になっていて、先程よりは軽々と目を開けることが叶った。すると真上には、見た事のない天井が広がっていた。薄茶色の天井だ。高圓寺家に、このような部屋があった覚えはない。どの部屋も掃除で入った事があるが、記憶にはない。


「ここは……」


 口を開くと、掠れた声が出た。


「気がついたか」


 不意に、顔を覗き込まれる。鴉の濡れ羽色の、長めの前髪をしている青年で、若干つり目だが大きく形の良い双眼が、現在時生に向けられている。薄い唇をしていて、思案するような面持ちだ。その顔と軍服を見て時生はハッとし、思い出した。


「あ、僕……」


 起き上がろうとすると、額にのっていた濡れた布が落下した。

 また起き上がろうとはしたのだが、力が入らず失敗し、すぐに布団に沈んでしまう。


「酷い熱だったんだ。半日も目を覚まさなかった。もう夜だ」

「僕……その……ご迷惑を……」

「迷惑ということはない。困った時はお互い様と言うだろう」


 温かい言葉を、平坦な声音で軍人が述べる。


「無理せず、もう少し休め」


 その声を聞いて、無表情気味で感情の窺えない声をしているけれど、この人は優しいと、直感的に時生は思った。


「貴方は……?」

「ん? 俺か? 俺は礼瀬偲あやせしのぶと言う。帝国陸軍あやかし対策部隊の副隊長をしている」

「礼瀬さ……」


 名前を脳裏に刻んだ直後、再び時生は意識を手放した。


 ――次に目を開けると、体がずっと楽になっていて、上半身を起こすことが出来た。異国から伝わった照明の光が、先程までより少し暗くなっていた。代わりに、畳の上にある雪洞ぼんぼりに、灯りが宿っている。


「具合はどうだ?」


 そんな言葉をかけられて、声の方角を見ると、軍服から寝間着の羽織に着替えている青年の姿があった。


「もう、平気です」

「そうか。食べられそうなら、お粥がある。先程、手伝いに来ている小春が作っていったんだ」

「そ、そんな……あの、僕……本当にすみません。これ以上、ご迷惑をおかけするわけには……」


 と、時生が述べた瞬間、ぐぅと大きく腹が鳴った。空腹を知らせる調べに、腹部に両手を当てて、時生は真っ赤になる。何日も食べていなかったから、お粥の味を想像するだけで、口の中に唾液が満ちた。


「食べればいい。持ってくる」


 すると初めて相好を崩し、彼は時生が寝ている部屋を出て行った。見送った時生は、きょろきょろと周囲を見渡す。現在いる畳の部屋は、とても広い。布団も、高圓寺家では布の上に寝ていたので、自分には過ぎた品のように感じる。困惑しながら待っていると、彼が戻ってきた。手には茶色く長い盆を持っていて、その上に小さな土鍋がある。


「ほら」


 そうして時生のすぐそばの畳の上に、お粥が置かれた。

 あまりにもの良い香りに、思わずレンゲを手に取る。土鍋から掬ったお粥には、卵が入っていた。高圓寺家ではいつも、水のように薄い、いいやほとんど水のお粥を週に三度は出されていたから、これが同じお粥という料理だとは信じられない。


「美味しい……」


 何度もレンゲで卵粥を口に運ぶうち、気づくと時生の目は潤み、下睫毛の上に水滴がのり、それが筋を作って頬を流れ、ぽたりぽたりと顎から下へと落ち始める。時生は鼻を啜りながら、ボロボロと泣いてしまった。お粥の衝撃が、それだけ強かった。人間扱いされたのが久しぶりで、それがとても嬉しい反面、これまでの苦しさや辛さが一気に身を苛み、涙が止めどなく溢れてくる。感情がごちゃごちゃになった。


 時生が顔を上げると、隣で何も言わずに座っていた青年が、腕を組んだ。

 その沈黙が、優しかった。次第に、時生の涙が乾いていく。それはお粥を食べ終えるのと同じ頃の事で、お腹が満ちたら、涙も止まった。


「落ち着いたか?」

「……はい」

「それは幸いだな。もう遅い。家人も心配しているだろう。家まで送ろう」


 それを聞いて、時生は首を振った。生まれつき色素が薄く茶色い髪が左右に揺れる。瞳の色も、同色だ。亡くなった母も、同じ色彩をしていた。


「家は無いんです……」

「家が無い?」

「成人したから出て行けと言われて……」

「お前、名はなんという?」

「高圓寺時生といいます」


 時生が名乗ると、青年が驚いたように息を呑んだ。


「高圓寺? 四将に数えられるあの高圓寺家か? 確か現在のご当主は、隆治氏だったか?」


 四将という語を、時生は初めて聞いた。だが、父の名は間違いない。


「そうだと思います」

「ならば、なんらかの才を持っているのか?」

「……僕は、見鬼の力も、先見の力もありません……」


 腕を組んだ青年が、考え込むように瞳を揺らしてから、改めて時生を見て、小さく頷いた。


「そうか」

「……そうです、僕にはなんの力もありません」


 改めてそう述べてから、時生は立ち上がろうとした。


「……出て行きます、ありがとうございました」


 すると横に座っていた彼が首を振り、時生を制した。


「いいや、もう少し休むといい。なんなら、暫く居てくれていいぞ。次の家が決まり、仕事も決まるまで」


 放たれた声に、時生は驚いて目を丸くする。


「そのようにお世話になるわけには……」

「仕事といえば、実は俺は、妻が出て行ってしまってな。子供を片親で育てているのだが、子守りをしてくれる者を探しているんだ。家事を手伝ってくれる者はいるのだが、専任で子守りをしてくれる者が見つからなくてな」

「え……?」

「よかったら、やってくれないか?」

「いいんですか……?」

「ああ」


 時生が問うと、それまでの無表情が嘘のように、口元を綻ばせて彼が笑った。とても優しい笑顔だった。


 時生は心が温かくなった気がした。

 ――助けてくれたのだと、正確に理解していた。

 きっと子守りの仕事は、無くてもいいものなのだ。自分に屋根の下にとどまる口実をくれたのだと分かっている。恩を感じずにはいられない。


「僕、僕にできる事なら、全力で頑張ります。礼瀬さん」


 時生がそう述べると、ゆっくりと頷いて彼が笑った。


「俺の子も礼瀬だ。礼瀬みお。紛らわしいから、俺の事は偲でいい」

「偲さん……」

「俺も時生と呼んで構わないか?」

「は、はい!」

「澪のことは、明日にでも改めて紹介することにしよう。今日は、まだ体が本調子ではないようだから、休むといい」


 そういって、偲が布団を視線で示す。

 大人しく、時生は布団に入った。





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