「みぃさぁき、ねぇ、あれってどうおもう?」
うららかな朝の陽光差し込む、春の教室。
どことなく春先の軽やかさを感じられる、何かしらの花のにおいに包まれた教室の空気の中で、
「なによ、とつぜん、あれって」
話しかけられた少女は、いぶかしげに首をひねる。
田辺美咲、16歳。都立清平高校2年B組のいたって平凡な少女。
黒く長い髪を軽やかに窓からの風になびかせ、その血色の良い顔を春の陽光にさらしている。
きりっとした大きな瞳に長いまつ毛。低くも高くもない小ぶりな鼻。風と陽光を受けるすらりと伸びた手足とスリムな体つきは、ちょっとしたセレブの娘でファッションモデルのように見えなくもない。
まぁ、実際は、サラリーマンの娘でただの高校生なのだが。
「あんたねぇ、新聞もニュースも見ないわけ?」
「見ないわよ、悪い」
「ほんと、陸上バカなんだから」
麻子はそう言うと、右手の人差し指をピンと立てくるくると回しながら朝から世間を騒がせているニュースについて解説を始めた。
指にあわせて、その大きな瞳の中の黒目もくるくると回っているように錯覚する。美咲とは正反対に小柄で少しぽっちゃりな麻子にはそんな仕草がよく似合っている。
そして、ただ事件のあらましを語るだけなのに、麻子のその表情の豊かさ。
まさに『可愛い』と表現するのがふさわしい美咲にはない魅力だ。
美咲は、事件の概要から犯人の特徴まで詳しく語るそんな麻子にしばし見とれる。
しっかし、よくそんな細かい事まで暗記してるもんだわ。
と、その事件の詳細までしっかりと覚えている、なにげに人並み優れている麻子の記憶力をうらやみながら。
というのも、今から90年くらい前。
21世紀の中頃に起こった完全自律型AIによる世界同時多発ハッキングテロ。
世界の終わりを見たがったAIによる現実世界を使った実験の舞台装置として、防御不能のウイルスプログラムが世界中に散布され、大小30の国の軍事コンピューターがAIの支配下に、そして、結果的に大規模核攻撃によって数千万の命が奪われた。
世に言う「審判の日」
世界は、その日一度死んだのだ。
しかし今では、そんな世界的悲劇でさえも、多くの人命とともに社会機能が根本から破壊され尽くされたと教科書で学ぶ過去の出来事。
そう、人間はたくましくもしつこく、この90年という月日をかけて21世紀初頭の社会レベルを取り戻したのだ。しかし、一方で世界の破滅をもたらした根本であるIT規制は苛烈なもので、一部政府機関以外、デジタルデバイスの使用は禁止。
スマホもネットもない、紙とペンの世界。
そんな世界で、麻子のような記憶力は貴重なのだ。
「バカで悪かったわね」
美咲が羨望と失望の両方に小さくため息をつく。しかし、麻子はそんな美咲に構うことなく続けた。
「で、その犯人、やっぱりエレメンツだったんだって」
そんな美咲の落胆をよそに、何か特別な秘事を打ち明けるかのように麻子は少しばかり芝居がかった様子で目を見開いた。
「また、か」
そんな麻子に、美咲はそう漏らして、また、ため息をつく。
エレメンツによる重犯罪。
麻子が今しがた口にした詳細によれば、居酒屋での口論の挙句に相手を丸焦げにして殺害した今回の事件も入れて、ここのところエレメンツ犯罪は頻発している。
「そう、またなのよ、こわいよねぇ」
そういって、なにやら考え事している美咲をよそに、麻子は身震いするようなしぐさをして見せた。
そのしぐさは、少女特有の芝居っ気をまとって少しばかり大げさのように思えたが、多かれ少なかれ世間の一般人も同じように思っているに違いない。
そう、その恐怖の矛先は、エレメンツ。
人間には到底なし得ないことを、軽々とやってのける異能の力を持つ、新たなる人類。
