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第7話 隕石の一報





 クリスマスを終えてから、二十七日には仕事納めという日程だったのだが……その二十七日の午前十時を少し過ぎた頃、探索フロアに一報が入った。


 改修した探索システムが、大規模な隕石群を発見したのである。


 探索フロアには緊張が走り、すぐにコロニー防衛軍と研究・開発班からなる隕石対策チームが設置された。以後、研究・開発班は、探索専任になる。


 デス・ヒースと名づけられたその隕石は、万が一『ウ』に激突すれば、第四号コロニーの八割が破損し、人口の九割が死亡すると推算された。動揺が広がっていく。


 唇を噛みしめながら、依織は『暫く帰れなくなった』と降矢に連絡を入れた。

 その隣で悠長に缶のカフェオレを飲みながら、ジョ・ルゥが言う。


「でも改修しといてよかったよなぁ。依織の設計、パーフェクト。もし昔のまんまだったら、これは捕捉するのがもっと遅れてたし、俺達は死んでたかもな」

「まだ、今後も僕達が生きていられるかは分からないよ。隕石は迫ってるんだから」

「防衛軍がなんとかしてくれるだろうよ?」

「気は抜かない方がいいと思うし、僕は楽観視すべきじゃないと思ってる。この規模のものがいつか飛来するんじゃないかと僕は恐れていたから、このシステムを作ったんだしね」

「でも見つけたんだから、爆破できるだろ?」

「撃破してもさ、破片への対応もある。あとは、従来の爆弾でどこまで対応できるかだよ。このサイズは、さすがに内側に超PK誘導弾を撃ちこまないと厳しいかもしれない。そうなれば、内側に埋めに行くパイロットの生存は絶望視するしかないんだよ?」

「そ、それは……」

「そもそも隕石に到達できる技巧の持ち主が少ないだろうし、その上で死ぬ勇気の持ち主がいるかも不明じゃない? 脱出ポッドが上手く回収可能エリアに飛ぶとも限らないしね。エリアから逸れれば、暗い宇宙域を死ぬまで漂うんだよ。恐怖でしかない」


 淡々と依織が述べると、ジョ・ルゥが顎を持ち上げた。


「ま、俺達は、俺達にできる事をするしかないし、そういう専門的な事は軍に任せるしかないだろ? 軍人の出番なんて、こういう時くらいなんだしさぁ」

「……まぁね」


 頷いてから、依織は深々と溜息を零した。


 ――そんな依織の予想が的中したのは、その日の午後の事である。


 破片対応は、従来通り『ウ』の飛行戦略艇が行う事となった。他に一名、特別パイロットが、隕石に飛行戦略艇ごと体当たりする行動をとり、直前で最も脆い窪みに超PK誘導弾を打ち込んで、脱出ポッドで離脱する事と決まった。


 超PK誘導弾というのは、現在では超科学技術で機序が解明された、古の世では超能力だと考えられていたサイコキネシスを応用した誘導弾である。


 成功したら、探索フロアのチームの主要な任務は、特別パイロットが離脱時に用いる脱出ポッドの捜索となる。だが、回収可能エリアをポッドが外れた場合は、基本的には通信が届く期間補佐をするのみで、それも出来なくなれば、探索は打ち切りだ。


(パイロットは、どんな気持ちなんだろう……)


 回収可能な宇宙域に脱出ポッドが放たれる確率は、繰り返すが非常に少ない。

 つまりは、特別パイロットにとっては、死ねという命令と同じだ。


 ある意味において、古より地球から伝わる、トロッコ問題と同じである。

 一人を救うか、大勢を助けるか。


 なお、一人の死を許容して、大多数の住民を助けるというのが、コロニー『ウ』に限らず、宇宙に入植した人類の共通の認識だ。それをもとに作られたのがコロニー法である。


 だが依織は、犠牲になるそのたった一人にだって人生があると思うし、見殺しにしていいとは思わない。けれど、どうしようもない事であるとも理解していた。


 そんな時、ピピピと、端末が音を立てた。驚いて目を瞠る。


 この音は、配偶者同士の間で緊急連絡の際にのみ、通信端末が知らせる音だ。

 つまり、降矢からの通信である。


 このような非常時に、まさか家庭にも異変があるのかと、疲労感を抱きながら、依織は端末の光学モニターを見た。


『依織。急な仕事が入った。俺も暫く帰れない。もし俺が一か月以上戻らなかったら、離婚してくれてもいい。愛してる』


 そのメッセージを見て、依織は混乱した。仕事が入った事と、愛しているという文言は、すぐに理解できた。だがその中間の文面が、上手く頭に入ってこない。


「依織! 特別パイロットに挨拶に行くぞ。この後、探索用にパイロットの生体情報を登録する作業があるから、早く来てくれ」


 ジョ・ルゥの声で我に返る。依織は困惑したまま、返信は後ほどにしようと――まだ今は思考がまとまらないから、あとで降矢には詳細を聞こうと思い、まずは己の仕事をすると決めた。


