以下の要素を含みます。
・自殺未遂
・うつ描写
・自虐
・作者の自己投影
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*
うつろな目が映し出した、髪の毛越しの景色は暗い。
日暮れ時のコンビニエンスストア。ファミマ。耳栓代わりのイヤホン越しに、誰かの入店を告げるチャイム音。
それに気にせず、僕は棚をぼうっと見ていた。
雑多な食料品。飲料の入った棚からアルコール9%の安いチューハイを取ろうとして――一瞬、目が合った気がした。
レジにいた店員。おそらく女子高生。栗色の髪の少女はいつもの店員の格好ではなく、水色の安っぽいメイド服のようなものを着ていた。
そう言えば今日はハロウィンの前日だったと思い出す。
フリフリのついたエプロンを仲のよさげな店員に見せて笑った彼女。僕はどきりとした。
可愛い。
もちろん口に出したりはしない。言ったら気味悪がられるのは目に見えている。
ハロウィンは明日だ。
……明日も彼女を見れるだろうか。
よこしまな欲望が頭をよぎった。
彼女を見たい。それだけの淡い欲望。けれど。
――もしも見られるなら――明日も生きてみようか。
そう思わせるには、十分すぎた。
二十代、独身、日雇い派遣。男性。鬱病、発達障害、オタク、メガネ。ついでに童貞。
自分のステータスをあげつらって、ため息を吐く。
誰に好かれる要素もない。将来性も皆無。多分親の仕送りがなくなったら詰む生活。華やかさとは無縁。
散財だけが趣味。刹那的快楽におぼれて、僕は今日も困窮する。
恋。自分とは無縁の言葉。恋愛。僕の人生の中でとうの昔に捨てたもの。
ただ渦巻いて消えるだけの痛み。いずれ忘れ去るこれを、人は恋と呼ぶのだろうか。
少なくとも彼女の前でチューハイを買うのが急に心地悪くなってしまって。
結局手に取ったのは、チルドのコーヒーだった。彼女は極めて事務的に対応して、僕も極めて冷静に立ち振る舞った。
ほろ苦いエスプレッソの風味が、なんとなく胸にしみた。
僕はいつも死にたがっていた。
ボロボロの格好で、風呂にもそこまで入らず、ただ彷徨うだけの日々。
嫌気がさしていた。この世で生きることが苦痛で仕方がなかった。
理性で押しとどめた希死念慮が、しかし津波のように押し寄せる。
それでも薬を飲む気にならないのは、きっと破滅願望のせいだと思う。
要するに、破滅したいのだ。破滅して、自己の死を肯定してもらいたい。死ぬ口実がほしいだけだと思う。
もう生存することに執着してはいなかった。
絶望と言うには生温いのだろうが、希望なんて暖かなものも持っていやしなかった。
苦しいというには生温いのだろうが、だとすればどう表せばいいのかもわからない。
ぼうっと家の壁のシミを数えた。特に理由はない。
何もないベランダ越しの外の景色。薄曇りの濁ったオレンジが目について、僕は目を背けた。
あふれかえったごみを片付ける気にもならない汚部屋、その中で無理やり作ったスペースで僕は眠りにつく。
そんな日のはずだった。昨晩眠りについたはずの日は。
僕はあんぐりと口を開けた。
長い栗色の髪。もこもこのパジャマから覗く足。すべすべつるつる。整えられたベッド。見渡すときれいな部屋。部屋の隅の姿見。目を見開いた少女。
否応なしに流し込まれる楽しい記憶。「彼女」に成りすますための必要最低限の情報。脳にインストールされてゆく。
頭を抱えて「あ、あぁ……」と呻きを上げた。
僕は少女と入れ替わっていた。
*
「……で、どうすることもできずに引きこもってたってコト?」
「だれ……ぼくか」
僕はぼうっと、布団の中でため息を吐き――「え、ぼく?」固まった。
「傍からみると私ってこんな可愛かったんだ。……ってか記憶とか諸々が半分くらい混じってるのかな」
「え、どういう」
「どうやら入れ替わったっぽいから、私の家に来てみたの。あ、大丈夫。ママには私の友達ってことにしておいてあるから」
素っ気なく告げる彼。いや、僕の身体。いろいろとツッコみたいところはあるけど……え、まず僕ってこんな身ぎれいだったっけ。
「ってかきみの家すっごく汚かったね。きみ自身も。シャワーを浴びたら水がドブ色だった」
「へー……」