それは、世界的にデジタルデバイスの使用が禁じられ、いわゆる新アナログ世代へと突入した直後の2094年。突如として現れた脅威の存在だ。
何の変哲もない一般人が、何の前触れもなく、何の原因かもわからずに怪物となってしまうその現象とその結果現れた超常の力を持つ異能者は、紛れもなく、出現から40年経とうとするこの時代にあってもいまだ脅威であり続けているのだ。
「でもさ、なんか、弱気よね」
やな感じだねぇ。などとつぶやきながらいまだ震えのジェスチャーを続ける麻子に、美咲はそう思いつめたように言った。
「なにが?」
「だからさ、エレメンツに対する世の中の対応って言うのかな、その、控えめすぎるな、って」
「そうかあ?」
麻子は、美咲の言葉に大げさに驚いて見せた。
「昨日のそのエレメンツだって、見つかったとたんに問答無用で射殺だよ。さすがにそれで控えめってことはないでしょ」
麻子は、充分じゃない?とつぶやいて美咲を見つめる。
しかし、美咲は納得しない。
「充分じゃないでしょ、だって、殺された後なんだよ?後になって射殺しようとどうしようと、殺された人は帰って来ないじゃない」
ふてくされる様にそう言った美咲に、麻子も反論する。
これは議論じゃなくて、ただのおしゃべりなんだからね。
そんな雰囲気をわざとらしく漂わせて。
「うーん、でも、事件起こる前には、わからないんじゃない」
まったくもって当たり前の感想。
しかし、やはり美咲は納得できないようだった。
証拠に、せっかく麻子が作り上げた、女子高生同士の軽いおしゃべり感をぶち壊すかのように、熱のこもった言葉を投げつける。
「そりゃそうだけど、でもエレメンツが危ない奴等だってことはわかってるんだから、別に悪いことしなくたって死刑でいいんじゃないかな、てか、殺すべきじゃない?」
美咲のあまりに過激な意見に、麻子は「うーん」と唸って口を閉じた。
麻子は、クラスではやや天然気味の少女を演じているが、実は各種報道番組や討論番組の視聴を欠かさない少女で、美咲のような過激な意見が最近強くなっていることは承知していた。そして、少なからず麻子もそんな意見にシンパシーを感じるところもあった。
しかし、エレメンツも人間には変わりない。という現実を前に、そんな意見に頭で反論できなくても心のどこかが拒絶する思いに、麻子は戸惑っていたのだ。
その人間がエレメンツであると言うだけで、殺す。
確かに、人類にとって脅威でしかないエレメンツだけど……。
「それは、やっぱまずいかなって、思う」
麻子はそう言って、頭をかいた。
頭をかきながら、もうこの話題はいいよなぁと思ってもいた。朝のHR前のひと時にする話にしては、ちょっと重過ぎる。
しかし、そんなあやふやな言葉では美咲はやはり納得しない。
どうやらとことんやりたいらしい。
「だって、野良犬だってさ、人間を噛まなくたって、見つかった時点で処分されるでしょ。噛むまで待って捕まえるなんてこと、しないじゃない」
美咲は吐き捨てるようにそう言うと、麻子に「でしょ?」と同意を求める。
一方、愛犬家の麻子としては、むしろ野良犬をそれだけの理由で処分することにこそ反論したいのだが、今日の美咲を見てやめておくことにした。きっと面倒なことになる。
「いや、美咲、いくらなんでも野良犬と一緒にはできないよ」
「そう?野良犬のほうが、むしろ安全よ」
当然のように美咲は即答でそう言うと、物憂げな表情を浮かべながら頬杖をついて窓の外を眺めた。
春の日差しに包まれた町並みが、校庭の向こうに見える。
その白く霞んだ景色の中に、いまだわからないエレメンツがその凶悪な力を秘めて隠れているかと思うと、美咲は、恐怖よりも得体のしれない苛立ちを覚える。
そんな美咲を見ながら、麻子は、なにかいつもと違う彼女の様子を敏感に感じ取っていた。