 特別パイロットとの顔合わせは、探索フロアの上階の小会議室で行われる。

 依織はジョ・ルゥと共にエレベーターに乗り、小会議室へと向かった。


 鈍色の古めかしい扉に手を添え、指紋認証をする。そして自動で開いたドアの向こうに進む。


「あ」


 すると聞き覚えのありすぎる声がした。驚いて依織が顔を上げると、そこには軍服を身に纏った降矢がいた。『ウ』の防衛軍の軍服ではない。ニュース映像でだけ目にした事のある、地球防衛軍の水色の軍服だった。


「依織……? なんでここに?」

「それは僕の台詞だよ。降矢? なにしてるの? その服、何?」

「えっ、えっと……職場の制服で……」

「は? 地球防衛軍の軍人だったの? あと、さっきのメッセージって、どういう事?」


 思わず依織が詰め寄ると、その場にいた『ウ』の軍全体を統括するエインズワース中将が咳払いをした。彼は地球系で旧欧州国に祖先を持つ人物だ。


「鷹凪博士。こちらは、宇宙艦サトウにおいて、隕石対策に選任していたエースパイロットで――今回の任務の特別パイロットに選出された、須原降矢准尉だ」


 エインズワース中将の声に、依織はこれでもかというほど目を見開いた。降矢は、微苦笑すると、小さく頷く。思わず依織は、須原の左手の薬指を見た。それから己の同じ場所を見る。そこには確かに同じ指輪が嵌まっている。自分達は、夫々である。降矢は、自分の配偶者だ。


「あれ? その指輪って……」


 依織の視線を追いかけたジョ・ルゥが、降矢の指輪に気づいた。


「え? 依織の旦那って、まさか須原准尉なんじゃ……?」

「うん」


 反射的に依織は頷いた。それから改めて降矢を凝視する。


「退職した専業主夫の降矢が、なんで特別パイロットなの? 軍属だった事すら聞いていないけど、退職したんだよね?」

「――地球防衛軍の軍人には、明確な退職……退役はないんだ。特に、宇宙艦サトウの乗員は、『特殊』だろ? 非常時には、呼び出しに応じなければならないという規則があって」


 苦笑したままで、降矢が述べた。愕然としながら依織は、クリスマスに話した、犯罪者の末裔についてや、他のコロニーや地球からの移動について、ぼんやりと想起する。


「どういう事だね?」


 エインズワース中将が不思議そうに首を捻ると、降矢がそちらを見た。


「実は、こちらの鷹凪博士と結婚しているんです。だから今の俺は須原ではなくて、鷹凪姓なんです」

「そ、そうだったのか……それは……その……――脱出ポッドの探索にも気合いが入るだろう。須原准尉、きっと君の伴侶は、君を全力で探してくれる。安心して、出撃したまえ」

「ええ。依織が暮らすこの『ウ』を、俺は守り抜きます。ご安心ください」


 降矢が今度は、柔らかく笑った。その瞳は真摯で、出撃する意思が固いと分かる。

 ただただ依織だけが、呆然としていた。


 そうして降矢の身体情報などの計測が始まった。


 依織は顔面蒼白を通り越し、真っ白すぎる面持ちで、震えを押し殺しながら立ち尽くしていた。


 その後は探索システムの前に戻り、依織はただ呆けたように座っていた。


 小会議室からの帰り際に購入したホットの珈琲を左手で握っていたら、いつの間にかそれは冷たくなっていて、どのくらいの時間が経過したのかも、一瞬すぎて分からなくなっていた。


