ガンッと、人の頬骨から鈍い音が鳴り響く。
「ッ…う゛ぅ」
その後から聞こえてきた相手の声には笑いが止まらなかった。
…いつからだろう。
こんな風に人が苦しむ顔を見て喜ぶようになったのは。
「もう…やめてくれ」
「あ?何勝手に口開いてんだよ」
「ぐ…!ゲホッ」
目の前で苦しむ高校生の口へ土を放り込む。
公園の砂場の土。どこかの野良猫が便所用に使ってるかもしれねェ土。
それを咽ながら吐き出すこいつの顔を見てゾクッとする。
この時の男の顔が、一瞬だけあいつの顔と被ったから。
「なあ、教える気になった?あいつの居場所」
「お、俺は…本当に知らな、い」
「はあ?あいつと同じ高校なんだろ?知らないわけねェよな?」
「そ、んなに知りたいなら…直接学校に行けば、良いだ…ろ」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔面。それに加えて一発だけ殴った頬がパンパンに腫れあがっている。
そんな顔を俯かせながら小さな声で呟いたこいつにため息をついた。
あーあ、結局わかんねェのかよ。
最後に名前も知らないこいつの腹部を一蹴りしてその場を後にする。
悔しそうに泣く声が後ろから聞こえて、またそれにもため息が出た。
違うんだよな…そんな声じゃ。
そう心の中で呟きながら思い描くのは一人の女の声。
か細くて、弱々しくて、心から恐怖してるような泣き声。
あの声を思い出しただけで体の内側からゾクゾクと震えあがる。
あいつに出会ったのはいつだったっけ?
確か、小学2年の時だった。
俺は幼い頃から破壊衝動がひどく、母親でさえも関わりたがらない程狂気的だった。
触れたものは全て壊す。喜ぶ時は人が苦しんでいる時。
それでもただ人に危害を加えなかったことだけが救いだった。
あいつと出会うまでは。
「東京から引っ越してきた蓮見雪乃ちゃんです。みんな仲良くして下さいね」
担任が自己紹介をしている時でさえもあいつはビクビクと震えている。
その不安げな表情や仕草に見入っている自分がいた。
「おい、狭いんだよ。もっと椅子引けよ、オラ!」
「うッ…ごめんなさい」
目の前の席に座ることになったあいつに、後ろから自分の机を押しつける。
窮屈な幅で座り続けるあいつの後ろ姿が俺の胸を高鳴らせた。
「掃除、お前が変われよ」
「え…でも、今日はピアノのお稽古が…」
「ああ?」
もっと、もっと…恐怖した顔が見たい。
「きゃあッ」
「お前調子に乗ってんじゃねェの?」
俺の言うことを聞かないこいつの首を握って、勢い良く壁へと叩きつける。
初めて、人へ暴力を振るった日。
「うぅッ…やめ、て…」
「あ?何言ってんのか聞こえねェ」
「やめ、て…」
…コウくん。
そう苦しそうに涙を流しながら呼ばれた自分の名前。
理性が飛ぶっていう感覚を、あの時俺は初めて知った。
「きゃあああッ」
「先生!橋井くんが!!」
気がついた時には響き渡る悲鳴の中、担任によって腕を拘束されていた。
目の前には腹部を抑えて蹲るあいつの頭。
俺に蹴られた腹が痛くて漏れる声が、また俺の脳を誘惑してくる。
「橋井くん!何があったんですか?!」
そんなこと俺にだってわかんねェよ。
体中を震わせながら恐る恐る見上げてくるこいつが、俺をおかしくさせてくる。
泣きながら見つめてくるこいつの顔も、俺の名前を呼んでくるこいつの声も、恐怖する仕草も視線も、全てが俺を麻痺させてくる。
「こいつから喧嘩売ってきたんだよ」
苛めたくてたまらない。苦しめたくて仕方ない。
「どんなに喧嘩を売られても、暴力はいけません!」
怖がらせたい。泣かせたい。
今すぐ殴りたい。
「俺から手は出してない。そっちから出してきたんだぜ?これでチャラだろ」
徹底的に、壊したい。
「そうなんですか?蓮見さん」
「…ッ、うぁ…は…い…」
俺の目線で察したあいつが小さく返事をした瞬間、口角が自然と上がるのを感じた。
それから時が過ぎて中2の春。
クラス替えで初めて違うクラスになった。
今までずっと同じクラスだったことの方が奇跡。
その奇跡が無くなった今、毎日のように担任の目を盗んで苛めていた相手がいなくなる。
苦痛に歪んで、涙を流しながら俺の名前を呼ぶあいつの顔が毎日見れなくなる。
その分があってか、廊下でたまたま擦れ違った時には今までの倍以上遊んでやった。
「よお、久しぶり」
「…コウ、くん」
「俺と離れて安心してたんだろ?ざーんねーん」
お前が笑っていい時なんて一秒もないんだよ。
そう耳元で呟きながら長いクリーム色の髪を掴む。
色白の首が隙間から見えて、ぎゅっと掴む力を強くした。
出会った時から変わらない髪色。日本人のくせに目の色もどこか西洋っぽい。
その瞳が恐怖でゆらゆらと揺れた時が俺の攻撃開始の合図だった。
白い肌目掛けて力いっぱい蹴り飛ばす。
その痛みに耐えきれなかったのか、更に近づいてくる俺に向かって両手を目一杯伸ばしてきた。
「うッ…やぁ…!」
「は…?なに抵抗してんだよ。ちょっと離れてる間に忘れたのか?」
抵抗したらひどくなるって。
そう低く呟いた直後、右腕を引っ張り近くの空き教室へ体を放り投げる。
一発目に入れた蹴りで左足の太ももが早くも腫れてきていた。
ガチャリと後ろ手で鍵を閉めてゆっくりと笑いながら近づく。
あいつの目の前に屈み込んで、自分の顔を片手で支えながら膝に肘を置いて呟く。
「なあ、今どんな気分?」
「ふッ…ぅ」
「3秒以内に答えろ」
「え…ぁ…、こ…わ…いよ」
「ふ~ん。俺は楽しいよ」
最後ににこりと笑ってからこいつの左腕を握る。
細い手首をほんの少し握っただけで、俺の欲していた痛がる声が耳に入ってくる。
あー、でもちょっと足りねェな。
「ひッ…!」
これくらいはしないと、俺の欲求は満たされない。
ポケットから果物ナイフを取り出してパチンと刃物を固定させる。
その動作を見ただけで恐怖の色が何倍にも膨れ上がっていた。
そう、その顔…
「そうそう、それが本当に恐怖してる時の顔」
「やめ…て、コウくん!」
「お前に拒否する権利なんかねェよ」
「いや!どうして!!こんなのおかしいよ!」
「あ…?おかしい?俺が…?」
今さら何言ってんだよ。俺がおかしいことなんてずっとわかってたんだろ?
俺の目の前の席に座った時から、俺が暴力を振るい始めたあの時から。