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第4話 推しとデートする

 頼との約束は、11時。


 そして現在の時刻は、9時過ぎ。


 フライングが過ぎるのだけど、緊張と興奮で居ても立っていられないので、思い切って部屋を出た。今は、マンションのエントランスのソファに座っている。


 もともと、10時くらいにはエントランスにいるつもりだったし。だって頼が早く着くかもしれないし。


 ソファに浅く腰かけ、スマートフォンを凝視する。画面とにらめっこすること二時間弱。ピコン、と反応があった。


『着いたよ』


 頼からのメッセージを確認した瞬間に腰をあげる。そして小走りで向かう。厚底シューズが床を蹴るたびにきゅっと鳴る。


 マンションの玄関を出ると、目の前に真っ黒な車がデデンと停車していた。大きい。やたら防御力がすごそうな車だった。ちらりと視線を送ると、ぐいーんと窓が下がった。


 頼が顔をのぞかせ、ひらひらと手を振る。


「降りてくるの早いね。ねねちゃんの部屋、3階だって言ってなかった?」


「エントランスにで待っていました」


 頼を待たせるなんて愚行を犯すわけにはいかない。たとえ一分一秒でも。


「それよりも。どうしたんです? この車」


 見れば見るほど厳つい車体だ。


「買ったんだよ」


 何でもないことのように頼が言う。


「かっ……た……!?」


「だって、ねねちゃんがさぁ」


 窓枠に肘をつきながら、甘えた声を出す。たったそれだけでも心臓が大爆発したみたいにドドンと衝撃を受ける。


「な、何ですか」


「マスクを外すなとかサングラスを装着しろとか帽子はしっかり深く被れとか言うじゃん」


 ごくまれに出社する際、ボディーガードのように私が頼を守ってきた。常々、帽子は深く被るように進言している。もちろんマスクとサングラスも必須だ。


「顔バレ防止のためです」


 mayoriのファンは、そこいらじゅうにいる。絶対にバレる。バレた瞬間、わらわらと集まってくる。普通のファンならまだいいけれども、厄介なのはガチ恋勢だ。


 侮るなかれ。ガチ恋勢とその行動力。


「ちょっとくらい平気じゃない?」


「ストーカーになったらどうするんですか」


 後をついて来られたり。それで自宅を特定されて、待ち伏せされて。


 頼の身に危険が及ぶ可能性は何としても阻止せねばならない。危険因子は私が排除する。


「車だったらさ、ガードしなくてもいいじゃん?」


 ガード……?