「いや他人事じゃないでしょ」
呆れ気味にツッコむ彼。いや、僕? とりあえず――ものすごく微妙な感じがするけど――以下、彼女と呼ぶことにする。
冷静にツッコんだ彼女は、たぶんあのゴミ屋敷に放置してあった中でも比較的よく見える格好で、しかも伸び切ったヒゲやすね毛なんかも剃ったうえでここに来ていたようだった。どこか女の子らしい仕草で動く彼女は、男の身体のはずなのに少女らしさを感じさせた。
「やっぱズボンは落ち着かないな……」
そう言って彼女はジーパンを脱ぐ。もともと自分の身体なのでそこまでの性的興奮は抱かない。
「こっち見ないでよ。変態」
「自分の身体に罵倒されるって何となく微妙に切ない気持ちになるね」
「マゾの気でもあるの?」
性的興奮がどこから湧いてくるのか――具体的には精神由来か身体由来かは非常に解釈が分かれるところだ。僕は魂や精神に由来すると思っているが、身体が関係ないわけでは決してないだろうというのがまたややこしいところである。要するに多分マゾは元からである。
そんなことをうっすら考えて、数分後。
目の前にはものの見事に女装した僕がいた。
「……女装した男だ」
「それ以外に感想ってないの? 結構見れるようにするのに苦労したんだよ?」
「だって自分だし……」
いや、到底自分の身体だとは思えないくらいきれいだけれども。
そんな恥ずかしい台詞は言えるわけない。気味悪いだけだ。
自然に出たため息。それに気がついたのかは知らないが、彼女は「こっちおいで」と話しかけてきた。
「ちょっとは見れる格好にしてあげる。……昨日、きみが見惚れた女の子に、ね」
記憶、読まれてるのかよ。
昨日のことを思い出すこと。多分僕もやろうと思えばできるのだろうが、やろうとは思わなかった。
なんて思われてたか、知るのが怖くて。
「安心してよ。……きみのこと、気持ち悪いとか思ってないから」
「うそつき」
「思い込み。ま、どう思いこまれててもいいけど」
彼女は微笑んだ。
「とりあえずこっち来なよ。髪の毛ぼっさぼさの私なんて見てられないし」
「さっきかわいいとか言ってなかった?」
「もっとかわいいいつもの私が見たいし」
照れる彼女の顔に、僕は。
「……ん。それならとびっきりかわいい『私』にして」
「りょーかい」
そう言って、彼女にこの身を委ねた。
「私さ」
僕の長い髪を梳きながら、彼女は話し出す。僕は返答せずにぼうっと目の前の壁のシミを数える。
「……私、気になる人がいたんだ」
「恋バナ?」
「というより、心配で」
「ああ、そういう……」
呆れた目で、僕は壁のシミを数える作業に戻る。
「でも、恋って言われたらそうかもしれない。いつもふらふらとコンビニに来て、お酒を買ってくお兄さん。髭も髪も伸びっぱなしだし、目はうつろだし……聞いてる?」
「あー、うん」
「聞いてないね。……きみのことなのに」
「へー……へ?」
キョトンとする僕。
「嘘だと思ってる?」
「うん」
「隠さないね……」
呆れる彼女に、僕は壁のシミを数えながら、口にした。
「……普段から死にたがってる人間に、他人のことを考えられる余裕が残っているわけないだろう」
「そもそもなんで死にたいの? 世界なんてとっても楽しいことにあふれてるのに」
彼女は当たり前にそんなことを言う。……僕は目を伏せた。
「虚しいだけさ。このまま生きたところで、苦しいだけだ」
「視野狭窄だよ。それに、現状は変えられる」
「どうやって! ……今のぼくはもはや最終進化系――いや、最終退化形と言うべきか。変化したところでどうやっても詰んでいる。不幸な未来と結末しか見えない。幸せになる未来など見えようもない。わかるだろう。僕の記憶と思考を少しでも覗き見たのなら。それを知ってもなお希望を見出すというのならその方法を示せよ。どうやってこの状況から好転させられると――」
「ストップ。落ち着いて」
ぜえはあと息を吐く僕。
「だから、死にたいんだ」
一言漏らして、彼女の言葉を待った。
しばらく経ってから、彼女は「そっか」と口にした。
「私は他人だからわかんないよ。……でも、大変だね」
「僕のくせに」
「入れ替わってるだけでしょ」
