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第8話 一人きりのリビング




 帰宅した依織は、憔悴しきった顔をしていた。一人きりのリビングで、ソファに座る。


 すると正面のテーブルに、簡素な白い封筒があるのが見えた。何気なく手に取れば、そこには達筆な文字で、自分への宛名があり、ひっくり返せば、『降矢』と書かれていた。


 ハッとしながら開封すると、薄っぺらい便箋が入っていた。今ではメッセージアプリが主流であるから、古風な手紙など、めったにお目にはかからない。けれど降矢の生きた痕跡だと強く感じ、思わず文字列を目で追う。


『依織へ。きっとこれを読む頃、俺は生きていないと思う。でも、どうしてもお礼が伝えたかった。依織、一緒にいてくれてありがとう。本当は、依織は俺の事、あんまり好きじゃなかったのも分かってる。けど俺は、依織が本当に大切だ。俺の作った不味い飯もさ、なんだかんだ言いながら、いつも全部食べてくれて、ありがとうな。本当は、ハウスキーパーの講座、やっと料理関連が始まったところだったから、全部受けたかったんだけどな。俺のお手製料理で、依織を喜ばせたかったな。ごめんな、できなくて。それがしいていえば、心残りだ。ただ依織の事を考えていたら、俺は死ぬまで幸せだと思う。だから、依織も俺が死んだ後は、今度こそ本当に好きな相手を見つけて、幸せになってくれ。俺の愛は永遠だけど、依織には幸せになってほしいから、俺を待ったりしないでくれ。依織は、依織だけの幸せを、きっと掴めるから。愛してる。大好きでごめんな』


 そんな、長くもなく、短くもない手紙だった。


「馬鹿。もう、僕はきちんと、降矢を好きなのに。僕が自覚した途端にいなくなるなんて卑怯だよ。それも、僕の気持ちを知らないままで、いなくなるなんて、そんなの……」


 無表情で呟いてから、依織は俯いた。もう涙は枯れてしまっていたから、泣く気力すら出なかった。


 こうして依織の日々から、降矢は姿を消した。


 職場では探索システムで脱出ポッドの位置確認に励み、届かないのだろうと判断していても、通信を試みた。こちらからは受信できなくても、もしかしたら届いているかもしれないと望みをかける。誰もそれについては、何も言わない。黙認していた。憐憫の眼差しが、依織には向けられている。既に、須原降矢という人間の死を疑う者は一人もいない。宇宙とは、そういう場所であるからだ。


 帰宅後は、一人でレトルトの白米をレンジに放り込んでいる。

 元々の生活が戻ってきた。

 焦げもせず、かといってお粥にもならないが、味気ない。


 そう感じてハウスキーパーに二度ほど作ってもらったが、完璧な手料理の白米が出てきても、満足なんてできなかった。下手でもいい。降矢の料理が食べたかった。


 ふとした時、依織は涙ぐんだ。降矢の不在が苦しい。今も暗闇を彷徨っているのだろう降矢の、孤独という恐怖を思うと、どうして自分が今そばにいてやれないのかと苦しくなって呼吸が出来なくなりそうになる。逆に何故降矢は己のそばにいてくれないのかと泣いて縋りたくなる。


 一緒にいるはずだった、バレンタインデーもホワイトデーもエイプリルフールも全てが過ぎていく。喪失感に苛まれながら迎えた春、一人空虚なキッチンに立ち、鮭とキノコをバターで炒めながら、依織は考えていた。宇宙艦の乗員であった地球防衛軍の人々は、皆死んでもいいと判断された人間だったはずだ。だが。


 ――死んでもいい人間?


 依織にとって、降矢は生きていなければダメな人間だった。そもそも死んでいい人間なんて、一人もいない。


「降矢がいないんじゃ、僕は生きていけないよ……っ」


 辛かった。胸が張り裂けそうで、嗚咽が止まらない。そのまま泣いていたら、高温を探知して、勝手に火が止まった。


 その日完成した鮭のムニエルは真っ黒こげで、依織は泣きながら笑った。


「僕の料理、降矢のものよりも酷いじゃないか」


 以後も、返答のない宇宙域に向い、一人で依織は通信を続けた。


「降矢、元気? ってわけでさ、僕の作った料理は最悪だったんだよ。やっぱり降矢の料理の方が美味しいし、僕に口出しする権利なんてなかったよ。僕ちょっと亭主関白すぎたかも」


 いつも依織は、泣きながら笑っていた。


 帰宅して、降矢の残り香としかいえない歯ブラシやおそろいのマグカップを見る度に震えて泣きながら、時計を見ては嗚咽をこらえ、涙が枯れたと思った数日後には、また泣いて、そして己の中の愛を思い知らされている。


 降矢が、好きでたまらない。

 自分の人生になくてはならない存在だったのに、共にいた時はそれに気づけなかった。

 降矢が欠けた今、もう己は死んだに等しいとすら感じていた。






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