 それって、散々これまで世話を焼いた自分への配慮だったりするんだろうか。


「も、もしかして、私のためですか……?」


 そんなまさか。いやでも。もじもじしながら俯き加減でいる私の髪に、頼が手を伸ばす。


「もしかしなくても、そうだよ」


 ゆるゆると巻いた髪を、やさしく引っ張られた。髪から地肌にかけて、じわじわと訳のわからない感覚が広がっていく。


 後頭部、首筋、肩、肩甲骨。


 正体不明のじわじわが全身に、まるで毒が回るように浸食していく。


 毒のわりには、死にそうなくらい気持ちいい。たぶん、限りなく快感に近いソレだ。


「ねねちゃん」


「は、い……?」


「引っ張ったせいで、セット崩れちゃったかも。ごめんね?」


 ごめん、と言いながら詫びる気は皆無らしい。だって、心底楽しそうな顔をしている。こちらを試すような、その結果をあらかじめ知っているみたいな。


「頼にされるなら、いいです……」


 少しだけ、くるくると巻いた髪が解けていた。


 今日、きれいにしたのはぜんぶ頼のためだった。だから、頼は何をしてもいい。


 ぼんやりした頭で返事をすると、頼は嬉しそうに笑った。そして、「行こっか」と言って私を促す。


 タイヤの大きさに若干気圧されつつ、私は車高に足をかけた。


 足をかけるだけでも一苦労だった。車体に掴めるところがあるか確認しながら、思いっきり地面を蹴ろうとした。


 その瞬間、体がふわっと浮いた。


「え?」


 訳がわからないまま、ぽすっと助手席に体を預ける。運転席にいたはずの頼は、いつの間にか車を降りていた。


「厚底シューズとミニスカートって可愛いよね」


 上っ面の爽やか笑顔で私に言う。どうやら手を貸してくれていたらしい。


 驚きのあまり目をパチパチさせていると、運転席に戻ってきた頼が「降りるときも手伝うから」とやさしげな雰囲気を醸し出す。


「……本心で言ってますか」


「うん?」


「厚底とミニスカート。特に厚底のほう」


 自分では、お気に入りのコーデだったんだけど。


「どうして、そう思うの?」


「ぺたんこ靴のほうが、もっと手助けのし甲斐があったかと思いまして」


 低身長の私。やたら車高が高い車。


「あ、バレた?」


「まぁ」


 やっぱりわざとだったのか。


 おそらく、私が「のぼれるかな?」と不安そうな顔をしたり、おそるおそる降りたりするのを楽しみにしていたのだと思う。


「聡い子だなぁ」


 頼は満面の笑みだ。ぜんぜん私のためじゃなかった。「もしかしなくても、そうだよ」なんて言ったくせに。


 それでも、私の口から出てくるのは責める言葉ではなくて。


「ごめんなさい」


「うん?」


「厚底シューズ履いてきて」


 一瞬、頼は虚を突かれた顔になった。


 だって。いじわるするくせに、ちゃんと手を貸してくれたから。


 頼は、声を立てて笑い始めた。そして、ひとしきり笑ったあと、満足そうな顔で「ねねちゃんは最高だな」とつぶやいた。 


 頼のことを少しずつ知っていくにあたって、気づいたことがある。最初は、ほんのわずかな違和感のようなものだったけれども。


 さっきので確信した。頼は爽やかおっとり癒し系でありながら、ちょっといじわるなのだ。いじわるなほうが本性といっていいのかもしれない。


 いつだったか、玉ねぎを切って泣いたとき。めちゃくちゃ嬉しそうな顔をしていた。オフィスでくるくるとチェアを回していたときもそうだ。私の反応を見ながら、スピードを上げては楽しんでいた。


 それでも!


 いや、その本性がさらに!!


 よき!!!


 自分でもかなりの末期症状だなと思う。でも自覚があるだけ、まだマシなのでは? と無駄に足掻いたりもしている。


 目的地は、関東近郊にある鄙びた温泉地らしい。


 ナビに頼る気配はなく、すいすいと車を走らせる。運転する頼は美しい。厳つい車体を難なく扱う姿に見惚れる。


 左折するときより、右折する際により二の腕の筋肉が浮き出ることを知る。新たな発見に心が震える。


 高速道路と合流するとき、車線変更をするとき、ただ信号で停車するだけでも頼は格好いい。すべてが! 最高に! ときめくっ!!


 至近距離で、頼の一挙手一投足に目を光らせる。


 瞬きをしている間に、一瞬の煌めきを見逃すことはあってはならないので、スマホのカメラで動画を撮っている。


 あとで見返す用。もちろん保存用にも分ける予定だ。


「前向いて座ったほうがいいよ?」


 そう言って苦笑いする頼がまぶしい。いや、どんな表情でも彼はきらきらしているんだけど。


「ちょっと忙しくて」


 呼吸を整えながら目を閉じる。


 ちょっときらきら成分を過剰摂取し過ぎた。心臓に悪い。眼球にもかなりの負担を強いてしまった。


 大きく深呼吸していると、「車酔い?」と頼が見当違いなことを言う。


「いえ、車酔いではないので大丈夫です」


「そう時間はかからないからね」


 頼の言葉通り、一時間ほど高速を走ると目的地に到着した。


 駐車場に車を停める際、私は自分の心臓がとうとうダメになるかもしれないと危機感を持った。


 バック駐車!!!


