都立清平高校、一階。
昼休み直後だというのに夕方のように仄暗い陰気な雰囲気の廊下、その中頃にある保健室の前に、ざわざわと落ち着かない女生徒たちの列ができていた。
当然、その中には美咲と麻子の姿もある。
「いつものことだけど、どうしてこういきなりなのかなぁ」
美咲はそう愚痴をこぼす。
「まぁいいじゃん、体重量られるわけでも、裸になるわけでもないんだから」
「私は、突然体重量られたって何も困らないんですけど!」
麻子の言葉に、美咲はムキになって反論する。
どうやら付け焼刃の勉強では追試のほうはどうにもならなかったらしい。そのわかりやすい表情から不機嫌なのが黙っていてもわかる。追試で赤点なら次は退学を賭けた最終試験。
そう、今や美咲の危機は部活動どころか学校生活そのものの危機なのだ。
なので、少々気が高ぶっていても、無理はない。
しかし、その高ぶりは麻子にとっては格好の遊び道具らしく。
「まあ体重はそうね、でも、じゃぁ、胸は?」
不機嫌を隠そうともしない美咲に、麻子はニヤつきながらそう尋ねる。そのニヤついた顔の下についている特盛な双丘を強調しながら、だ。
「胸は……って、別に事前に教えてもらってても、いきなりでかくなったりしないでしょうが」
確かに。
美咲の的確なツッコミに麻子は妙に納得して、うんうんとうなずく。
「まぁ、陸上やめて運動しなくなったら、おっきくなるんじゃない?」
「ほんとに?」
「うん、主におなかが」
「うがぁぁぁ!」
麻子の言葉に、美咲はそう叫んで麻子の首を絞める。麻子は、ぐぇぇと大げさな声を出してじたばたと暴れた。
「ちょっとそこしずかに」
そんな二人に、行列の先頭に座っていた不機嫌な顔の保険医が叫ぶ。
「はぁい」
二人でハモるようにそう言うと、小さく舌を出した。
「でもさ、やっぱりこの突然な感じはいやだなぁ、私は」
少し落ち着いたのか、美咲は小さくつぶやく。
それに対し、麻子は独り言のようにさらりと答えた。
「仕方ないでしょ、これってエレメンツ検査なんだから。前もって教えてたら逃げちゃう人もいるんじゃない?」
そうこれは、英語の授業中いきなり放送で告げられたエレメンツ検査。
この行列は、その順番を待つものなのだ。
そしてこの検査は、いかなる理由を並べても決して回避することのできない、国の定めた最重要検査でもある。それは、嫌だろうが何だろうが瀕死の重病人でもない限り避けることのできない検査なのだ。
なので、こうやっておとなしく並んで順番を待つこと以外、美咲や麻子にできることはない。
「でも、逃げるったって、検査の前じゃ、自分がエレメンツかどうかなんてわかんないじゃん」
美咲がそういいながら麻子を見ると、麻子は、美咲の言葉など聞こえていないように、保健室とは反対側、廊下の外をじっと見つめている。
そして、眉間にしわを寄せて、窓の外を見たまま美咲にささやいた。
「ねぇ、美咲、あの、廊下の外、中庭のところにいるのって……」
言われて美咲も、廊下の外、校舎の影になっている薄暗い中庭を見た。
そこには、真剣なまなざしで立ち尽くす男子生徒が一人。
「あれって、たしか」
美咲はそういって首をひねる。
確かうちのクラスメイトだったんだけど……。
名前がどうしても出てこない。新学期早々なうえ、その男子生徒自身も暗くて印象が薄い。それ以前に美咲の記憶力は驚くほど弱い。
「だれだっけ?」
「佐伯君、
麻子の言葉に、美咲は、ああそうだった。と小さくつぶやいて、その姿をもう一度見つめる。
中庭の真ん中、大きな
しかし美咲に見えるその姿は、ただそこに立っているというよりは、もっと何か、その……。
「ねぇ、美咲。あの人、なんかのぞいてる感じじゃない?」