 刻、また刻一刻と、降矢の出撃時間が近づいていく。近づいてくる。

 それを理解しているのに、立ち上がる気力さえない。


「依織、格納庫に見送りに行ってきたらどうだ?」


 見かねたジョ・ルゥが声をかけ、そっと依織の肩に手で触れた。


「……なんて、声をかけるの? 頑張って死んで来いって?」

「助かるかもしれない。いいや、俺達で脱出ポッドを見つけて、助けるんだ」

「その確率がどれくらい低いか分かってる?」

「――依織。誰かが行かなければならないんだ」

「だからって、なんで降矢が行くの?」

「司法取引の結果だろ?」

「っ」

「話してこい。少しでも、後悔を減らせるように」


 悲愴よりも現実に対する怒りがわいてきて、勢いよく依織は立ち上がった。そのまま格納庫へと走る。


 するとそこには、パイロットスーツに身を包んだ降矢がいた。

 降矢は依織を見ると、満面の笑みを浮かべた。


「来てくれたのか」

「……ねぇ。本当に行くの? 止めてよ。サトウには、他のパイロットだっていたでしょ?」

「俺が行く」

「なんで? 僕を置いていくの?」

「――ああ。悪いな。俺は、それでも、依織と出会って幸せで、短期間だけどこの『ウ』が好きになったから、守りたいんだよ」

「そんなの自分勝手だよ」

「かもな。でも、守りたいんだ」

「……っ、……」


 依織は涙ぐみそうになって、思わず唇を噛んだ。すると慌てたような顔をしてから、降矢が依織の腰を抱き寄せる。そしてもう一方の右手で、依織の唇に触れた。


「噛むな。痕になる。綺麗な唇なんだから、傷をつけない方がいい」

「……ねぇ。降矢は、地球から来たの? それすら、僕は聞いてないよ」

「ああ。その……犯罪者の息子だって言ったら、嫌われるかと思って、怖くて言えなかった」

「嫌ったりしないよ」

「依織は優しいもんな」


 そう言って笑みを吐息にのせた降矢に、依織は辛くなった。だが、何故自分が辛いのかは分からない。


 自分は、都合のいい結婚相手を探していただけのつもりで、恋情や愛情は求めていなかったし、自分の方には存在しないと思っていたからだ。


 けれど今、こうして抱き寄せられていると、その腕の温もりが消えてしまうのが、何よりも恐ろしい。どうして――。理由が分からない。


「僕は優しくないよ」

「俺にとっては優しい。いつも周囲は、俺に死ねと、死にに行けと言ってばかりだった。だから俺は、安定した生活を求めたし、専業主夫というのに憧れて、平穏な幸せに浸りたかったんだ。依織は、俺にそれをくれただろ」

「……」

「俺に何も聞かなかったしな。俺は――俺の父は、地球で新型のPK爆弾で宇宙エレベーターを爆破するテロに関与して、死刑囚となったんだ。でも……父さんは、それがコロニーを救うものだと吹き込まれて、開発しただけなんだ。ただ地球法では、それはダメな事だったらしい」

「……っ」

「それで情状酌量もあって、父は司法取引で搭乗が決まり、その息子の俺も六歳の時に、宇宙艦サトウに乗せられたんだ。だから、『ウ』じゃないところ――地球も俺は知ってるんだ」

「そっか……」

「宇宙艦サトウでは、俺は幼少時からずっとパイロット訓練を受けて、十三歳で初めて隕石対応をしたんだ。あとはずっと、俺は戦ってばかりだった。だから童貞だったし、恋をする暇もなかった。家事もした事がなくてさ。全部、依織が初めてだ。依織の事が大好きだ。今俺は、自分がパイロットでよかったと思ってる。だって、依織を守れるんだぞ? 愛してる相手を守れるなんて、俺にも取柄はあるんだ。家事はできないけどな」


 微苦笑しながら降矢が語った。最後の冗談めかした言葉――それが、逆に依織の胸を抉った。依織の頬を、筋を作って涙が流れ落ちていく。すると降矢が依織の後頭部に触れた。それから自分の胸に、依織の額を強く押し付ける。


「俺のために泣いてくれるのは、依織だけだ。嬉しい。本当に、ありがとう」

「お願い。行かないで」

「俺の決意は揺るがない」

「なんでこんな時ばっかり、押しが強いの?」

「依織を抱きたいって言った時も、俺、押しが強くなかったか?」

「それは、そうだけど……」

「なぁ、最後に、キスをしてもいいか?」

「最後なんて言わないでよ。ねぇ、最後なんて、さ……」

「じゃあ、俺が隕石の爆破に成功したら、いっぱい探してくれ。通信してくれ。依織が俺を探してるって、探してくれてるって考えるだけで、俺は幸せになれるからな」


 降矢はそういうと、依織の涙を親指で拭ってから、少し屈んで触れるだけの口づけをした。依織が目を伏せる。するとさらに涙が溢れた。降矢はより深くキスをし、依織の口腔を貪る。二人はしばしの間、抱き合って深く深くキスをしていた。それが終わってから、降矢が優しい眼差しをして、まじまじと依織の瞳を覗き込んだ。