 全女子がときめくというかの有名な胸キュンイベントだ。本音をいえば、ちょっと軽く見ていた。


 大いなる過ちだった。心の底から懺悔する。


 まず、首筋がよく見える! なんて完璧で美しいラインなのだろう。顎にかけてが特に良い。角度がセクシー過ぎる。


 ちょっと助手席側に体が近づくので、私の体内から接近警報が発令された。脈拍がたいへんなことになるので、体中の細胞が戦闘態勢を整えている。


 ふわりと、良い香りがする。


 爽やかで、甘い頼の香水。


 もちろん香水の種類は特定済みだ。百貨店の売り場へ行って、片っ端からにおいを嗅いで見つけ出した。いまは私の部屋でルームフレグランスと化している。


 エンジンが停車する気配で、意識が引き戻される。


 頼は、こちらを見てにこにこしていた。


「な、なんですか……」


「最近の車ってさ、バックモニターがあるんだよね。もちろんこの車もついてる」


「はい。それが……?」


 そう口にした瞬間、とんでもない事実に気づく。


「もしかして、わざとバック駐車を……?」


 振り返って目視する必要なんてないのに? わざわざ? 助手席に手をかけて? 胸キュンイベントを開催してくれた?


 もう! 


 むりっ!!


 推しのサービス精神がやばいーーー!!!


 感涙ものだ。


 というか、実際ちょっと泣いた。


 現地に到着しただけでこんなに感情が揺さぶられて、私はこれからどうなるんだろう。無事に生きて帰れるんだろうか。


 体中の細胞から、勘弁してくれと言われている気がしたけど、もちろん引き返すなんてできない。これから、メインイベントが始まるのだ。


 デートという名のメインイベント!


 頼が手を差し出してくる。私はその手を半泣きになりながら握った。そして、助手席から地面にぴょんっと飛び降りる。


 駐車場からすでに石畳になっていた。風情があるぶん、凹凸があって足元が悪い。ぎゅっと強く手を握られ、体ごと支えられる。


 機関銃みたいにせわしない鼓動を感じつつ、周囲を見渡す。


 昔ながらの日本家屋が立ち並んでいる。まるで江戸時代にタイムスリップしたみたいだ。


 町中のいたるところから湯気があがっている。温泉情緒あふれる風景だった。湯気の立ち込める川の向こうには、山々が広がっている。


「豪華クルーズで船旅とか言い出さないところ、好きです」


「え、なに。急に告白?」


 歩き出した頼が振り返って、私を見る。


「飛行機をチャーターするのもちょっと……」 


 同じ界隈には、お金をかければかけるほど良いという風潮がある。若くして大金を得ると、そういう思考になるのかもしれない。


 私の価値観とは合わない。


 その点、推しである頼を見て欲しい。


 まばゆいほどに光り輝く外見には似つかわしくない、鄙びた温泉街に連れてくるというセンス(全身全霊で褒めてます)! 


 いじわるをするためだけにお金をかけて高級車をゲットするというぶっ飛んだ性格単に性悪ともいう


 人気者というのは、こうでないとダメだ。


 私たち凡人が、おおよそ考えもつかない行動をするからこそ注目を浴びるのだ。それをプライベートでもやるのだから、頼は生粋の人気者。


 そんな頼を推せるなんて、なんたる僥倖……!


