すべての下拵えが終わり、昼の営業時間は嵐のように慌ただしく過ぎた。
厨房の料理人たちと料理を通じて接触するうちに、少しずつこの夢の『設定』が明らかになりはじめた。
勲は、この世界では、シンという名であり、翠蘭国という国の首都翠玉城で働く若き厨師らしい。
シンは、自分の店を持たず、知り合いの店を転々と手伝うという毎日を送っており、この店もその一つということであった。
もっとも、肉体を同じくしていても、シンに関する記憶のない勲には、次の行き先や自分の家さえ、見当がついていない。
急激に上達した料理の腕以外、すっかり記憶を失ってしまったシンに対し、料理人らは不思議と好意的に接してくれた。
料理の腕があまり良くないにもかかわらず、複数の店で世話になっていたことを考えると、シン自体も人好きのする性格であったのかもしれない。
「……けど、記憶がないままってのは不便だな。家がどこかもわかんねぇんだろ?」
「まあ、そういうことになりますかね」
「参ったな、俺も家までは知らねぇし……」
夢なので、すぐに覚めるかと思ったが、今のところそのような兆候はひとつもない。
「でも、記憶を失った代わりに料理に目覚めたのかもしれませんね」
「そうだよ! きっと料理の神が降りたんだ!」
冗談とも言い訳ともつかない勲の言葉に、頭に布を巻いた男――ハオが、興奮した様子で声を上げた。
「記憶がなくなろうが、この腕なら、うちの店でどうにでもしてやるさ! 二階も空いてるしな!」
ハオはこの店のオーナー兼料理人らしく、力強く勲に呼びかける。
「ありがとうございます。大変助かります」
夢が覚めるまでは、流れに逆らわずにいた方がいいだろう。なによりここで好きなだけ料理の腕が振るえるのなら、これ以上望むことはない。
「じゃあ、そうしよう。女房にも伝え――」
鷹揚に頷いたハオが、不意に言葉を切り、怪訝な顔で耳を澄ませている。
「子どもが泣いてますね……」
か細い声だが、勲の耳にもその声が届いた。
少し前に来店した親子連れだろうかと記憶を辿っていると、甲高い女性の声が響いた。
「いい加減にして! あなたがお店のご飯なら食べるって言ったから連れてきたのに!」
なにが起きているかは容易に想像がついた。
勲は厨房から飛び出し、ほんの数組が残るだけになった客席へと向かう。
「だって! 美味しくないんだもん!」
叱られて言い返しているのは、小学生に上がる前くらいの幼い少年だ。
その子につられて、妹らしき少女も目にいっぱいの涙を浮かべている。
皿の上には野菜炒めの野菜だけが残されていることから、野菜が苦手だということはすぐにわかった。
「甘いのがいい! こんなの苦くて食べられないよ」
「苦くなんてないでしょ! お料理を作った人に失礼じゃない!」
勲の姿に気づいたのか、母親がさらに子どもたちを叱る。
勲は子どもたちのそばに寄り、目線を合わせて屈むと、微笑みかけた。
「ごめんな。もっと甘くて美味しいのにしよう」
「え……?」
勲の提案に、泣きじゃくっていた少年が目を瞬く。
「あまくておいしいの……するの?」
傍らの妹も、勲の言葉をたどたどしく繰り返した。
「もちろん。あまくて美味しければ、食べてくれるかい? おじさん、頑張るから」
微笑みかけてみたが、幼い兄妹は顔を見合わせたまま、なかなか頷かない。
「そんな、子どものわがままなんで、気にしないでください」
母親が居心地悪そうに子どもたちを押しやり、取り繕ったような笑みを浮かべる。
断ろうとする雰囲気を感じ取った勲は、母親に向き直り、頭を垂れた。
「いえ。料理で人を笑顔にするのが、料理人の務めですから。少しだけ、お時間をください」
「そこまでしてくださるなら……。あなたたち、ちゃんと食べるのね?」
「美味しかったら、でいいからな」
母親の厳しげな問いを笑顔で和らげ、勲は子どもたちに念を押す。
「……うん!」
兄妹は大きく頷き、母親に促されて席に座り直した。