彼女の言葉に冷や水を浴びせられたような気になって、僕はバツが悪そうに「あ、り、がとう」ともごもご口にする。
僕の言葉に、彼女と便宜上呼んでいる女装男はニコッと笑って。
「そーだ。わかった!」
無邪気な声で告げた。
「生きる楽しさを教えてあげればいいんだっ!」
*
そうして何時間が経っただろう。
「ゆーあーまいすぺーしゃる」
僕の身体はアニメのオープニングの曲を歌っていた。少年誌の人気作の奴である。
「すっごい! めっちゃ低音出る!」
はしゃぐ彼女に、僕は呆れ顔で拍手。「よかったね……」「ねーねー、なんか歌ってみてよ! ほら、アスノヨゾラとか!!」
ボーカロイドの曲か。……元の身体でも十分歌えるんだけどなぁ……。
「またあした――のよ――るに」
結局勝手に入れられて歌った。
正直、歌うのはそれなりに得意だったりする。もちろんプロに行って通用するレベルでは決してないので、ただのカラオケ好きでしかなかったのだが。
歌い終えたあと、当然のように入れていた採点の音声が鳴る中、部屋の中には沈黙が漂う。
……そんなに下手に歌ったつもりはないんだけどなぁ。
心を落ち込ませていたら、数秒後、パチパチと拍手が鳴り出した。
「すっご……私ってこんなうまく歌えたんだ……」
「なんじゃそら」
歌は技術だ。コツさえつかんでボイトレすればだれでもある程度はうまく歌える……はずである。
やはり僕は呆れ気味で彼女を見た。……もはや彼女と呼ぶのがそこまで違和感がなくなってしまった彼女の姿を。
――僕の身体は今や女子にしか見えなくなっていた。
フリフリのブラウスにミニスカート。あとチェックのベレー帽。パンプスとタイツ。男の面影はよく見ればわかるだろうが、声だけが男なので違和感がすさまじい。
対する僕も色違いでおそろいの服を着ていた。……足や下着とシャツの隙間に風が入ってくるようで、ひどく恥ずかしい。
というか、彼女は下着まで女物を使う必要はないだろう。なんていうか、自分の変態行為を見ているようでひどく恥ずかしいのだが。
「なに?」
「かがまないでよ!」
男の、それも自分の
「なんでもないし……」
「そ。ならよかった」
目をそらした僕に、彼女は微笑んだ。
そんな時間がずっと続けばいいのに、と一瞬でも思ってしまった自分がいた。
――夕暮れ。土手の上。
子供の笑い声。電車が橋を渡る走行音。それらをバックに歩く僕ら。
「どう? 楽しかった?」
僕に問う彼女。僕は少しだけ考えて。
「どうかな」
それだけ告げた。
「女の子の身体、悪くなかったでしょ」
「ま、まあ」
「……今度、入れ替わってない元のままの私たちでデートしない?」
「気が向いたら」
「つれないなぁ……」
少し気を落とす彼女に、僕は少しだけ口角を上げた。
ごう、と強い風が吹く。風に飛んでいきそうになるベレー帽を抑え、僕は空を見た。
目を見開いた。
「……世界って」
オレンジ。照らし出す太陽。茜色の空。僕より少し背の高い彼女が、不思議そうに僕の次の言葉を待つ。
細めた目。口をついて出た言葉。
「世界って、こんなに綺麗だったんだね」
ただ、透明な僕がここにいた。
世界がこんなにも美しく感じたのはいつぶりだろうか。
幼い日は、きっと世界はこんなふうに透き通って見えたのだろう。
いつからだろう。僕の世界が曇ってしまったのは。
彼女は泣きそうな僕の背を擦る。暖かなその手が、摩耗していた僕の心を優しく温めていて。
僕は彼女の胸板に身体を預けた。
日が沈むまで、僕らはこのまま静かにしていた。
もう死んでもいいと思えた。
たとえこの一瞬が泡沫の夢だったとしても。
こんな幸福など、もう一生ありえない。そう思えた。
*
どうやって帰ったのかは覚えていない。
いつ、どうやって元の身体に戻ったのかもさだかではない。
気がつくと僕は汚い自宅にいた。もちろん少女のではなく、ゴミで溢れかえった、男の自宅である。
寝起きざま、僕は身体をまさぐる。
ガタイのいい普通の男の体。着ている服は男物のTシャツ。なんの感慨もない。髭がなかった違和感には気付くことなく。
けれど、床に散らばっていたゴミの類が、ビニール袋に捨てられて片付いていることに気づいて、僕は目を見開く。
部屋の異変。辺りを見渡してすぐに、僕は絶句した。