 感動で震えながら、頼と町を散策した。昔ながらの町並みがあちこちに残っている。


 なかでも壮観だったのは、江戸時代に海運業で名を遺した人物の居宅だった。漆喰の軒裏、趣のある越屋根、ばったり床几など、当時の面影をそのままに残した歴史的建造物。


「すごいですね……」


 ひたすら圧倒される私に、頼はさらっと「先祖の家なんだよね」と言う。


「え、えぇ……?」


 驚いて、思わず隣にいる頼を見上げた。


「実物を見るのは、俺も初めてなんだけど」


 興味津々といった感じで、頼が屋内を見渡している。


「ご先祖さまですか……」


 衝撃の事実を飲み込むようにつぶやくと、頼が「認められてないかも」と笑う。


「どういうことですか」


「庶子の庶子だし」


「しょし?」


「愛人の子がさらに愛人に子どもを産ませてる」


 なかなかにハードモードだ。


「祖父の代から、やっと普通の家になった感じかな」


「そうなんですか」


「……ここに来たら、何か思うところがあるかなって思ったけど」


 ぽつりと言葉が宙に浮く。


「はい」


「そうでもなかったよ」


 最後にぐるりと見渡して、頼はさみしそうに言った。


「ただの古くて大きいだけだったね」


 屋敷を出て、石畳を歩きながら、頼が私を見て微笑む。


 数年前、屋敷は自治体に寄贈されたらしい。管理もすでに親族の手から離れているという。


「大きくて古い屋敷だから、価値があるんですよ」


 少しずつだけれど、頼のことを知っている。教えてもらう度、嬉しく思う。


 町の外れに縁結び神社があると知り、私は「絶対に行く」と言い張った。


 神様の前で、両手を合わせて一心不乱に祈る。というより念を送る。


『絶対に解けない強固な絆をください!』


『チェーンソーでも切れない縁をおねがいします!!』


『絶対に赤い糸がいいです!!!』


 ぎゅぎゅっと眉根の寄った私の表情を見て、頼が驚いたように声を掛けてくる。


「気合はいってるね。神頼みって、そんなに力を入れるものだっけ?」


 全身全霊で念を送ったことを打ち明けると、頼は破顔した。


「祈ってたんじゃなくて、念?」


「はい」


「神様もびっくりしただろうね。脅されてると思ったんじゃない?」


 失礼な。でも、願いが叶うなら神様を脅すことも厭わないつもりだ。


 神社を出て少し行くと、商店街が見えた。


 ほとんどシャッターが下りている。営業しているのは、鮮魚店と、和菓子屋、純喫茶、それから大衆食堂。


 藍色の暖簾が揺れる大衆食堂に入店して、早めの夕食をとった。


 トンテキ、お刺身、ハンバーグ、明太子スパゲティ……。何でもありなメニューを眺める。正直、店に入るまでは胸がいっぱいで食欲なんてこれっぽっちもなかった。


 それなのに、いざメニューを見るとぐるぐるとお腹が鳴る。健康体のようで何よりだ。


 散々悩んだ結果、サバの塩焼き定食を注文した。


「俺はミックスフライ定食。ご飯は大盛で!」


 まだまだ今日は活動するので、ガツンと揚げ物を食べるらしい。


 私と頼が注文した定食が、ほぼ同時に運ばれてくる。


 メインと、ご飯、味噌汁、それから小鉢がふたつ。サバの塩焼きはふっくらした身が美味しかった。ちょうど良い塩加減で、ご飯がすすむ。つやつや&もっちりなご飯は、噛みしめる度に甘みを感じた。


 頼は、エビフライを頬張っていた。かなり大きなエビフライだ。


 大口を開けているのに、相変わらず美しくて目を奪われる。


「食べ方きれいですよね」


 ちまちまと小鉢の白和えを口に運びながら、頼に言う。


「そう?」


 もぐもぐしている所作さえ完璧に美しいのはどういうことだ。感服していると、ふいにテーブルの上にセットされているカメラに気づいた。


「ん? えっ……? これ、まさか撮ってます?」


「うん」


 頼が軽く返事をする。


 その瞬間、ザッと血の気が引いた。


「動画ですか? まさかとは思いますけど……」


 祈るような面持ちで頼に確認をする。あ、すごい良い笑顔。ということは、ダメなやつだ。


「配信してる」


「ひっ……んむっ!」


 悲鳴が口から漏れ、慌てて両手で抑える。


「大丈夫だよ?」


(何がですかっ!)


 小声ともいえない、ほとんど口パクの状態で頼に訴える。


「ちゃんとお店の許可とったし」


(いつですか!?)


「この温泉地に来ようと思ったとき」


 確信犯か!


「音声なしで配信してるから問題ない」


 問題は大アリなんですが!?


