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第10話 結婚に必要なもの



 なおスペースコロニーにも、地球由来の太陽系占星術がある。おとめ座に太陽が入って少しして、依織の三十二歳の誕生日が訪れた。本日は、ケータリングは頼んでいない。降矢がケーキを作ると意気込んでいたからだ。きっと、不味い。でも、それすらも愛おしいだろうと考えながら、依織は帰宅した。


 パンパンパンと、するとクラッカーという古の玩具の音が響き渡り、紙のリボンや星屑を模した折り紙が、その場に散らばる。


「おめでとう、依織」

「――掃除、大変じゃないの?」

「頑張る」


 出迎えた降矢は、それから依織を抱きすくめた。その腕の中にすっぽりと収まって、依織は幸せに浸る。


「ケーキ、そのさ、ありがちだけどホワイトクリームのデコレーション頑張った」

「ふぅん」

「他にはシャンパンを買って、あとな、燻製に挑戦した。ローストビーフ!」

「簡単なのでいいのに。美味しいのにしてって言ったよね?」

「今日のはちょっと自信作だぞ?」

「へぇ。どれどれ?」


 依織は両頬を持ち上げて、視線をリビングのテーブルに向ける。すると見た目は完璧な料理が広がっていた。


「あ、美味しそう」

「ハウスキーパーの講座の先生に、特別講義を頼んだからな」

「……愛を感じました」

「愛してるからな」


 こうしてこの日も、二人でソファに座る。降矢がシャンパンのコルクを抜いた。


 二人の生活、幸せが戻ってきて、まだひと月も経たないのだが、一日一日が貴重だから、もう長い時が流れたように、依織には感じる。


 たまに夢ではないかと怖くなって、依織は夜中に飛び起き、隣に寝ている降矢に抱き着く事があるのは、もう仕方がないだろう。


 だが今は、確かに二人でいる。それを改めて確認するように、依織は隣にいる降矢を見た。間違いなく、そこには愛しい顔がある。


 それから依織は、フォークを手に取り、切り分けられていたケーキを皿にのせる。


「いただきます」


 そうして口に運べば、本当に美味な生クリームの味が広がった。驚いて目を見開く。


「あ、美味しい」

「だろ? ちゃんと二個作って、味見もしたんだ」

「味見、覚えたんだね」

「おう。依織を喜ばせたくて、俺は必死なんだよ。これでもな」

「いてくれるだけでいいんだけど」

「それじゃあ俺が満足できない。俺はお前の旦那だけど、お前だって俺の旦那だ。俺だって、旦那様には尽くしたいんだよ」


 クスクスと笑って、降矢が依織の肩を抱き寄せた。頭を降矢の肩に預けて、依織は満ちてくる胸の温かさを噛みしめる。


「僕はさ、じわりじわりといつの間にか大切になってたって気づいたんだけど、降矢は一体僕のどこを好きになったの? それが今のところかなり謎なんだけど」

「ど、どこって……俺さ、笑顔で話しかけられた事なんてなかったから最初からキュンとしてたし、童貞だったから依織が喘いでるところ見て、胸にグッときたし……それに、一緒に暮らし始めてからは、俺のダメなところとかを、ちゃんと言ってくれるのも好きになって……なんだろうな。一緒にいると、どんどん好きになっていって、全部大好きになったんだ。離れてる時も、依織の事が頭から一時も消えなかったけどな」

「それ、僕の事しか知らないからでしょ? 僕以外の人を知ったら、他の人を好きになっちゃうかもって怖いんだけど。まぁ、不倫なんて絶対に許さないし、僕は降矢を手放さないけどさぁ」

「違う。俺だって依織以外いらないし、なんだろうな――直感? 依織といると、俺は自分そのまんまでいられるんだよ。依織が素直だから、俺も素直でいられる。あーでも、依織の事が好きすぎて、見てるだけでドキドキしちゃうから、そういう意味では緊張してダメだな」

「――僕だってさ、降矢が格好良すぎてクラクラするけどね?」

「俺、依織以外にそんな事を言われた事がないぞ」

「僕以外に言われる必要があるの?」

「ない! 依織にそう思われてるなら、それだけで俺は嬉しいからな」


 そんなやり取りをしてから口づけをしたら、ケーキの味がして、そのキスはとても甘かった。


 この夜は、一緒に寝台に入った。明日、依織は休暇だ。そして今度こそ、降矢は専業主夫になったから宇宙に出かけるでもない。


「依織が欲しい」


 そう告げながら、依織の服を開け、鎖骨と首の筋の合間に、降矢が唇を落とす。強く吸われて、キスマークをつけられたのだと依織は理解した。それが、どうしようもなく嬉しい。幸せでたまらない。