使っていなかったはずのベランダに干されていたもの。
ブラウス。ミニスカート。あとブラとショーツ。
昨日、外出中に買った、そして着ていた服。
「彼女」の痕跡に、ぎゅっと締め付けられる胸。喉。いまからしようとしていた行為に、心が痛むのを感じ。
「……ごめん」
ゆらぎそうになった決定。けれど、もはや未練などはなかった。
「……さよなら」
脳内には、死という決定だけが渦巻いていた。
クリアに澄んている脳内、ただ死という決定だけが浮かんでいた。
誰に言うでもない一言が、空虚なゴミ屋敷に消えた。
橋の上で、彼女は待ち構えていた。
「やっぱりここに来た」
「一応聞くけど、なんでわかったの」
「入れ替わっている間に考えたことの記憶も辿れるみたいでね」
長い栗色の髪をなびかせて、彼女は真剣な目で僕を見る。
「なんで死のうと思ったの」
「そんなこと……どうだっていいだろう」
「私が他人だから?」
「……きみに僕のなにがわかる」
僕は彼女を睨みつける。しかし彼女は、そんな僕に一歩近付いて告げた。
「全部はわからないよ。でも、わかってほしくないってことはわかる」
「じゃあこれ以上僕と関わらないでくれ。そのほうが」
「いいわけないよ。だって、私はもう他人じゃないから」
「いいや、他人だ。家族も友人も、結局は自分じゃない」
「たしかに一人の人間って意味では他の人だけどね。でも」
「でも、なんだ」
「私ときみは、一度入れ替わったじゃん」
「……だから?」
「縁は繋がった。もう、無関係の他人じゃない」
僕の目を見据える彼女。ごう、と吹きすさぶ風。息をつまらせた僕は、そっと目をそらす。
「けど、無関係の他人でいられたはずだ。なぜ、そうしないんだ」
彼女のスカートがはためくのを見ながら、僕は吐き捨てる。
「放っといてくれよ……死なせてくれよ……」
風に飛ばされたその一言に、しかし彼女は目を伏せて。
「私が嫌だから」
僕はまた、息をつまらせた。
「そうだよ。エゴだよ。あなたが死んだところで私になにか影響があるわけでもない。でも、私が嫌なんだ」
彼女は、僕をまっすぐに見据えていた。
「あなたがいない世界でも私はきっと平然と生きていく。けど、その世界の私はきっと、喉に小骨が引っかかっている。いま、あなたを止められなかったという後悔が、鋭い小骨になって私の喉を抉るんだ」
背中に寒気が走るほどに、ヒートアップする彼女の語気。僕は思わず叫ぶ。
「だからなんだッ!」
「だから、止める。未来の私が後悔しないために」
まっすぐに僕を射抜く彼女の視線。そして言葉。
過呼吸気味で気圧される僕。顔を上げると、彼女は満足げな顔で未だ僕を見据えていて。
次の言葉を待っているのか。
僕は緩慢に思考する。けれど、僕の脳内辞書をどれだけ漁っても、次の言葉は出てこなかった。
息をする。呼吸音。風。風。風。
いつの間にか、彼女は僕のすぐそばに来ていた。
「私は、あなたに消えてほしくない」
「……なんで」
そして彼女は、少しだけうつむいて。
「――――好きな人に死んでほしくないって思うのはそんなにおかしい?」
「好きって……そんなこと、無理に言わなくてもいいよ。僕のどこが」
「どこがとかじゃない! ……きっと言葉じゃ説明できないけど」
「そうか。……好きになる相手は選んだほうがいい。僕よりいい男――男とも限らないが――もっといい相手はいくらでもいる」
「あなたがいいから」
「僕じゃきみを幸せにできない!」
「幸せにしてくれなくてもいい。――あなたといれば勝手に幸せになるから」
醜く喚く僕を、彼女はそれでも直視して――あたかも天使のように微笑んで告げた。
「一緒に幸せになろう」
僕はついに膝をついた。
「僕に幸せになる権利は」
「ないわけないよ。私が許します」
「……ああ、もうだめだ」
かくりと首をたれ、僕はうつろに地面を見た。
「こんな甘い言葉を否定できない自分が、大っ嫌いだ」
自己嫌悪。脳内を黒く塗りつぶそうとするそれに、しかしそれに身を委ねようとした刹那。
僕のあごを引き上げる彼女。驚愕する僕の唇に、柔らかい感覚。
――バチバチとフラッシュする感覚が、脳内を駆け巡った。瞬間、ホワイトアウトする視界。
「ハーッ、ハーッ……」
