目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第2話 推しと料理する

 推しが綺羅星になって、自分の前に落下してきた。綺羅星は、やはり美しかった。


 自分でも何を言っているか分からないけれど、それくらい衝撃的な出来事だったので許して欲しい。


 衝撃的過ぎて、料理をする気力がない。


 帰宅して、部屋の鍵をした瞬間、その場にへたりこんでしまった。しばらくの間は冷たい廊下の上で膝を抱えていたけれど、頼の「コメントする」という言葉を思い出して、電気ポットで湯を沸かした。


 カップラーメンの蓋をぺりぺりと剥し、沸騰した湯を注ぐ。全身の力を振り絞ってフライパンを戸棚から引っ張り出し、薄く油をひく。その上に、そっと卵を落とす。


 ジュッという音が耳に心地良い。白身のフチが油で泳ぐみたいにじゅわじゅわしている。まだ黄身がとろとろの状態で火を止め、フライパンからカップラーメンの上に移動させる。


 食べるだけ配信者なので、夕食がカップラーメンでも許して欲しい。むしろ、目玉焼きでたんぱく質を確保したことを褒めて欲しい。


 いつものようにスマートフォンを固定して、姿見での全身チェックを終える。


「いただきます……」


 もそもそと麺をすする。


 常にテンション低めな私だけど、今日は輪にかけて大人しいと判断されたらしい。そのことに言及するメッセージが流れてくる。


『ぴちゃん元気ないね』


『体調わるいの?』


『しんどかったら配信お休みしてもいいよ?』


 優しさが身にしみる。


 私のファンは良い子ばかりだなぁと感動していたら、驚くべきものが視界に飛び込んできた。


『お疲れさま ¥100000』


 じゅ、じゅうまんえん……? 10万円分の投げ銭……!?


 何度ゼロを数えても、間違いなかった。


 ついさっきまで平和だったコメント欄が荒れ始める。


『は? なにこいつ』


『ルール無視かよ』


『新参者じゃん』


『ファンじゃなくて、むしろ荒らしだろ』


 投げ銭をしてきたアイコンを確認したけれども、見覚えがない。それなりに記憶力は良いほうなので、たいていのファンならアイコンを見ただけですぐに分かるんだけど。


 コメントで指摘されているように、最近ファンになってくれたひとかもしれない。


『あー、えっと。古参ファンを代表して説明させていただきますが』


 古参を名乗るファンがコメント欄に登場した。私は配信を始めて二ヶ月なので、古参も何もないと思うのだけど。


 もちろんアイコンには見覚えがある。ひよこがハチマキをしている、なんとも可愛らしいアイコンだ。


 大正義太もも派に所属するドM……じゃない、熱烈な【ぴちゃん】のファン。


『このチャンネルは高額の投げ銭禁止となっています』


 禁止とまではいかないけれど、確かに推奨はしている。


 なぜかというと、視聴者に中学生や高校生がいることに気づいたからだ。視聴者の性別や年代は、アプリを通して把握することが出来る。


 コメントを読んでいるうちに、家庭の事情で、夕食を一人で食べている子どもたちが多いことを知った。


 高額な投げ銭があると、なんとなく居心地が悪いのではと考えた。


 私も子供のころは、一人で食事をすることが多かった。両親はふたりとも仕事人間で、一人っ子だったので孤独だった。テレビをつけて寂しさを誤魔化していた。あのころ、食べる系配信と出会っていたらなと思う。


 そんなわけで、投げ銭はとても有り難いのだけど、少額でお願いしているのだった。


 コメント欄では、古参を名乗るファンが懇切丁寧に説明を続けている。熱心過ぎて、ちょっと度が過ぎている気もする。これが自治厨というやつかと苦笑いしながら、私は目玉焼きを頬張り、スープを飲み干した。





 翌日のバイト終わり。例の公園へ行くと先客がいた。


 パンダの上に腰を下ろし、スポットライト(外灯)を浴びるキラキラ星人。私を見つけると、にっこにこの笑顔になる。


 心臓を撃ち抜かれた。カバに覆いかぶさるように倒れこむ。


「昨日、ねねちゃんの古参ファンにめちゃくちゃ怒られたよ~~!」


 頼がけらけらと笑っている。


 え……?


