黙々と食べ進める少女の姿に、厨師らが見惚れている。
勲から見て、高校生ぐらいの年頃の少女ではあるが、料理に髪がかからぬように耳にかけ、大口で頬張りながらも上品に咀嚼する姿は、見ているだけで清々しい。
「ハッ! 旨そうに食べるじゃねぇか」
少女の食べっぷりにハオが感嘆の声を上げる。
「お前らも、嬢ちゃんに見とれてねぇで、冷めないうちに食えよ」
その声に我に返ったのか、少女に見とれていた他の厨師らもオムライスを掻き込むように食べ進める。
空になった皿からもまだ湯気が見えるのではないかというほどの早さで、それぞれが笑顔で食べ終えると、感謝を捧げるように両手を合わせた。
少女は薄焼き卵とライス部分のバランスを崩さずに、器用に食べ進めている。
本当に空腹だったのだろう、一口頬張るごとに少女の表情が輝き増していく。
「よく見りゃ、別嬪だなぁ」
「このあたりに、あんな娘、いたっけ?」
賄いのオムライスを食べ終えた厨師らが、食後のお茶をすすりながら、顔を見合わせている。
厨師らの視線をまるで気にせず、ただひたすらにオムライスと向き合って食事を終えた少女は、満面の笑みで華奢な手のひらを指先までまっすぐに合わせて目を閉じた。
「ごちそうさま」
まるで祈りの言葉のように、椿のような麗しい色の唇が紡ぐ。
少女らしからぬ艶やかさに、勲は思わず旨に手を当て、頭を垂れた。
「本当に美味しかった。私の勘はいつだって正しいわ」
「……ありがとう」
夢にしてはリアルな夢だった。
本当にいい夢だった――。
勲は目を閉じて頭を垂れ、この厨房でのひとときを振り返った。
初めて働く厨房であるのに、この身体の持ち主である『シン』が覚えているのか、なんとも言えないあたたかさと居心地の良さに包まれている。
なにより、七十歳という歳を忘れ、全盛期の全力で動くことの出来る充実感に、勲は高揚する気持ちを隠しきれず、唇を噛んだ。
浅ましい願いだが、この夢がこの先もずっと続いてくれたら――
そう願いながら目を開けた瞬間、音もなく目の前に迫っていた少女と目が合った。
「私は、リンファ。あなた、うちに来ない?」
「え……?」
少女の纏う雰囲気が、店に入ってきた時からは想像がつかない高貴なものに変化している。
およそこの年代の少女とは思えない表情に、勲は言葉を失い、視線をさまよわせた。
「嬢ちゃん、そんなにコイツに惚れたのかい?」
少女の言葉を冗談と受け取ったのかハオがからかう。
「ええ、もちろん」
リンファと名乗った少女は、慌てもせず、優美な仕草で彼らを振り返り、微笑み返した。
「これだけの料理の腕を持ち、惚れないなんてどうかしてるわ」
即答するリンファに、ハオと一緒に笑っていた厨師たちも押し黙る。
「あなたの腕に惚れたの。ぜひ、私の料理人になって」
勲に呼びかけるリンファの表情は、あくまで真剣そのものだ。
これまでの彼女とはまるで別人のような表情を前に、勲はまだ応えられずにいる。
「いやいや。嬢ちゃんが雇える訳ないだろ。それにシンはうちで働いてるんだ」
「ご心配には及びませんわ」
リンファはそう言うと、蝶のように手のひらをひらめかせ、ハオに見えるように手のひらを開いた。
「あなたなら、これがなにかお分かりになるでしょう?」
「……翠蘭国の金貨!? どうして……」
大きさにして少し厚めの五百円玉ほどの金色の硬貨を前に、ハオが驚愕の声を上げる。
「先ほど名乗りましたわ。まだお気づきになられませんの?」
リンファは硬貨を裏返し、そこに描かれた麗しい少女と自分の顔を見比べさせる。
「あ……。リンファ……あんた、その名前、まさか……」
彼女の一挙一同に釘付けになっていた厨師らも、驚きを隠せずに掠れ声を震わせた。
「王族の姫様の名前じゃねぇか!」
ハオが叫び、蹌踉めくように後退する。この世界のことに明るくない勲にも、彼らの驚きが伝わった。
リンファは彼らの反応に満足げに頷き、形の良い唇の端を持ち上げて勲に向き直った。
「あなたのような人を求めていたのですわ。ぜひ王宮に来て、私の元で働いて――」
「申し訳ありませんが、それは無理です」
リンファの言葉を最後まで聞かず、勲は深く頭を下げた。
「……なぜ? 厨師にとってこれ以上の名誉はないはずよ」
断られるなど考えもしていなかったリンファが、怪訝そうな声を上げる。
「幼い兄妹と約束しましたので。明日も来てくださると」
「……えっ? なにそれ」
その反応には、先ほどまでの優美で余裕がある少女らしからぬ仕草よりもずっと、本来の彼女らしい年相応のわがままさが垣間見えた。
「そんなことで、私の申し出を断っちゃうの?」
問いかけに勲は顔を上げ、リンファを見つめた。
微笑みかけられたリンファは、戸惑うように目を泳がせるが、勲はその目を真っ直ぐに見つめて続けた。
「ここに来れば誰もが私の料理を食べられます。食べたいと思う人のために料理を作る……これが、私の幸せです」
ここは、もう命はないと悟った後の、夢のような時間と夢のような世界だ。
勲が料理人として生きてきた五十年間という歳月の重みを持ったその言葉に、リンファは唇を噛み、顔を歪めて笑みを返す。
「……ここに来れば……」
絞り出すような声が、ほどかれたリンファの唇からこぼれていく。
「ここに来れば、あなたの料理が食べられるのよね!?」
半歩踏み出すほど勢いよく訊ねられ、勲は思わず胸の前で両手をあげる。
「だったら通うわ。私の予約も入れておいて、一年分!」
リンファはそう言い放つと、勲に背を向けてハオへと歩み寄る。
そうして先ほど手にした金貨を押しつけるようにして、店を出て行った。
扉が開かれ、昼下がりの陽光がリンファの影を濃く映し出し出す。
生風が抜けたかと思うと、扉が勢いよく閉ざされた。
「やってくれたなぁ、シン……」
ほとんど絶句したように、ハオがリンファの去った扉を見つめながら呟く。
「申し訳あり――」
「上客の予約だ! しかも一年、前払いだぞ!」
勲の謝罪の言葉をハオの歓喜の声が遮る。
「嬢ちゃん、笑ってたぜ!」
「王族のお墨付きだなんて、最高の気分だ! こりゃ忙しくなるぞ!」
ハオに触発され、厨師たちが手を叩いて喜ぶ。
熱に浮かされたような高揚感に包まれながら、勲は苦笑混じりに頬をつねる。
ちくりとした痛みがしっかりと感じられ、思わず噴き出した。
夢のようでいて、これは夢ではない。
この異世界で歩むのは、シンとしての第二の人生だ。
(了)