「熱海ー、熱海ー。ご乗車、ありがとうございます」
JR東日本、特に首都圏にありがちな聞きなれた駅アナウンス。
私はずっと座っていた固い座席シートのせいで痛む腰に顔をしかめ、しかし目の前に止まっていた列車に目を奪われる。
「わ……ほんとに211系だ……」
211系5000番台。首都圏からはもう十何年も前に引退した車両。その東海地方オリジナルバージョン。
車内は残念ながら、関東では見慣れた、線路に対して並行に座席が並ぶロングシートだけど……これからついに関東を脱出する、という実感を味わわせてくれるには十分だった。
私は鉄道オタクだ。中学二年生にして、はじめての一人旅。
青春18きっぷ――言わずと知れた、JRの全ての普通や快速が一日乗り放題になるきっぷである――を手に、京都や大阪を満喫してやろうというプランである。
両親の許可も……条件付きで得て、旅行鞄も自分で準備したのをぶら下げ、ホテルも予約し、私はやる気と自信に満ち溢れていた。
というのが三十分ほど前までの私の姿である。
「えー、ご乗車ありがとうございます。この列車は普通島田行き、三両編成です。この列車にはトイレはついておりません。次は、片浜、片浜――」
長い県境のトンネルを抜け、さらに数駅を通りすぎ。
沼津発車後の車内アナウンス。私は顔面を蒼白にした。
ヤバい。おしっこもれそう。
どこかでトイレに行っておけばよかったと思ったけど、そもそも熱海では乗り換え時間がそこまで用意されてたわけではなかったのを思い出す。行けたとすれば熱海までの列車の中だが、そのときはおしっこが出そうにもなかった。
同じく鉄道オタクだったパパがもうけた条件に、私はここではじめて納得した。
「おむつを穿いていけ」
私は頻尿、というわけではないと思う。けど、飲み物はよく飲むし、その分トイレにもよく行った。
このときも、家の最寄り駅のコンビニで買ったペットボトルの緑茶を飲みきって、熱海の自販機で買い足した緑茶ももう半分を切ろうとしていたところだった。
静岡ロングシート地獄、とまで揶揄されるこの区間。ロングシート自体の座り心地はそこまで悪くはないし、むしろ良い。昼間は車内が空いていることもあって、ロングシートであることに目をつぶれば快適な旅ができる。
真の地獄はこの211系に乗った場合。
そう、車内にトイレがないのである。
トイレのある別形式を連結する場合が多いのだが、私の乗った列車は運悪く単独運用だった。
つまり、次の乗り換えまでトイレ無し。
えーっと、乗り換えは……九駅先の
私は頭を抱えた。そこまで耐えきれる気がしないよ!
電車は快調に飛ばして行く。昔の車両にありがちな轟音を響かせて。
音はめちゃくちゃ良い。車掌さんの肉声アナウンスも好きだ。鉄道オタクの琴線をくすぐる名車。たまらない。
けど、いまは、いまだけはこの車両を嫌いになりそうだった。
ロングシートの端、私は内股になり、さらにはまたに手を当てもじもじとしていた。
列車は数駅、順番に停車していき、いまは身延線との乗換駅である富士を過ぎたところ。
「次は、富士川、富士川。お出口は……」
スマホに入れてある路線図を覗けば、興津まであと五駅くらい。
もう限界だよぉ……。
車窓を楽しむ余裕なんて、私にはもう残されていない。
ぐぐっと押さえ込んだ足と足の間。白いワンピースの下。モコっとした感触に、私は余計にバクバクと心臓を高鳴らせていた。
(もう、
一瞬そんなことを思って、ブンブンと頭を振った。
だめ。トイレ行くんだもん。あと数駅、耐えさえすれば――。
けど、限界は突然に訪れた。
ごう、とモーターの音が下がりはじめた。
がくん、と衝動。ブレーキをかけた瞬間の、旧式のモーターならではのものだが、しかし。
「ひゃっ……あ……」
じわり、と温かいものがこぼれた。
「まもなく、富士川、富士川――」
減速する列車のなか、おしっこが溢れだした。
にじみ出す温かい液体は、私の穿いている下着へと吸収されていくのがわかる。
おむつの吸収体はぶよぶよに膨らみだす。
(おしっこ……だめっ、ここ、普通の電車の車内なのに……)
じゅいい、と鈍い音は、電車のけたたましい減速音にかき消される。
(こうきょうの、ばなのに……おしっこ、しちゃってる)
脳内で、いまやっていることを言語化した。
(だいすきな、でんしゃのなかで……)
減速する列車とは裏腹に、出ていく尿の量は増えてゆく。
(……だめ。だめな……こと、なのに……)
おぼつかない私の脳内は。
(………………せすじが、ぞくっと、す、る……っ!)
不思議な気持ちよさでいっぱいだった。
*
「興津ー、興津ー」
気がつくと、乗換駅についていた。
停車時間はそう長くはない。さっと荷物を整え、ワンピースの下のおむつがずり落ちないように気を付けながら列車を出る。
笛が鳴った。プシュー、という空気の抜ける音と共に、すぐにドアが閉まる。
ぐおお、と音を立てて去っていく列車を見送り、私は跨線橋の階段を駆け上がり、駅構内のトイレへ急いだ。
「うわー、ぐっしょり」
女子トイレの個室。私は脱いだおむつを目の前にかざして軽く観察していた。
黄色く染まった子供用のおむつは、もとのピンク色のかわいい柄が判別できないほどには黄色くぐっしょりと濡れていた。
パンパンに膨らんだおむつの吸収体。おしっこサインも真っ青。笑うしかない。
どうにかぐるぐる巻いて、サニタリーボックスに捨てておく。そして、旅行鞄を開いた。
下着類の予備の中から、普通のぱんつと紙おむつを一枚ずつ取り出す。
どっちにしようか。一瞬悩んで。
(……また、おんなじことがあったら困るからね)
ぱんつをしまい、おむつを身に付けた。
その口角が少し上がっていたことを指摘するものは、誰もいやしなかった。
Fin.
*
初出:2023/06/02 小説家になろう(先行掲載)・pixiv・カクヨム・ノベルアッププラス・アルファポリス