「も、もしかして、あの10万円の投げ銭って……」


「俺だよ」


 肯定されて眩暈がした。


「ねねちゃんって、お姫さまみたいだね」


「は、はい……?」


 この地味な私のどこに姫要素があるというのだ。


「ファンの人たちに大事にされてるじゃない」


 それは、まぁ確かに。


「……ありがたいことに、そうですね」


「昨日のコメント欄は、お姫さまを守る近衛兵みたいだったな」


 頼が思い出し笑いしている。


 近衛兵というのは、例の古参ファンを筆頭にした面々のことを指しているのだろうか。普段は太ももフェチのドM集団なんだけど。


「配信を始めてまだ日が浅いのに、登録者も多いよね」


 配信の内容を考えると、身に余る光栄というやつだ。ただ食べているだけなのに。


「よ、頼の足元にも及びませんが」


 頼とは桁が違う。もちろん当然の結果といえる。


「個人で配信してるの?」


「はい」


「困ってること、ない?」


 な、なんと。これってまさか、心配をしてくれているのだろうか。配信の先輩として? 相談に乗ってくれようとしている?


 神!!!


 あぁ、やっぱり頼は神様だった。こんなにも慈悲深い存在が人間のはずがない。相談したい。特に悩んでいることはないけれど、相談に乗ってもらいたい。


 何か、悩み!! 欲しい!! 悩みプリーズ!!


「ねねちゃん……?」


 気づけば、頼が目の前にいた。突如として無言になった私を心配してくれたらしい。


 カバの前でしゃがみ、頼が私の顔を覗き込んでくる。


 思わず目を閉じた。至近距離はダメだ。私には強すぎる。 


「し、強いて言うなら……」


「うん?」


「料理が下手なことが、悩みです」


「下手なの?」


 頼はきょとんとしている。


「配信を見たら一目瞭然だと思うのですが」


 自慢ではないが、碌なものを作っていない。昨日なんて、カップラーメンだったし。


「女子大生のリアルな食生活なんだと思って、楽しんで見てたけど?」


 そ、そうだったのか。


「正真正銘の料理下手です」


「じゃあ今度、一緒に作る?」


 ……へ?


「い、一緒にって……?」


「たとえばコラボ配信とか」


「ダメですっ!!」


 思わず叫んだ。


「どうして?」


「炎上します!!」


「そうなの?」


 頼が首を傾げている。彼の曇りなき眼を見て愕然とした。どうやら、本当に分からないらしい。


「少しはご自分がmayoriであるという自覚を持ってください!」


「自覚?」


「mayoriは、ガチ恋勢が多いんです!」


 ファンの域をとっくに超えて、ガチのマジで恋愛感情を抱いてしまった人々を「ガチ恋勢」という。ちなみに「リアコ」と呼ばれることもある。意味は同じだ。リアルで恋しているの略なので。


 愛が極端に重いことで知られる。しばし過激な行動に出ることでも有名だ。妄想で愛情を加速させる。そして何かの拍子で、愛情が愛憎に変わる。かなりの危険因子なのだ。


 そんな取り扱い注意な人々を多く抱えるmayoriが、どこの馬の骨とも分からんヤツ(私のことだ)とコラボなんてした日には……!!


 想像するだけで怖ろしい。


「暴動が起きます。ぜったいにダメです」


「じゃあ、配信なしで料理する?」


 え……?


「といっても俺の場合、ぜんぶ自己流のレシピだから。テキトーにやってるところもあって。ちゃんと教えられるかは分かんないけどね」


「て、適当でも何でも良いです。むしろ自己流のほうが好ましいというか。だって、それはつまりmayoriオリジナルで! mayoriスペシャルでもあって!! 特別でオンリーワンなレシピということですよね!!!」


 オタク特有の早口でまくし立てる。


「同じ空間に存在してるだけで有り難きなのに。一緒に料理をするなんて……! 散々見ていた包丁さばきとか炒めるときに腰に手をやるポーズとか、慣れ親しんだ諸々を間近で見られるなんて、身に余る光栄ですっ!!」


