油と火の匂いが、鼻孔を刺激する。嗅ぎ慣れた匂いに勲が目を開くと、顔をのぞき込んでいた坊主頭の男が安堵したような笑みを向けた。
「怪我はないか?」
「ああ……」
問いかけに応じながら、刺された腹部に手を遣る。ざらざらとした布の感触が手のひらを撫でただけで、痛みは感じられなかった。
「これ以上、厨房で転んでくれるなよ、シン」
上体を起こした勲の肩を叩き、『シン』と呼びかけながら坊主頭の男が去って行く。その服装は着物を上下で分割したような見慣れないものだ。
厨房と男が呼んだ場所の奥には、大きな竈が三つ並んでおり、赤々と燃える火の上に、鋼製の丸底鍋が置かれるのが見えた。
「中華鍋……」
見覚えのある鍋に油と食材が次々と入れられていく。油が弾ける小気味よい音と香辛料の香りが広がり、別の竈にかけられていたスープが注がれると、鶏の香りが濃く漂った。
「なるほど、中華か……」
天井付近から吊り下げられた肉が、頭上で揺れている。
燻された肉を一瞥し、勲は自分の居る場所を検めた。
知識として合致するのは、中華料理の厨房であるが、火力調整の困難な竈など、設備は非常に古い。
包丁は長方形の大きな刃のよく手入れがなされた中華包丁で、木のまな板の上に置かれている。
「ぼさっとしてないで、早く続きをやってくれよ」
厨房から年配の料理人が大声を張る。
頭に布を巻き付けた料理人は、ひっきりなしに中華鍋を振り、お玉で具材をかき混ぜている。
鍋が振られるたびに具材と湯気が躍り、鍋底とお玉が当たる音が心地よいリズムとなって響いてくる。
彼の奏でる調理の音だけで、その腕が並々ならぬものであることが伝わってくる。勲はその音に耳を澄ませ、厨房に漂う匂いの変化に集中する。
調味料が鍋肌から加えられる際の、香ばしい香り、強火で炒められた食材が弾ける甘美な音。
もう聞くことができないと諦めていた音や匂いが、瑞々しいほどに勲の前に満ちている。
「……シン! シン!」
「おい、シン! 返事は!?」
厨師らの視線が勲に向けられ、叱責するような呼びかけが飛ぶ。周囲を見回したが、勲の他にそれと思しき人物はいなかった。
「は、はい!」
咄嗟に頷いた勲は、
『続き』というのは、どうやら、下ごしらえのための皮むきを頼まれているらしいことがわかり、調理台に置かれた包丁に手を伸ばす。
強盗に刺されたときの恐怖が蘇るかと思ったが、勲の手はすんなりと包丁の柄に届いた。
研いだばかりの包丁に、顔が写っている。出で立ちは厨房の他の者たちと同じ、頭髪は頭頂部で団子のようにまとめてある。そしてその顔は、七十年間見てきた自分の顔ではなかった。
「最後に見る夢としては、上等だな」
左手で触れた頬は、若々しい張りのある滑らかな肌だ。
なぜ中華料理の厨房なのか、どうしてこのような格好で、自分と似ても似つかない青年の姿であるのかはわからなかったが、目の前の食材や至る所から漂ってくる熱気と食べ物の匂いに、勲は口元を緩めた。
薄手の中華包丁を握りしめ、まずはにんじんを手に取る。水洗いは済ませていたらしく、手に取るとひんやりとした冷たさがあった。
見たところ、厨房には水道らしきものがない。大きな
「楽しんでやろうじゃないか」
大量の野菜の下拵えは、下積みの修行時代以来だ。
勲はにんじんの両端を落とすと、左手で鮮やかな手つきでにんじんを回しながら、包丁を縦に滑らせた。
向こう側が透けるほどの薄皮が、するすると面白いように剥けていく。
手入れがなされた包丁が野菜の肌を滑る感覚が心地よく、勲の動きはさらに加速する。
「おい、あれ見ろよ……」
「一体、どうなってんだ?」
ざわめきは勲の耳には届いていない。
瞬く間に
「新じゃがだな」
呟き、左手の上でじゃがいもを転がし、芽がないかを鋭く観察する。
そうして見つけた芽を包丁の刃元で抉り取り、半分は皮を剥き、半分は皮を残した。
一度包丁を置き、玉葱の皮むきに取りかかる。
茶色く変化した表面の皮を取ると、頭と根を落とし、縦に半分に切った。
中心部を包丁で弾き出し、くしぎりにしたものを半分、みじん切りにしたものを半分用意していると、勲の周りで不意に拍手が起こった。
「すげぇ……。急にどうしたんだよ、シン」
「俺、切り方の指示まで出してたか?」
竈のところで調理をしていた先輩とおぼしき料理人らが、勲を怪訝な顔で見つめている。
「いえ、そこにある材料に合うように揃えただけです。みじん切りがもっと必要なら、そのようにしますが」
「いや、完璧だ。炒め物にチャーハン、餃子……。玉葱のみじん切りなんて、もよく見りゃ三種類も用意してやがる!」
驚きのあまり自らの額を叩きながら、頭に布を巻いた料理人が目を丸くしている。
「具材の大きさに合わせるのが基本と習いましたので……。いけませんでしたか?」
勲の問いかけに、料理人は信じられないものを見る目で彼を見、両肩に手をかけた。
「お前、本当にシンか? 頭を打って、どうかしちまったのか?」
問いかける声が震えている。この夢の設定が少しずつ見てきた勲は、笑って首を横に振った。
「どうもしませんよ。さあ、次はなにをしましょうか。なにか手伝うことは――」
「じゃあ、俺んとこだ!」
「いや、俺も頼む! 玉葱が目にしみてたまんねぇんだよ」
勲の申し出に、数人の料理人が勢いよく手を挙げる。勲は彼らの持ち場を一瞥すると、再び包丁を振るいはじめる。
その手元と表情は、大好きな料理を続けられる夢への喜びに溢れていた。