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あやかしも未来も視えませんが。
猫宮乾
歴史・時代日本歴史
2024年08月12日
公開日
123,085文字
完結
 時は大正五十年。高圓寺家の妾の子である時生は、本妻とその息子に苛め抜かれて育つ。元々高圓寺家は見鬼や先見の力を持つ者が多いのだが、時生はそれも持たない。そしてついに家から追い出され、野垂れ死にしかけていたところ、通りかかった帝国軍人の礼瀬偲が助けてくれた。話を聞いた礼瀬は、丁度子守りをしてくれる者を探しているという。時生は、礼瀬の息子・澪の面倒を見ることを条件に礼瀬の家で暮らすこととなる。軍において、あやかし対策部隊の副隊長をしている礼瀬はとても多忙で、特に近年は西洋から入ってくるあやかしの対策が大変だと零している。※架空の大正×あやかし(+ちょっとだけ子育て)のお話です。

第1話 かじかんだ手

 大正四十五年、冬。

 十五歳の時生ときおは、高圓寺こうえんじ家の裏庭に立たされていた。足下の桶には氷が張っている。屋根には数多のつららが見える。本日は霙が、強い風のせいで斜め方向から襲いかかってくる。薄手のシャツと着物で、もう二時間ほどこの場にいる。高圓寺家の本妻である松子まつこの許しがあるまでは、屋内に入ることを許されない。


 妾であった母のあおいがはやり病で亡くなってから、時生への陰湿な苛めは、日増しに酷くなっていく。父の隆治たかはるは気まぐれに葵を閨に呼んだだけであるから、時生には欠片も興味が無いらしい。家を継ぐと決まっている、時生と同じ歳の松子の子、裕介ゆうすけのことにも興味はあまりないようだが。


 だが裕介には、見鬼の力がある。見鬼の力とは、あやかしを視認する力のことで、高圓寺の血を引く者には、その才能が出やすい。同じくらい、先見の力という、未来を予知する能力の持ち主が生まれることもある。しかし時生には、そのどちらもない。本当にあやかしが存在するのかすら、時生は知らなかった。


 かじかんだ手が、ずっと震えている。既に指先の感覚は無い。冷たいを通り越して、肌が痛かった。


「ああ、ここにいたのか、役立たず」


 その時、裏口の扉が開いた。顔を向ければ、裕介がひょいと顔を出したところだった。


「宿題をやっておけ」

「……っ」

「早く来い」

「で、でも……奥様に、お許しを頂かないと、あとで……」

「ああ、きっと散々ぶたれるだろうが、それは俺の知ったことじゃない。さっさと来い」


 裕介はそう言うと、強引に時生の腕を引いた。脚がもつれて、時生は転倒する。すると見おろした裕介が冷徹な顔をし、思いっきり時生の胴を蹴りつけた。二度、三度。痛みに涙を堪える。


「早く立て」


 しゃがんだ裕介に髪を引っ張られ、無理に顔を上に向かせられる。

 両手を地について、なんとか時生は体勢を立て直した。


 そして歩きはじめた裕介の後に従う。裕介の部屋に招き入れられた時生は、そこに並ぶ高等学校の宿題を見た。中学第四学年の後、高等学校に入学した裕介は、特に異国語の授業が苦手な様子だ。頻繁に時生へと宿題を押しつける。そのため、学校へ通うことを許されず、日中使用人と同じように働いている時生だが、特に異国語、いいや押しつけられた宿題分の、数学や古典、歴史や社会情勢、教養、文学、それらに詳しくなった。


「……」


 渡された万年筆を手に、時生はさらさらと異国語を綴っていく。

 時生にとっては、実に簡単な問題だった。


「できました」

「そうか、出て行け。母上にたくさん殴ってもらうんだな」


 せせらわらうようにそう述べて、裕介は時生を追い出した。

 部屋から出ると、女中のえいが待ち構えていた。


「奥様がお呼びだよ」


 ――ああ、殴られるのか。

 そう覚悟した時生の瞳は、暗さを増した。





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