 瞳孔が開いている自覚がある。ギンギンの目で力説する限界オタクに対して、頼はドン引きすらどころか余裕の笑みを浮かべている。


「俺って炒めるとき腰に手、当ててんの? 知らなかったな」


 右手でフライ返しを持ち、左手は腰へ。お馴染みのポーズなのだ。ファンの中では当然の共通認識なのに、本人が知らなかったとは……。


「まさかの無自覚だったんですね」


「偉そうだった? 気を付けるよ」


「必要ありません。盛り上がりポイントなので」


 毎回『はい、腰に手! 来ました~~!』とか『腰にお手て、可愛い過ぎ!』とか、散々盛り上がっているのだ。私のせいでそれが無くなっては、日本中、いや全世界のmayoriファンに申し訳がない。


「じゃあ、とりあえず俺の部屋で料理しよっか。楽しみだなーー!」


「は、はひ……」


 うきうきする頼を眺めながら、怖ろしいほどの僥倖に体が震えた。やっぱり、これは夢ではないのだろうか。





 予定を合わせて、頼と一緒にご飯を作ることになった。連絡を取り合う必要があるので、SNSのIDを交換した。推しとSNSで繋がるという意味不明な事態に発展してしまった。


 戸惑うばかりだ。


 え? 神様ってSNSやってるの? と本気で困惑した。


 頼のアイコンは、卵焼きとソーセージとおにぎり。こういうのでいいんだよで有名な三点セットだった。もちろん彼がこしらえたもの。


 具体的な日時をメッセージでやり取りした。


 ぜったいに頼の生活パターンを侵害したくないという私の申し出によって、時間は早朝に決まった。深夜に仕事が捗るらしい頼なので、それが終わった頃合いに私が自宅にお邪魔することになった。


 自宅。


 自宅!


 頼の自宅!!


 神の住処という神聖な場所に足を踏み入れるのだから、禊を行う必要がある。自宅へ伺うのは三日後。それまで、ひたすら清らかな心身でいることを心掛けた。


 バイト中に横柄な客がいても、怒らない。


 駅の改札で割り込みされても、怒らない。


 大学の講義中、イヤホンから音漏れしているヤツを見つけても、怒らない。


 広い心で許す。微笑みの精神。怒りは不浄なので、それを取り除く行為が必要だ。ちょっと禊にハマり過ぎて、当日は全身ホワイトなコーディネートになった。


 白装束からインスピレーションを受けた結果、白のカットソー、白のロングスカートといういで立ちになった。バッグも白。厚底シューズも白。


 姿見で確認したときは「可愛い!」と自画自賛していたのだけど、駅に着いて、電車に乗ったあたりで冷静になった。


 料理するのに、白で良かったのかな……。


 いや、もちろんエプロンは持参しているけれども。汚れたりシミになったりする可能性があるわけで。


「料理が上手いとか下手とか、それ以前の問題かも……。気が回らない子だと幻滅されるかも……」


 最寄り駅に着いたころには、すっかり気落ちしていた。


 このまま反対の電車に乗って帰りたい。行きたくない。がっかりされたくない。


 がっかりされるくらいなら、存在を認識されないほうがマシだった。頼と出会う前の自分に戻って、永遠に頼と出会わない人生を選ぶ。mayoriの限界オタクとして、崇高なるオタクのまま、桜野寧々としての一生を終えるのだ。


 けれども約束をしてしまった。約束を反故には出来ない。


「約束の直前になって不安になる現象、あるあるだな……」


 重い足取りで、なんとか駅の改札を出る。始発電車でここまで来たから、駅前といえども、まだ人はまばらだった。ロータリーをトボトボと歩いていると、背後から声をかけられた。


「ねねちゃん」


 振り向くと、頼がいた。


 朝靄の中に、くっきりと浮かぶ長身。キラキラ輝く私の綺羅星。


「おはよう」


「お、おはようございます……!」


 ぺこぺこと頭を下げる。頼の「おはよう」ボイスに心臓を撃ち抜かれる。


「なんか、オセロみたいだね」


 頼が、私と自分を見比べている。私は全白。頼は見事に黒コーデだった。


「そ、そうですね……」


 本当にオセロなら良かった。全身白を後悔していたところなのだ。ひっくり返して黒にして欲しい。


「可愛いね」


「へ?」


「服」


「ほ、ほんとうですか……?」


「うん」


 よ、良かったーーー!