 私は大慌てで自分のスマホを確認する。もちろん通知が来ている。頼の配信を知らせるアプリの通知。


 画面を開くと、頼の上半身が見えるアングルで数分前から配信が開始されていた。


 もりもりに盛られたミックスフライが手前にドドンと置かれている。私は映っていない。私のサバの塩焼き定食も見切れている。


 完璧な画角だった。


 mayoriのファンたちはすでに大勢が駆けつけていて、視聴数のカウンターがどんどん回っていく。コメント欄も盛況のようだ。


 いつものクセで、コメントを目で追ってしまう。


『相変わらずよく食べるmayori~~! 食べかたキレイだよね』


 私も常々、そう思っている。


『エビフライ食べてるだけで絵になるmayoriは人類の遺産』


 完全に同意。


『美しい映像は情報量が多くて、処理するには大量のエネルギーが必須。よってmayoriを見ながらご飯を食べると実質カロリーゼロ』


 素晴らしく斬新な解釈。さすがはmayoriファン。


 大きく頷いていると、目の前のmayori……じゃない、頼と目が合った。


「食べないの?」


 カニクリームコロッケを美味しそうに齧りながら、私のサバの塩焼きに視線を落とす。


「あげませんよ? 今はちょっと忙しいので、あとで食べます」


「ふうん」


 くちびるについたカニクリームをぺろりと舐める。


 間近で見るとインパクトが強い。衝撃波を食らったように胸にズドンと来る。


 頼は、どんな仕草をしても、決して下品にならないのがすごい。


 予想通り、コメント欄は荒ぶっていた。「舌がエロい」「クリーム良い仕事する」「エンドレス再生不可避」等という多数のコメントが勢いよく流れていく。


 ホッと胸を撫でおろす。


 気が抜けたのか、油断したのか。スマホの画面を注視し過ぎたせいかもしれない。手がすべってグラスを落としそうになった。


 大惨事にはならなかったものの、テーブルには水たまりができていた。


 慌てて拭いたのがいけなかったらしい。


「あ、手が映ったみたい」


 頼の声に、冷や汗をかく。


「えっ! わ、私の手ですか……?」


「そう」


 ビクビクする私とは反対に、頼はどこまでも呑気だった。朗らかな声で「はは、皆びっくりしてるな」と笑っている。


 いや、笑い事じゃないから!


 コメント欄を見ると「え、女?」「いまネイル映ったんだけど!」「うそ」「マジ?」「女連れ?」「許せん」「ありえねーし」と少しずつ、けれど確実に雲行きが怪しくなっている。


 炎上? やばい。どうしよう。


 あわあわする私を見ながら、頼が意味深な笑みを浮かべる。そして、人差し指を立てて、自分の口元にそっと近づける。「黙ってて」の合図に、私はこくこくと頷いた。


『いま、映ったひと誰か知りたい?』


 音声をONにしたらしい。


『女の子なんだけど』


 嫌な汗が背中をつたう。


『おしゃれな子でね。爪とかすっごく可愛くて』


 ふるふると顔を横に振ったけれど、そんなことで頼が止まるはずもなく。


『髪をくるくるに巻いてて』


 怖くて、もう配信の画面が見れない。


『名前は教えてくれないんだよね』


 ……ん? 


『相席してて』


 あいせき? 


 顔を上げると、心底楽しそうな頼がいた。


『たぶん年下かな? サバの塩焼き定食を食べてる。俺のことは知らないんだって』


 いや知ってますが? めちゃくちゃ推してますが?


