帰り道では、誌公帽子は身につけなかった。皆、寝静まっていたからだ。
既に明け方だ。
柊太郎に見送られて江戸屋敷を出てから、伊八と並んで椋之助は、ゆっくりと歩く。すると何度かちらちらと伊八が椋之助を見た。
「なんです?」
「いや……世が世ならお前が若様だったのかと思ってな。もしもそうだったら、俺は今頃打ち首者だな」
「もしもはないんですよ。きっと私が若様であったとしても、出奔して長崎へと行ったことでしょうから、時景様が呼び戻されていたでしょう」
喉で笑った椋之助は、それから伊八を見た。
「私こそ聞きたい事があったんです。あのように手際よく武士を倒せただなんて、一体貴方はどういう出自なんですか?」
「ああ、それは――……そうだな。その件でも、俺は納得した」
一人頷いてから、伊八が空を見上げた。そこには、月がまだ残っている。
「俺は元々、斗北藩に仕える忍びの長老衆の一人である
「忍び……」
「そして義六様が直接的にお仕えしていたのがご家老で、今回は、ご家老のご家族の護衛を内々にすると聞いていたんだ。なにせご家老様のご家族だ。さぞや危険もあるのだろうと思っていたら、暇そうなお前のおもりだと知って、最初は憤慨もした。まぁ……今は、少しは腕がいいらしいとは思う。多少は忙しそうだからな」
言葉の最後の方では、伊八は顔を背けてしまった。なんだかんだで認められているようだと感じ、素直ではないなと思って、椋之助は苦笑を零す。
「納得した。ご家老のご家族ではあるが……若様のご兄弟だものな。護衛は必要だ」
「昨年は護衛などいませんでしたが?」
「いただろ……お金様といえば、凄腕のくノ一だ。斗北の忍びの中では三本指に入ると言われているぞ? お金様も長老衆の一人だ」
「え……?」
人の良さそうなお金の顔を思い出し、椋之助は呆気にとられた。
「それにしても、明六ツまでまだ時間があるな」
明六ツは木戸の開く時間だ。伊八の声に、椋之助が気を取り直して頷く。
「少し歩くとしましょうか。川でも見ながら」
「ああ、そうするか」
こうして二人は歩きはじめた。
「そうだ、妙後日、縫が顔を出すと、兄上が言っていましたね。なんでも伊八の料理を食べたがっているんだとか」
「ああ、仰っていたな」
「何を作るんですか?」
「いつも通りではまずいのか? 少し甚吉から豆腐を多く買う程度で」
「ええ、構いませんが、狙っているなら良いところを見せた方が良いのでは? 貴方の取り柄は見目と料理の腕前のみでしょう? まさか忍術を縫の前で披露するわけにはいかないでしょうし」
「なんの話だ。だから別に俺は……!」
そんなやりとりは、今まで通りの実に何気ない雑談であった。お互いの素性が知れても、二人の関係性に、特に変化は無い。寧ろ、より幾ばくか打ち解けただけの結果となった。本来、身分の上でこれは是といえる状態ではないのだろう。だが、性格もしている事もてんでばらばらではあるし、正反対の二人であるが、なんとなく馬が合うようだ。
空に溶けていく残んの月の下、陽光が顔を出すのを間近に、二人は朝に向かって歩き出す。
こうして二人の新しい一日が始まった。
―― 第一章・終 ――