「こっち向いて、なお」
「……。」
「ねえ、こっち向いて。ほら……」
なつの言葉を無視して下を向き続ける僕の手を、なつはぎゅっと握りしめてきた。
話しかけてくるなつの声は、悲しむどころか元気で明るい声。
だから、おかしい反応にゆっくりと顔を上げてなつの顔を確かめようとした時…
「……ッ」
いつも通りのまま笑っているなつに、ぎゅっと胸が締め付けられた。
なんで…お前は笑ってるんだよ。普通は怒るか、悲しむところだろ。なんでお前はいつも…
「なお、よく見てて。よく感じて。よく聞いて?」
突然握っていた手を引っ張られて、なつの頭に乗せられる。
そして少しゆっくりと、髪を撫でるように動かされた。
「これが、なおが切ってくれた髪」
微笑みながら呟かれた言葉に、手がピクッと反応する。
「これが、なおに冷やしてもらった額」
なつが熱を測るように、自分の額へ僕の手を当てながら呟く。
その次は僕の手を口へ当てて嬉しそうに囁かれた。
「これが、なおにたくさんご飯を食べさせてもらった口」
なつに触れるたびに、なつと過ごしてきた時間や楽しかった会話が、頭の中に流れ込んでくる。
動揺していた心が、少しずつ落ち着き始めるのと同時に、自分の目から涙が零れ落ちてきた。
すごく、安心して…本当は一人じゃなかったのかもしれないって思えた。
「これは…冷たいけれど、なおに手を繋いで何度も温めてもらった手」
「ッ…うん」
一度出始めた涙は治まることがなくて、次々に頬へと伝い始める。
自分には何も残らないと思っていたのに、孤独だと思っていたのに…
「なつを…生きてると思って?」
自分の頬へと触れさせながら、最後に呟かれた一言。その時のなつの顔が、すごく優しくて…こんなに弱い自分でも、全てを受け入れてもらえているような…そんな気がした。
「なつ…ッ」
頬に触れていた手をそのまま後頭部に回して、自分の方へと引き寄せる。
両方の手でぎゅっと、なつが潰れてしまうんじゃないかってくらい強く抱きしめた。
「ね…?なつはここにいるよ」
「…ッ、う…ん」
「なおを一人になんてさせないから。ずっと、側にいるって約束する…」
背中に回されたなつの手に優しく撫でられる感覚。
まるで小さい子どもを慰めるみたいで、無性に自分が情けなくなった。
「ごめん…なつ…ッ、ごめん…」
「どうして謝るの?」
「マジで…情けない」
「泣くことが情けないの?寂しいと思うことが情けないの?」
「…全部」
「じゃあ…同じだね」
なつも、なおも、同じ。片方が情けない時に、片方が守って、お互いを守り合うの。
「素敵だね」
「僕は…何も守れてない」
「どうして…?私を助けてくれたのはなおでしょう?」
少なくとも、私はもう十分守られてるよ。
そう呟いた後、なつの冷たい手が僕の頬に触れて、首筋へと伝い始める涙を拭う。
その時にまた優しく微笑まれたから、余計に喉が熱くなって涙が溢れ出してきた。
冷たくても、温かいと感じるなつの手。例え死んでいるとわかっていても、愛しいという感情が涙と一緒に溢れ出してくる。
「なつ…なつ…ッ」
「うん…」
「僕の前から…ック、消えろ、なんて…思ってないから!」
「…うん」
「物…投げ、て…ごめん」
「うん、当たってないよ。大丈夫」
「ひどいこ…と、言って…ごめ」
「なお、もういいから」
ちゃんとわかってるから、もう謝らなくていいんだよ。今辛いのは、なおの方でしょう?
「自分のことだけを考えて。今は人のことを気にしちゃダメです」
「…ッ」
「普段お人好しな分、辛い時くらいは自分を優先していいんだよ?」
「なつ…の、方が…お人好し、だろ」
「…もしかしたら私となおは似てるのかもしれないね!」
フッと笑ってみせるなつの表情につられて、僕も少し、微笑むことが出来た。
もう一度だけぎゅっと腕に力を入れて強く抱きしめた後、なつを離して扉の方に足を進める。
心配そうに僕の名前を呼んでくるなつの声が後ろから聞こえて、精一杯笑いながら振り向いた。
「ちょっと…顔洗いに行ってくる。それから片づけするから…今日は学校休む」
泣くのももう治まって声も出しやすくなってきていた。
笑いながら告げた言葉に、なつが優しく微笑みながら頷く。
僕が無理しないとわかってほっとしたのか、心配そうな顔から表情が少し和らいだ。
洗面所で顔を洗って、普段通りの顔に戻ったのを鏡で確認する。
そのままの足で寮監室へ向かい、体調が悪いと告げて学校を欠席した。
中学からここの寮に入って一度も体調不良なんて起こしたことがなかったから、かなり寮監の先生に心配されてしまった。
本当の体調不良ではない分、罪悪感が込み上げてきて、無理やり話を終わらせて寮監室を出る。
優介にも一言言っておくべきかと思ったけど、何となく…優介には顔を見られただけで勘づかれるんじゃないかって思った。
あいつも部活やバイトで毎日忙しいから、あんまり心配はかけさせたくない。それに…
「僕には…なつがいる」
さっきまで握られていた手を見つめながら廊下を歩く。
本当に、なつがいなかったらあれくらいじゃ済まなかったかもしれない。
周りなんて気にせずに何もかも壊して、もうここにはいられなくなっていただろうな…
「自分のことで泣くとか…何年振りだろう」
力任せになつへぶつけた怒りや悲しみや寂しさは、ほとんど無くなっていて、むしろ荒れる前よりもすっきりとした気分だった。
何度も心の中でなつへお礼を述べながら部屋の前で佇む。
自分が荒らした部屋を見たら、また心も荒れた時みたいに戻るかもしれない。
そう思ってドアノブに手をかけたまま止まっていると、部屋の中からなつの声が聞こえてきた。
「なおとー、お掃除ーするー、今日の、わ・た・し・は、すうぱああマン!」
謎の歌が聞こえてきて思わずブッと吹き出した。
自作と即興なのが丸わかりの歌に少しお腹が痛くなる。歌の歌詞にも笑えたし、どこでこんなことを覚えたのかを考えても笑えた。
何も…心配する必要なんてなかった。
なつがこの部屋にいてくれればどれだけ荒れていても、もう心まで荒れることはないって、そう確信が持てた。
「確かに、スーパーマンだな」
笑いながら呟いた後、そのままドアノブに力を入れて部屋の中へと入る。
いつものなつのお帰りが聞こえて、僕も、そのままいつも通りのただいまを返した。