 とりあえず、気の回らない子判定はされていないようなので安堵する。めゃくちゃ胸を撫でおろす。


 頼が暮らす部屋は、駅近の高層マンションだった。部屋数の割に人の気配がしないというか、生活感のない印象を受けた。


「投資用に持ってるひとも多いみたいだね」


「そ、そうなんですか」 


 これだけは言える。確実に住む世界が違う。


 玄関はやたら広かった。そして眩しい。センサーで自動的に照明がついたり、エアコンか稼働したり。足元には動く掃除機がのろのろと動き回っていて、落ち着かない部屋だなと正直な感想を抱いた。


 常に下着を部屋干ししている生活感に溢れる我が家とは雲泥の差だった。


 キッチングッズは細部に至るまで、おしゃれに纏まられている。もちろん配信で見慣れているものばかりだ。


 雪平鍋、菜箸、ボウル、電動ペッパーミル、等々。


 キッチンに並んで立つと、身長差が浮き彫りになった。厚底シューズを脱いだので、誤魔化しはきかない。


「ねねちゃんて、思ってたより小さい……?」


 頼も同じようなことを考えていたらしい。


「普段は、厚底シューズ履いてるので」


「なるほどね」


 右隣に立つ私を、まじまじと見ている。


「何センチ?」


「……150センチは、ありますよ」


 ギリギリだけど。


「あ、そこ濁すんだ?」


 実際の数字を明かすと、たいてい「え? それだけしかないの?」と驚かれる。「もう少しあると思ってた」とも言われる。


 小顔のせいで全体のバランスが良く映るらしい。なので正確な数字は秘密にする。少しでも高身長に思われたいという、涙ぐましい努力なのだ。


「……頼は?」


 mayoriの詳しいプロフィールは存在しない。身長も体重も不明だ。


「最近はかってないけど、180センチはあるかな」


 羨ましい。


「体重は?」


「標準だよ」


 何だ、その女子みたいな回避の仕方は。


「血液型は?」


「B型だと思う」 


 ……思うって。


 もしかして、プロフィールは謎を残したまま運営していく方針なのかな? 謎多き配信者mayori、みたいな。


「ネットで暴露とかしませんから」


「うん?」


「mayoriのプロフィール」


「言ってもいいけど?」


「え?」


「秘密主義じゃないんですか」


「ぜんぜん?」


「だったら、どうして詳しく教えてくれないんですか」


 身長を言いたくないとゴネる私が言えることではないんだけど。


「血液型は本当に知らないんだよね」


「そうなんですか?」


「体重はさ、恥ずかしいじゃん」


 いや、女子か! 