 そこでようやく「たまたま入った食堂で女の子と相席している」設定なのだと気づく。


 しばらくの間、音声をONにしたまま配信を続けた。いつの間にか、また音声ナシになっていたようなのだけど、私は放心状態で、もう何が何だか分からなかった。


「食べないの?」


 冷たくなってしまったサバの塩焼きを見ながら、頼が笑う。


「……食べます」


 乾いた声が出た。情緒が乱高下して、もう食欲はどこかへ行ってしまった。でも食べる。美味しいサバだから。


 映り込む可能性を少しでも減らしたくて、私は椅子を引いた。そろりと食事を再開する。目の前では、頼が意気揚々とひと口ヒレカツを頬張っている。


 自分の不注意が招いた絶体絶命のピンチを頼が救ってくれた。


 感謝したいけれど、もう気力が残っていない。元気よくかぼちゃコロッケに箸を伸ばす頼を、ちょっとだけ忌々しく思った。





 食堂を出ると、辺りは薄暗くなっていた。


「あれ? さっきより賑やかになってる……?」


 商店街を行き交う人の数が、格段に多くなっている。


「もうすぐ始まるからね」


「始まる? 何がですか?」


 人の波は同じほうへ流れていく。頼は私の手を握って歩き始めた。


 あり得ないほどに心拍数が上がる。息苦しい。苦しいばかりだから、いっそ止めて欲しいと言いたい。


 自分からは、振り解けない。そんな選択肢はない。


「はぐれないためにね」


 私の心中を知ってから知らずか、頼が小声で耳打ちする。


「ひとが……」


「うん?」


「見られるかも」


「これだけ防御してたら平気でしょ」


 頼は、キャップとメガネ、それからマスクを装着している。正直、これでも危うい。たとえ顔を見なくても判別できる。後ろ姿、歩き方、ちょっとした仕草でも見分けることが出来る。


 だって、推しだから。


 手を引かれながら、小さな橋を渡る。畦道を少し歩くと広場があった。


「なんか、明るいですね」


 ぼんやりとした光が見える。それもひとつじゃない。 提灯のようなものを手にした人々が、広場に集まっている。


「あれって、提灯ですか?」


「ランタンだよ。今日は、スカイランタン祭りがあるんだ」


 観光客を増やすためのイベントらしい。


 普段着で慣れた様子の参加者は地元の人間だろうか。カップルや家族連れの姿も多く見られる。ある程度は集客に成功しているようだ。


 スカイランタンは、何かのニュースで見た覚えがある。熱気球の一種だ。天灯とも呼ばれるのだと頼が教えてくれる。


 底の部分には、この地域で伐採された竹が使用されているらしい。固定された蝋燭に火を灯す。その上に大きな紙袋を設置する構造になっている。紙袋の内側の空気が熱せられて、周囲の空気より軽くなる。それでランタンが上昇するのだ。


 受付をするとランタンを手渡された。完全に紙の袋が膨らむまで、待つのがポイントらしい。中途半端に手を離すと、空中で燃えてしまうらしい。


 一斉に手を離すイベントでもあるので、それまでは皆が掲げるようにランタンの底の部分を持っている。


 ひとつのランタンを頼と一緒に持つ。ゆらゆら揺れる灯りを見ていると、カウントダウンが始まった。


「どきどきしますね」


「そうだね」


 頼が目を細めて笑っている。ランタンの明かりに照らされた頼の顔は、今まで見た中でいちばん優しい。


 アナウンスの「それでは、どうぞ!」という声を合図に、手を離した。ランタンはゆっくりと私たちの手を離れて上昇していく。他の参加者が放ったランタンと一緒に夜空にゆらりと舞い上がった。


「すごく神秘的ですね」


 うっとりした声が漏れる。


 だって、夢みたいに綺麗なのだ。夜空にたゆたう無数のランタン。どこを見上げても、橙色が点在する幻想的な景色が広がっている。


 ずいぶん長い間、無言で橙色の光を眺めていた。


「いつかこの町に来たいと思ってた」


 頼がぽつりと言う。


「はい」


「でも、行動にはうつせなくて」


 遠い場所だったのだろう。物理的にではなく、心情的に。


「不思議と、ねねちゃんとなら行けると思った」


 優しい顔で見下ろされる。鼻の奥が急に重くなった。痛い。頼と一緒にいると痛いところばかりになる。


「泣かないでよ」


 頼が弱り切った顔になる。


 あなたのせいだよ。そう言ってやりたい。詰りたい。でも、どれだけ痛くてもそばにいたいと思う。こんなに深い沼だとは思わなかった。


 どれだけ痛がっても、誰も助けてくれない。そもそも助けて欲しいと思っていないから自分が悪い。


 すんすんと洟をすすっていると、頼に肩を抱かれた。抱いた手で、私の肩をぽんぽんする。泣き止ませようとしている。でも、止まらない。感情が決壊して、どうにもならなかった。



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