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第7話 勘違い


 それを期に、伊八の口数が少しずつ増加した。椋之助のがわも、あれやこれやと伊八に話しかける頻度が目に見えて増えた。そうこうしている内に、時の流れとは早いもので、皐月が訪れた。端午の節句がある五月、今月の初鰹は特別だ。医者に鰹の値が知れるなどという言葉もある。


「椋之助様、失礼いたします」


 七星堂に来訪者があったのは、五月に入ったその日の事だった。


「ああ、縫」


 訪れたのは、椋之助の姪である縫だった。兄・柊太郎の娘だ。自ら出迎えた椋之助は、縫をいつもいる居間に通す。すると驚いたように顔を向け、伊八が慌てた様子で頭を下げてからお茶の用意を始めた。


「こちらは、伊八です。私の身の回りの世話をしてくれています」

「伊八さんですか。初めまして、縫と申します」


 微笑した縫は、大きな目をしている。力強い瞳を伊八に向け、肉厚な唇で弧を描いた。


「……はじめまして」


 伊八は抑揚のない声でそう挨拶を返すと、椋之助と縫の前にお茶を置いた。


「伊八、貴方もどうぞ」

「ですが……」

「いつも飲んでいるではありませんか」


 にこりとしながら意地悪く椋之助が言うと、伊八が言葉に詰まった。そして椋之助と縫を交互に見る。


「どうぞ、私の事はお気になさらず、椋之助様がそう言うのですから、伊八さんも」

「はぁ……それでは、失礼します」


 困惑したような目をしつつ、伊八がもう一つお茶を用意した。


「それで? 椋之助様は、お一人での診察は、上手くやれているの?」


 縫が一口お茶を飲んでから、楽しそうに訊ねた。


「ええ。ただ、本当に病気は時を選びませんね。今日は幸いまだ誰も来ていませんが、昨日と一昨日はとても忙しくて」

「腕は別に疑っていないのよ? そうではなくて、椋之助様は医者の不養生を地で行くお方だから、きちんと食べているのかと思って」


 そう言って笑うと、縫が伊八へと視線を向けた。つられて椋之助も顔を向ける。


「伊八の料理は、本当に美味なんです」

「なら心配は無いですね」


 頷きながら縫が話を聞いている。

 その後も和やかに笑顔で歓談する二人の隣で、用意はしたもののお茶に口をつけることはせず、伊八は沈黙を保っている。椋之助から見ると、初日に戻ったかのような、ただその時ほどは棘のない伊八の様子が、なんだか可笑しかった。


 ひとしきり話した後、四ツ半になった。


「いけない。母上にお買い物を頼まれていたんだった。そろそろお暇致します。それでは、また。椋之助様も、伊八さんも」


 綺麗に笑い立ち上がった縫を、椋之助が出入り口まで送っていく。

 伊八もその後に続いた。

 そして去って行く縫の背中を椋之助が見ていると、伊八が咳払いをした。椋之助が振り返る。


「綺麗な方だな」

「ええ、そうですね」


 椋之助は頷いた。柴崎家は見目に秀でた者が多い。これは、評判の話だ。ただ椋之助だけ、少し毛色が違った顔立ちである。縫にしても凛としていて、女性にしては背も高く、どちらかといえばきつめの顔立ちなのだが、椋之助の場合は、甘い顔立ちだと評されることが多い。


「伊八は、ああいう女子おなごが好みなんですか?」

「ち、違う! お前こそ、祝言はいつ挙げるんだ?」

「――はい?」

「恋仲なんじゃないのか? あのように親しく話していたんだし」


 伊八の声に、椋之助は思わず噴き出した。腹を抱えて笑ってしまう。


「縫は私の姪です」

「へ?」

「婿を取る本家の跡取りですよ。なんなら伊八、貴方が婿入りしますか?」

「なっ、だからそんなんじゃない!」


 椋之助が揶揄すると、伊八が真っ赤になった。どうやらあまり、色恋方面には明るくない様子だと判断し、椋之助は一つ、伊八の弱点を見つけた気がした。


「縫はよい女子ですよ。器量も良いですが、気立ても良くて。身内の贔屓目ではなく、私は昔からそう思ってます。まぁ伊八が好みでも、縫がどうかは分かりませんが」

「お武家様の一人娘と俺が、そもそも釣り合うわけがないだろ」

「おや? 養子縁組をして、伊八がどこぞの武士の子息になればいいだけではありませんか」


 それを聞くと、伊八が辟易したような顔をした。

 この日の食卓に、鰹は並ばなかった。




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