「ねえ、降矢。もっと痕、つけて」

「ああ。俺のものだって証に、俺もいっぱいつけたい」


 正面から押し倒された依織の白い肌に、赤い花びらのようなキスマークが散らばっていく。降矢が目を細めて笑った。


「なんでこんなに好きなんだろうな。さっきも話したけど、一緒にいればいるほど好きになるんだ。依織が、大切でたまらない」

「僕も、降矢が大好き」


 こうして二人は体を重ねた。


 ――事後。


 我に返った時、依織は降矢に腕枕されていた。まだ体内には、降矢の感覚が残っている。足の間からは、何度も放たれたため、白液が垂れているのが分かる。依織は降矢の着やせする厚い胸板に、手を置いた。


「起きたのか? 悪い、全然抑制が効かなくて、無理させたな」

「いいよ。降矢が降矢で安心した。ガツガツしてた」

「っ……依織が欲しすぎて、その……悪い」

「僕も欲しかったから、大丈夫」


 依織がそう答えると、じっと降矢が依織を見た。降矢の黒い瞳に、自分が映りこんでいるような気になるほどの至近距離だ。依織の胸がトクンと疼く。


「愛してる」

「僕もだよ」


 お互いにそう言葉にしてから、二人は唇を重ねる。柔らかな温度、交わる二人の心は、夏の夜に負けないくらいの熱を孕んでいた。


 翌日は、二人で第五東京湾へと向かう事にした。橙色の海面には、白い波が上がっていて、海鳥や人工魚の姿が見える。潮騒を耳にしながら、砂浜で依織と降矢は手を繋いでいた。水平線の向こうに、船が消えていくのが見える。


「地球の海の写真はもう見たか?」

「見てないよ。降矢と一緒に見ようと思ってたから」

「そうか。うん、そっか……ありがとうな」


 嬉しそうに降矢がはにかむように笑ったのを見て、依織は顔を背けた。そばにいられるのがどうしようもなく嬉しいのだが、最近では好きすぎて居心地が悪い時もある。今も、降矢の横顔を直視していたら心拍数が大変な事になりそうだったものだから、つい視線を逸らしてしまった。


 いつか降矢はドキドキしすぎて緊張すると言ったけれど、依織もそれは同じだった。

 形から入った結婚であったのに、ほんの短期間で惹かれ、一瞬で大切になっていた。


 もし隕石という事件が無かったならば、きっと愛に気づくまでには、もうしばらくの時を要していたのだろうが、恐らくあの出来事が無かったとしても、依織は降矢を好きになっていたと、今では確信している。


 声も眼差しも何より性格も、今では全てが大切でたまらないからだ。降矢の存在が、大切だ。


「ねぇ、降矢」

「ん?」

「これからは、ずっと一緒にいてくれるんだよね?」

「ああ」

「嫌だって言っても僕は離れないけど」

「嫌なんて言わない」

「うん」


 頷いてから、依織は降矢と繋いだ手の指先に力を込めた。好きになってくれてありがとうだとか、愛してくれてありがとうだとか、色々な事を伝えたかったけれど、上手く言葉にならない。でも、言葉はあるいは、いらないのかもしれない。手と同じように、二人の心は繋がっている。そう考えながら、依織は目を伏せる。すると体温をより露骨に感じて、それがすぐに愛おしさへと変わる。


「絶対に僕は、降矢の手を離さないからね」




 ――結婚に必要なもの。


 依織は職場で、珈琲を飲みつつモニターを見ながら、漠然と考えていた。白衣の裾が揺れている。コンソールを操作しながら、思考に耽る。


 容姿や家事能力……料理・掃除・洗濯。そして夜の営み……即ち腕の温もりやセックス。

 これらが必須だと思っていて、愛情は不要だと考えていた。


 だが、今では違う。


 必要なものは、愛情だった。それに自分の条件さえ見て判断してもらえればいいと考えていたけれど、今はそうではない。きちんと自分を見て、そして、己が向けた愛情を受け取ってくれる相手がいい。その点、降矢は自分が好かれていないと思っていた部分は欠点だ。


(まぁ僕自身も無自覚だったわけだし、それは仕方がないか)


 依織は考える。


 少なくとも今は、依織はきちんと己の恋情と深い愛を自覚し、降矢に向けている。

 そして降矢もそれを受け取ってくれていて、降矢の方からも愛情を注いでくれている。

 これらが、温かい家庭の条件だった。間違いない。


 科学技術が進歩し、様々な人々が増え、変わる価値観も沢山ある現在であっても、愛情の形は、案外古来から変わらないのではないか。少なくとも、依織としてはこの価値観が変化する必要性を感じない。


 そんな風にして、この日もスペースコロニー『ウ』の片隅で、人間は思考し、愛を見つけ、生活を、文明を築いていく。その連続が、人類の軌跡といえるのだろう。


 最終的に依織が導出した結論として、結婚に必要なものは、愛だった。






 ―― 了 ――




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