 再び心の中でツッコむ。


「俺の食べたいもの作ってもいい?」


 冷蔵庫を開けながら、頼が私に確認する。


「もちろんです! なんか、手ぶらで来てすみませんっ!」


 やはり、私は気が回らない子だ。こういう場合、飲みおしゃれな炭酸とかや気軽につまめる系の食べ物を持参するのがスマートな人間だと思う。


 落ち込みながら、エプロンを体に巻くようにして装着し、紐を縛る。


「ぜんぜん構わないけど? それより、可愛いエプロンだね」


「は、恥ずかしいです……」


 思いっきりキャラクターものなのだ。かなりのどっしり体型なペンギンが描かれたエプロン。このおしゃれ空間には馴染むはずもない代物だった。


 どっしりペンギンを纏って身を縮こまらせている私を、頼がおかしそうにくすくすと笑う。


 恥ずかしくて顔から火が出るかと思った。いや、このエプロンはお気に入りで。ブサカワなキャラクターだって大好きなんだけど。それとこれとは違うというか……。


「そ、それで今日は、何品くらい作る予定なんですか?」


 話題を変えたくて話を振った。


「んーー、5品くらいかな」


 いつも、仕事をしながら何を食べるか、何を作ろうか考えているのだという。


「そのほうが仕事、頑張れるから」


 なるほど。それは確かに。


 私が納得していると、頼が今日こしらえる予定のものを教えてくれた。


・キャロットラぺ

・なすの揚げ浸し

・小松菜の胡麻和え

・スモークサーモンとオニオンのマリネ

・豆腐と豚しゃぶのサラダ


「配信を見ながら、いつも思ってたんですが」


「うん」


「健康的なメニューですよね」


 そうなのだ。mayoriの作るご飯は、いつも野菜たっぷりでヘルシー。健康的なメニューばかりだった。


「……食べたあとは寝るだけだから、あまり重いものは控えてるんだ」


 ちょっと考えてから、頼はそう言った。


「野菜多めでヘルシーが美しさへの近道なんですね」


 参考にしよう。できる限りカップラーメンは控えよう。


 決意を新たに玉ねぎの皮を剥く。玉ねぎはサーモンのマリネに使う。薄くスライス出来るか心配していたのだけど、スライサーがあると知り、安堵した。


 それなら大丈夫。玉ねぎのことは私に任せて欲しい。ぜったいに大丈夫……。


「ん、んぅ……?」


 猛烈に目が痛い。じんじんと強烈に目がしみる。


 玉ねぎを持ったまま、手の甲で目を擦る私を見て、頼が愉快そうに笑う。


「あぁ、涙出ちゃったな」


 全く笑いごとではないんですが? 


 顔を顰めながら、なんとか玉ねぎとの格闘を終えた。スライサーで薄くした玉ねぎたちは、今は水にさらされている。


 真っ赤になった目をしょぼしょぼしていると、いつの間にか小松菜の胡麻和えとなすの揚げ浸しが完成していた。豚しゃぶのサラダで使う豚バラ肉の薄切りもボイルされている。


 いつの間に、茹でると揚げるの行程を済ませたのだろう。やはり頼は手際が良すぎる。呆気に取られている間にも、彼はささっと人参を千切りにしていく。


「ねねちゃん、お酢を入れて」


「は、はい」


 千切りにされた人参をボウルにうつし、お酢を回しかける。続いて、オリーブオイル、砂糖、塩も加える。


 最後にレーズンを入れたら出来上がり。キャロットラペの完成だ。


 時間を置くと、レーズンが水分を吸って良い塩梅になるという。


 慎重に木綿豆腐を切り分ける私を見下ろしながら、頼が「綺麗に切らなくても大丈夫だよ」と声をかけてくる。包丁を握る手に力が入っていることは、重々自覚している。分かっているけれども、力が入ってしまうのだ。


 サイコロ状にカットした木綿豆腐と、豚バラ肉、レタス、カイワレを器に盛ったらサラダも完成だ。


 そのサラダ用のドレッシングを目分量で作りながら頼が、ふっと小さく息を吐いた。


「帳尻を合わせようとしてるのかな」


「……帳尻?」


 何のことだろう。目をパチパチさせる私をちらりと見て、笑みを浮かべる。


「子どものころ、菓子パンばかり食べる生活だったんだよね。うち、母子家庭で」


「そ、うなんですか……」


「母親、朝から夜まで働いてたから。家の戸棚には大量の菓子パンが詰め込まれてて、そこから好きなのを選んで食べるっていうスタイルだった」


 味には飽きるけれども、それしか食べるものがないから仕方なかった、と頼は言った。


「あるとき、友だちの家で偶然鍋を食べて。それがすっごい美味しかったんだよね。野菜うまい! なんだこれ! みたいな」


 確かに、鍋の野菜は美味しい。


「ある程度成長したら、自分の食べるものくらい自分で作れるし。一人分作るのも二人分作るのも同じだし」


「お母さんの分も作ってあげてたんですか」


 えらい。めちゃくちゃえらい子だ。小さいころの頼をよしよししたい。頭をぐりぐりしたい。


 私は、確かにひとりぼっちだったけれども作り置きがあった。それをチンして食べていた。


「色んな家庭がありますよね」


 私の配信を見てくれている子たちも、それぞれ少しずつ事情が違うのだろう。頼みたいな子も、いるんだろうな。


 しんみりしていたら、「はい、出来上がり」と頼に言われて、我に返った。豆腐と豚しゃぶのサラダがきれいに器に盛られていた。食べる直前に、ちょっとピリ辛のタレをかけると美味しいらしい。