「地球の海は、この『ウ』の海と違って、真っ青なんだ」

「え?」

「『ウ』の海は、橙色だろ?」

「うん」

「いつか、写真集とか動画とか、きっとあると思うから、地球の海を見てほしい。俺が覚えてる最後の地球の風景なんだけど、すごく綺麗なんだ。いつか、依織に見せたかったんだ。せっかくだから、『ウ』の海にも、二人で行けたらよかったんだけどな」

「……帰ってきたら、一緒に地球の動画を見よう? それに、『ウ』の海にも行こうよ」


 依織の言葉に対し、頷くでも首を振るでもなく、ただ降矢は穏やかな瞳をして微笑んでいるだけだ。


「なぁ、依織。ちゃんと時計も指輪もつけてくれてるの、分かってるけどさ」

「うん」

「俺が死んだら、きちんと次の愛を見つけて、幸せになれよ。全部捨てていいから」

「っ」

「俺は、俺の愛する人が幸せなのが、一番だから。ありがとう、愛を教えてくれて」


 そう言うと、降矢は依織の額に口づけてから、腕を離した。

 それから両頬を持ち上げると、飛行戦略艇へと乗り込むために歩き始めた。


 涙が滲む瞳で、現実を受け止めたくないと感じながら、依織はその場に立ち尽くす。

 そして一度俯いた。


 だが顔を上げて、降矢が飛行戦略艇に乗り込んだのを確認し、白衣の腕の袖で涙を拭って、探索フロアへと走って戻った。


 ――降矢は、『帰ってきたら』という依織の言葉には結局こたえなかった。それが、依織の心に重くのしかかる。息苦しくなりながら、依織は自分の仕事をする事に決める。ドクンドクンとあまりにも鼓動が煩くて、三半規管が麻痺してしまったような感覚に苛まれながら、依織は必死にモニターを見た。


 戻ってきた依織の姿に、ジョ・ルゥが心配そうな瞳を向ける。

 こうして、隕石爆破計画が始まった。


 結論から言って――それは、成功した。降矢の手腕はさすがとしか評しようがなく、計画通りに飛行戦略艇は隕石へと突撃し、超PK誘導弾を隕石の最深部へと打ち込み、内部から爆発させる形で、隕石を破壊した。他に展開していた別の飛行戦略艇が、破片をコロニー到達前に撃ち落とし、計画はほぼ完璧に成功したのである。ただ、一点を除いては。


 やはり事前の予測通り、脱出ポッドの軌道だけは、制御不可能だった。


 飛行戦略艇が大破する直前で降矢は脱出したが、爆破の衝撃もあり、回収可能な宇宙域からは外れた。


 コロニー『トラ』の方角へと脱出ポッドは、吹き飛ばされたのである。


 それをモニターで目視していた依織は、再び唇を噛みそうになったのだが、降矢に噛むなと言われた事を思い出して、引き結ぶにとどめた。


「絶対に見つける」


 そう決意し、脱出ポッドが放たれたと思しき宇宙域に、依織は必死に探索システムのレーダー装置を向ける。しかしレーダーは、何も拾わない。ただ宇宙の暗黒と、それを彩る星々だけが、システムの放つ波により、モニターに映し出されるばかりだ。


 脱出ポッドに詰んである飲食物は、およそ三年分である。だが人間は、孤独の中、暗闇の風景ばかりの中では、それほど長期間は生存が出来ないという研究報告がある。そんな環境化に、降矢が今いる。無限大の恐怖を味わっているはずだと思うと、依織の指先が凍り付き、震え始める。


「依織、生存反応だ!」


 その時、ジョ・ルゥが言った。ハッとして、依織はそちらのモニターを見る。そこには回収可能領域のエリア外ではあるが、漂流している脱出ポッドが見えた。ポッド番号は、降矢のものである。必死で依織は、通信システムを起動した。