そう、麻子の言うとおり。中庭の棕櫚の木の陰にたたずむその姿は、どう見てもその陰から保健室のほうをのぞいている様にしか見えない。怪しすぎるほどに怪しいシチュエーションだ。
「変態、なのかな?あいつ」
美咲は佐伯颯太を見つめながら、麻子にそうたずねる。
「うーん、でもあそこからのぞいたって、見えるの保健室の入り口だけだよ」
これもまた、麻子の言うとおり。今、佐伯颯太の立っている位置からでは、見えるのは女生徒の並んでいる廊下と保健室の入り口だけ。
保健室の中をのぞきたいなら、校庭側からじゃないと無理だ。
「それに、身体測定じゃなくてエレメンツ検査だよ。別に服脱ぐわけじゃないんだから、のぞいたって面白いことなんかしてないよ」
いや、別に身体測定だって、面白いことはしてないよ。
心でそうツッコミを入れながら、美咲は佐伯颯太の姿から眼を離せないでいた。確かにこのエレメンツ検査では中をのぞく意味があるとは思えない。しかし、目的は良くわからないけれど、あの姿と様子から、彼がのぞきをしているようにしか見えないのだ。しかも
妙に真剣に見えるんだよな。
その強いまなざし、硬く閉じられた口元。眉間のしわと握り締められたこぶし。
美咲には、まるでレース前のアップを終えたばかりの陸上選手のような、みなぎる気迫の澱が佐伯蒼汰の身体を包んでいるような、そんな気がしていた。
いや、ちがう。
そんな熱い情熱を感じるようなものではなく、何か、こう、硬く冷たい、殺気じみた狂気が。
「ちょっと、美咲、次だよ」
奇妙な雰囲気をまとう佐伯颯太を見つめているうちに、順番が回ってきたのか、麻子が言いながら美咲の肩を叩いた。
「なに見とれてんのよ、確かに美形だけど、きっとあれかかわると面倒な方面のオタクだよ」
「え、そうなの?」
「いや、しらないけど」
無責任な、それでいて極めて失礼な人物評に、美咲がひとこと言おうとしたとき、先ほど二人を注意した保険医が美咲を呼んだ。
「つぎ、田辺さん。田辺美咲さん」
「あ、はい」
美咲は麻子に軽く手を振ると、佐伯蒼汰の方にちらりと視線を飛ばして、小さく鼻歌を歌いながら保健室へと入る。
ま、私には関係ないか。
美咲が佐伯蒼汰への疑念ををそんなふうに振り切りながら保健室に入ると、中には、これまで何度も経験したのと同じように、白衣を着た男が二人とスーツの男が二人、そして見慣れた測定器がおいてあった。
幾度となく繰り返されてきた手慣れた検査。
男たちの表情に緊張感が見られないのも、仕方のない事だ。
「田辺……美咲さん?」
「はい」
美咲はそう短く答えると、なれた手つきで前髪をかきあげた。
そう、この検査で調べられるのは脳波なのだ。そのため、微妙に感触の良くない測定パッドが額に貼りつけられることになる。
「じゃ、調べるからね」
白衣を着たデブとノッポの二人のうち、デブの方がそう言うと、新しく取り替えられたパッドの表面に青いジェルを塗って美咲の額に貼り付けた。
ひぇ。やっぱりこれなれないなぁ。
その、やや湿った微妙な感触に、美咲は小さく悲鳴を上げる。
そんな中、黒色のアタッシュケースのような機械がウィーンと唸りを上げた。
それは、モバイルパソコンのようなかっこうの機械。モバイルパソコンならキーボードのある下側にパッドにつながる電極が接続され、ふたの部分にはモバイルパソコンと同じように画面がある、そんな機械だ。そして、このまま何秒かじっとしていると、その画面に即座に結果が出るようになっている。
見慣れた機械、見慣れた作業。
音のない部屋に、機械音が無機質に響いた。
数秒後、美咲は、もうソロソロかな……といった感じで画面を覗き込む白衣の男を何気なく見た。
そして、その表情に得体の知れない不安を感じたのだった。