呼吸音。閉じられていた瞼をゆっくり開くと――目の前に、僕がいた。
「……こんな感情抱えてたんだ」
僕の身体――に入った彼女が呟く。
体を通して、彼女の記憶が脳内にあふれる。
目をそらそうとして――けれど、僕の理性がそれを許さなかった。
もっと彼女を知らなきゃいけない。そう叫んでいた。
読みたくなかった記憶を、再生した。
――あの日。ハロウィン前日。
閑散とした午後。いちおう駅前ではあるが、各駅停車しか止まらない駅の、閑静な住宅街の端っこの駅前だ。夕方のラッシュが始まれば仕事が捗るというものだが、それまでは暇である。
別のバイトと世間話でもしながら潰す時間。不思議の国のアリスのコスプレはハロウィン前だからということらしい。フリルのついたエプロンを軽く見せびらかして。
そんな私を見る誰かがいた。――僕だった。
よくふらふらとここにきて、酒やおつまみを買っていくお兄さん、という認識だった。
恋とかそういうものではなかった。はずだ。けれど、気になっていた。
――きっと、心配というか、本当に「気になっていた」としか表せないものだろうか。
日に日に浮き沈みしていく彼の様子が、気になっていた。
例えば「今日はこの前より少し元気そうだ」「今日は昨日より具合が悪そうだ。大丈夫かな」「今日はどうかな」「明日は――――――」といったふうに。
彼が来るのが楽しみだった。
目が合った。凝り固まった心がほぐれたような気がした。彼は極めて冷静に立ち振る舞った。私も極めて事務的を装った。
彼が買ったチルドのコーヒー。仕事終わりに同じのを買った。
エスプレッソの苦い風味が、なんとなく胸にしみた。
この苦みを、彼を思うときの暖かな気持ちを、人は恋と言うのだろう。
――僕は彼女を見据えた。彼女も僕を見据えた。
「ごめん」
どっちの言葉だったか。僕かもしれないし、彼女かもしれない。
「こんなに深くて苦しい絶望の中にいたんだね」
彼女のわかったような言葉が、しかしすっと入ってくる。
「わかってほしくないんじゃなかったの?」
「いまでは、そんなことはないんだ。……きみの気持ちも、わかってしまったから」
「そっか」
橋の上、既に日の沈んだ星のない藍色の空の下。沈黙。
自動車の音。雑踏。風。川の水音。――沈黙。沈黙。沈黙。
――――ただただ、優しい静寂だけが、二人の間に漂っていた。
*
現状なんて変わらない。季節は無常、無情に過ぎてゆく。
「なあ」
「なーに?」
「僕の身体で遊ぶのやめてくれないかな」
頭を抱える少女。否、少女の身体の中に入った僕。
目の前で微笑んでワンピースを翻す彼女、つまり僕の身体。どうして。
「入れ替わりのルール、まだよくわかってないんだから。それに、あなたも女の子の身体であれやこれや」
「しないから」
ツッコミを入れる僕。ため息をついて。
「ってか、ここ病院だし」
「忘れてた」
「あっけらかんと言うことでもないでしょ」
改めて周りを見渡すと、周囲の視線が僕らを突き刺していた。ごめんなさい。
真昼間。精神科。真っ白な待合室で、僕はベンチに座っていた。彼女同伴で。
結局、僕は何も変わっていない。
二十代、独身、日雇い派遣。男性。鬱病、発達障害、オタク、メガネ。ついでに童貞。
自分のステータスをあげつらって、ため息を吐く。
将来性も甲斐性もないまんまだし、華やかさとは今でも無縁。今日も、胸に消えない痛みを抱える。
きっと、最悪だ。
自分より状況が悪い人間なんてごまんといるだろうし、僕が最も不幸だなんて思わない。ただ、生き地獄のような日々は無情に無常に過ぎてゆく。
悲劇のヒロインぶって助けを乞う自分が大嫌いだ。そもそも自分そのものが大嫌いで、これはずっと揺らぎようのないことだ。
だけど、いまとなりに彼女がいる。
悔しいけれど、彼女はそんな僕が好きらしい。
最悪だけど、それだけで。
明日も生きてみようか、と思わせるには十分すぎたのである。
「どうしたの? 私の顔を見て」
「なんでもないよ」
沈黙。静寂が漂った。
彼女の手の上に僕の掌を重ねて。
握り返した彼女。僕はそっと目を細めた。
冬の足音が遠くから聞こえてきた、そんな秋の話。
Fin.
*
初出:2023/11/03 各小説サイトにて掲載