「降矢!」

『……繋がっ……依織? 隕石は……?』


 ノイズ混じりではあったが、モニターには確かに脱出ポッド内の降矢の姿が映し出され、音声も拾う事が出来た。降矢の額から、たらりと赤い血液が流れているのを見て、依織が苦しそうに顔を歪める。だがすぐに、依織は気を取り直したように、明るい笑顔を浮かべた。降矢を少しでも安心させたかったからだ。


「降矢のおかげで、無事に爆破できたよ。破片も処理された。『ウ』も、僕も、みんなも無事だよ。ありがとう」

『そうか……よか……っ……』

「すぐに救出艇を――」

『……無理だ……距離が……いい。依織、愛して……だから……幸せにな』

「何言って、すぐに――」


 依織がそう告げた時、ジョ・ルゥが依織の腕に触れた。そちらを見ると、首を振っている。


「回収可能領域を外れてる。あのエリアには、救出艇はもう飛べない。迎えには行けない」

「っ」

「回収は不可能だ。もう、軌道的に……あとは宇宙を漂うことになる」

「でも、ま、まだ生きてるのに、っ、見捨てるなんて――」

「依織……いつか助けが来ると、希望を持たせる事で延命を図るのならば、依織の発言は適切だ。でも俺は、それはただの偽善だと思う。やらない偽善より、やる偽善とはいうけど、俺は旦那さん本人も分かっているらしいんだから、これ以上は、絶望させるべきじゃないと思うぞ」


 真面目な声で、冷静にジョ・ルゥが述べた。それは、依織も理性では分かっていた。でも、感情が拒絶する。当初はそれが不思議だった。所詮は、愛のない結婚相手だったはずで、絆されたのなんて、体だけだったはずなのだから。


「あ……」


 この時、やっと依織は気がついた。

 とっくに、自分の中では、降矢が大切になっていたという事に。


 不味い料理も、行き届かない掃除も、しわしわの洗濯ものも。全部嫌だったはずなのに、帰宅した際、出迎えてくれた降矢が抱きしめてくれる時、安心して、自分が幸せを噛みしめたその理由。そんなの一つきりだ。決まっていた。


「僕は、思っていたよりも、降矢の事が、好きだったんだ。愛してるんだ」


 依織は小声でそう紡いだ。聞いていたのはジョ・ルゥだけで、彼は俯く。


「だったら、やっぱり後悔がないように。最後まで、通信が届く限り、話をしてみたらどうだ?」

「……うん」


 この日から、依織は自発的に探索フロアに泊まり込んだ。そして、降矢と終始、話をしていた。モニターの前で眠る事もあるし、逆に脱出ポッドの中で眠っている降矢の寝顔を見る時もあった。次第に画面や音声に混じるノイズは酷くなっていく。


「降矢、愛してる」

『俺も……俺もだよ……依……を……好……好き……』


 通信がほぼ入らなくなったのは、大晦日の事だった。


 それは夜遅くの事で、探索フロアに設置されている光学端末からは、隕石破壊のお祝い報道に続いて、カウントダウンの映像が流れ始めた。しかしそのカウントダウンが、依織には別の意味に感じられた。降矢との別れのカウントダウンに思えたのである。


『依織……幸……せ……な。俺……愛……』

「降矢がいなきゃ幸せになんてなれない。だから、これからも僕、ずっと通信するし、探し続ける。だから、来年こそ、一緒に祝おう。ね?」


 来ない未来であるのに、青写真を描かずにはいられない。


 いよいよブツンと通信映像が途切れた瞬間、ニュースのモニターでは花火が打ち上げられ、新年の来訪が告げられた。


 依織は暗くなった画面を暫しの間見つめ、それから探索システムではまだ脱出ポッドの位置を捕捉している事を確認する。もう何度も上層部に救助依頼は出したけれど、却下された。救助に向かう者を危険に晒すわけにはいかないからだ。助けに行けば、その者も帰還できない可能性が高い。


 それから依織は腕時計を見た。降矢がくれた、プレゼント。

 既に新年になって、三分が経過していた。

 筋を作って、涙が頬を流れていく。


 こんなカウントダウン、最悪だ。


「見る度に思い出せって? 忘れられるはずがないじゃないか」


 通信が切れた事は、あるいは幸いだったのかもしれないと考える。それまで必死に浮かべていた笑顔を消し、依織は号泣した。上辺の笑顔は得意だけれど、もう感情を抑えきれなかった。薬指の結婚指輪は冷たくて、奇妙なほどに重かった。 






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