椋之助の兄、柊太郎が訪れたのは、ある雨の日の夕暮れの事だった。人目を忍ぶように、知らせも無く訪れた柊太郎を見て、驚きつつ椋之助は出迎えた。奥の座敷に通してすぐ、伊八が火鉢に火を入れてから、茶の用意をした。伊八が隣室に下がってから、湯飲みに手を添え、柊太郎が椋之助を一瞥した。
「実は折り入って話があってきたのだ」
四十三歳の柊太郎は、元々老け顔ということも手伝い、椋之助の父に間違われがちだが、正しく兄だ。
「いかがされましたか?」
「侍医を……若様のお匙を探しているのだ」
「
斗北藩の次期藩主、
「ああ。誰か適任者を知らぬか?」
深々と溜息をついた柊太郎を見て、椋之助は怪訝に思った。
「叔父上の代理は私ですし、私は身近な場所で、今すぐ駆けつけられる医者の中では、私が一番、見識が豊富だと自負していますが? 私では不足ですか?」
上辺こそ笑みを浮かべつつ、声もまた穏やかなものを保ったが、何故直接自分に依頼をしてこないのかと、少し喉に魚の骨が閊えたような気分になった。
「儂としても、椋之助に頼みたいのが本音だ。だが、事情があってな……」
「どのような事情ですか?」
「……若様に、お前を会わせる事は、出来ればしたくないんだ」
「何故です?」
実際、過去にも一度か二度しか、椋之助は時景と顔を合わせたことはなく、それもすれ違った程度で、頭を下げていたので顔立ちすらよくは覚えていない。兄は頻繁に城や屋敷に呼ばれているのに、自分は遠ざけられていると感じさせられた一因でもある。次第に、どうやら自分は時景あるいは時彬に、会わせないようにされているようだと、椋之助も気づいていた。江戸屋敷にも、ほとんど連れて行ってもらったことはない。叔父に連れられて時々父に会いに出かけるだけで、その際も特に他の者には会わなかった。
理由はあれこれと考えた事がある。たとえば、同じ歳の二人であるから、なにかと比較されることもある。幼少時より学問に長け、武芸もある程度収めている上、なにより健康な椋之助と、病弱で伏している事が多い時景では、力量にも差が生じる。それを由としないことがあるのではないかと、椋之助は考えもした。だが、そのようにも思えない。
――と、いうのは、実を言えば椋之助は、時景と手紙のやりとりで交流があるからだ。これは、ある日、江戸屋敷に出入りをしている呉服問屋の若旦那・啓助の手で届けられた。一年前の事である。椋之助が江戸に戻ってすぐのことだ。啓助は、今年で三十路である。啓助に、時景からの手紙を届けられた時は、最初こそ驚いたが、その内容は、帰還の歓迎で、喜ぶものであり、その場で返事をしたためた椋之助は、啓助にその
「……それを告げれば、儂は腹を切らなければならない」
鬱屈とした声を放った柊太郎の言葉で、椋之助は我に返った。
「で、では、無論仰らないで下さい。分かりました、聞きません。何があっても、私は聞きません」
「だが、お前に診てもらいたいのが本音だ。なぁ、椋之助。後生だ、何も聞かずに、何も言わずに、若様を診て、その後も何も言わずに、お体のことのみ正確に口にし、それ以外は黙し、決して妙な気を起こさないと誓って……若様を診てはくれぬか?」
深刻そうな柊太郎の声は、大げさな言葉を吐いているというのに、それが真実だと思わせる真剣なものだった。困惑していた椋之助だが、唾液を嚥下し、大きく頷く。
「誰でもなく兄上の頼みです、引き受けましょう」
「頼む。儂は先に戻る。少し時を置いてから、江戸屋敷に来てくれ」
「分かりました」
「道中は気をつけるように。先程の小者……伊八と言ったな? 父上の寄越した者だろう? 伴うようにな」
「伊八をですか?」
「ああ。必ず」
そう述べると、柊太郎が立ち上がった。
「失礼する」
こうして柊太郎は帰っていった。出入り口まで見送ってから、踵を返して座敷に戻った椋之助は、後片付けをしている伊八を見た。
「聞いていましたね?」
「ああ。だが、俺を……か」
「なにか心当たりはありますか?」
「――特に。一人では格好がつかないとか、そんなところじゃないか。仮にもお前も武家の次男なんだしな」
「だからこそ剣術の一つも覚えているんですが」
そんなやりとりをしつつ、二人は少ししてから外へと出た。
それぞれ傘をさしている。これはどちらも、凌雲が屋敷に遺していったものだ。