「マリネは、私が完成させます」


 あんなに泣かされたのだから、私が最後まで責任を持つ。まぁ、あとはサーモンと玉ねぎを和えるだけなんだけど。


 スモークサーモンは、食べやすい大きさにカットする。ボウルに、オリーブオイル、黒こしょう、お酢、砂糖、塩を加えてよく混ぜ、水気を切ったオニオンとサーモンを投入する。


 ざっくりとかき混ぜてから、ラップをして冷蔵庫へ。30分ほどしたらさらに味がよく馴染むらしい。


「もう少しだけ、そばにいてくれる?」


 突然、そんなことを言われて、洗っていたボウルを取り落としそうになった。


「え、えっとぉ……!?」


 どういうこと? このあとって、食べながらmayoriの配信するよね?


「マリネが完成するまで、あと30分。それまで待ってたら、寝落ちしそうなんだよね」


 背伸びするようにして、まじまじと頼の顔を見ると、確かに眠そうなだった。とろん、とした二重の瞳にやられて瀕死状態に陥る。


「も、もちろん! それはお安い御用です!」


 ドキドキしながら、泡のついたボウルを水ですすぐ。 


 隣で「ありがとう」と笑う頼の表情を、改めて観察する。気づいたのだけど、目の下にクマがあった。


 よく見れば、頼の色の白さは、ちょっと病的にも思えるくらい青白くて。


「疲れて、ますか……?」


 ずっとバイト終わりの、薄暗い公園で会っていたから気づかなかった。


 今日、私はここに来てよかったんだろうか? 体を休めたほうが、良かったんじゃないのかな……?


「ちょっと、仕事が立て込んでてね」


 頼がひょいっと肩を竦める。


「何か、私にできることはありませんか?」


「ねねちゃんが、手伝ってくれるの?」


 ちょっと驚いたように頼が私を見る。


「はい」


 雑務とか、資料整理とか。動画編集だって出来る。


「動画の編集?」


「配信をやるようになってから、興味が出てきて。勉強しました」


「そういえば、ねねちゃんのチャンネル、編集された動画も上がってたな……」


 思い出したように頼がつぶやいている。


「資料作成も可能です」


「事務系のバイトでもしてたの?」


「中高時代に、よく先生の手伝いをしていたので」


「……それって、仕事を押し付けられたってこと?」


 頼の眉間が、ぎゅぎゅっと寄る。眉間の皺さえ美しいなんて、どういう仕様だ。


「自分からすすんでやってました。家に帰りたくなかったんです」


「不良少女みたいなセリフだね」


 残念ながら、不良になる勇気はなかった。それどころか、真面目一辺倒で生きてきた。


「両親が共働きで、夜遅くまで帰って来なくて。だから、少しでも学校に居残っていたかったんです。優等生だったので、おかげ様で学校での居心地は良かったです」


「不良少女は撤回する。めちゃくちゃ真面目っ子だったんだな」


 じいっと私の顔を見ながら、頼がしみじみと言う。


 至近距離で見つめられるなんて、そんなことは非常事態だから、心臓がおかしいくらいにバクバクする。なぜだか分からないけど、ほんの少しの沈黙が怖かった。


 そのせいで、ベラベラと面白くもない話をする。


 子どものころ、一人でご飯を食べながら見ていたテレビ番組の話。怖がりで、部屋じゅうの電気をつけながら両親の帰りを待っていたこと。そのくせ、父母が帰宅すると何でもない風を装って、決して甘えたりしなかったこと。


 私のチャンネルの視聴者の中には中高生もいて、当時の自分に似た状況の子がいること。だから、少額の投げ銭をお願いしていること。


 私は、いちばんに彼や彼女たちに向かって配信をしていて。特別、何か語りかけなくても寄り添うことは出来ると思っている。そういうことを、無心にベラベラとしゃべり続けた。


 頼が真剣に耳を傾けてくれているのが分かる。静かに頷いて私の話を聞いている。


「あのころ、mayoriの配信があれば良かったな……」


 ぽつりと私の言葉が落ちる。


「そうすれば、ぜんぜん寂しくなかったと思います」


 それだけは、間違いなかった。


 頼は、やさしい表情のままで、いつまでも相槌を打ってくれていた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?