ローテーブルにスタンドを設置して、スマートフォンを固定する。画角を確認したら準備はほぼ完了だ。続いて、姿見で自分をくまなくチェックする。
これから全世界に向かって映像を垂れ流すので、念には念を入れる必要がある。フード付きトレーナーのフードの歪みを発見し、ちょいちょいと触ってきれいに見せた。短パンは、ウエストの紐をちょっと緩めに結び直した。
トレーナーと短パンはセットウェアだ。おしゃれ女子御用達のブランドで購入したもの。ふかふか仕様で肌触りが良く、着心地が良いので部屋着として重宝している。
大学を機に上京して、一人暮らしを始めたのが半年前。親の監視がないのを良いことに、延々とこの楽ちんセットウェアで過ごしている。
メイクはぬかりなし。髪もセット済み。ストレートのロングヘアをくるくるに巻いて、ツインテールにしている。ツインテールは視聴者からの要望で、一度やったら好評だった。それ以来、継続している。
面倒くさがりな性分なので、「これがいい」とある程度決めてもらったほうが助かるのだ。面倒くさがりでツインテールが出来るのか、と思われるかもしれないけど、慣れたら簡単なので問題はない。
最後に、自分の顔を確認をする。じいっと鏡を見ると、ほぼ無表情に近い女子が映っていた。
小さな顔に地味パーツが収まった、見慣れた自分の顔。普段から感情の起伏が乏しいので、表情筋は固まっている。じっくりと検分して、顔に枕の跡がついていないことを確信する。
寝起きなのだ。午前は大学、午後はコンビニバイト。帰宅して仮眠をとったあとに配信を行う。これが最近の一日のルーティンだった。
配信を開始すると、視聴数がぐんぐんと伸びていく。
「さて、食べようかな」
用意していたフォークを手に取り、パスタに粉チーズをパラパラと振りかけた。
私は毎晩、ご飯を食べる様子を配信している。いわゆる食べる系配信者だ。
ちらりと画面に視線をやると、まだ開始早々だというのに、コメント欄は盛況のようだった。
コメントの内容を細かく確認すると、思わず「はぁ」とため息が漏れた。
いつもの面々が、いつものやり取りを繰り広げている。
『短パンありがてぇ』
『色白太もも!!』
『俺はふくらはぎ派』
『は? 膝の造形一択なんだが?』
私はあぐらをかいて座っている。この体勢が楽なのだ。
画角にかろうじて入り込んでいる太ももとふくらはぎを見て、視聴者は盛り上がっているのだった。
大正義太もも派と、対抗馬のふくらはぎ派による小競り合い。最近では膝小僧マニアも入り乱れてのカオス状態。意味不明だ。
初めて配信をした際も今と同じ姿だったと記憶している。狙ったわけでもないのに「脚がいやらしい」との無駄な評価を得た。
女子大学生の脚がそんなに良いのだろうか。モデルのように細長い訳でも、スポ―ツ選手のように引き締まっているわけでもない。ごく普通の脚なのに。本当に、男子の心理は理解不能だ。
「普通の脚だけど、そんなにいいの?」
マイクに向かって問いかけると、コメント欄が加速する。
『普通だからいい!』
『意識して手入れしてますとかいうのは邪道。媚びてる脚は不要』
『スポーツやってる脚は筋肉が硬そうなんだよな』
『それに比べて【ぴちゃん】の脚は柔らかそうだよな』
『マジでそれ。触りてーー!』
セクハラ度が高くなってきたので、きつく戒める。ちなみに【ぴちゃん】というのは、配信をする際の私の名前だ。
本名は、桜野寧々さくらのねねという。
その本名から桜の一文字を抽出し、桜の花はピンクなので、ぴ。面倒くさがりな性格が全面に出た配信名だった。
「これ以上、脚の話をしたら追い出すから。私は美味しくご飯が食べたいの」
こういうとき、可愛い子ぶって「ダメだからねっ!(高音&猫なで声)」と言えたら角が立たないのかもしれない。けれど、わざわざ別人格を作ってまで配信するのは億劫だ。なので、いつも素で対応している。
素っ気ない。冷たい。可愛げがない。
配信を始めた当初は、そういう類のコメントが多かったけれど、いつの間にか見なくなった。慣れたのか、不満に思う人たちが去って行ったのか。
とにかく、今は従順なオタクしかいない。私の言葉に素直に従う面々。案の定、戒められた瞬間にコメント欄は静かになった。ちょっと喜んでいるコメントが散見される程度だ。怒られたことを嬉しがるなんて不気味だ。ドMなんだろうか。
私は平和になったコメント欄を横目で見つつ、「いただきます」と静かに手を合わせる。
今日の夕食はナポリタン。イタリア人が見たら発狂すると噂されている邪道料理だけど、失敗が少ないので頻繁に作るメニューだ。
ケチャップを大量に投入することで味を誤魔化せる。パスタを茹で過ぎない限り、どうとでもなる。私は料理が苦手だ。
それなのに、私は食べる系配信を行っている。
配信を始めたのは、二ヶ月前。偶然、食べる系配信を見たのがきっかけだった。
mayoriまよりという名の男性配信者が、ヘルシー志向な料理を作って食べていた。野菜多め。品数も多め。たいてい5品から6品。てきぱきと手際よく、美味しそうな料理を次々と完成させていく。
食べる姿がきれいだった。大量に食べても、すらっとした体型なのは健康的なメニューだからなのだろう。
ときどきカメラ目線になって、「美味しい」とか「作るときのコツは」とか、視聴者に語りかけてくる。その声がやたら甘ったるくて心地良いのだ。
清潔感のある爽やかな外見。顔のパーツはそれぞれ完璧に整っていて、一見冷たそうなのに、笑うと人懐っこい印象になる。おっとりした口調にも癒された。
目が離せなかった。気づいたら、無心で視聴していた。流れる映像の全ての情報を逃したくなかった。彼の一挙手一投足を目と耳に焼き付けたい。瞬きをするのも厭う心情で画面を注視していた。
その際、mayoriという配信者が異様にキラキラしていることに気づいた。金色の粒子を纏っているような、そんな錯覚を覚えた。まばゆい光だった。神々しいともいう。光り輝く人間がこの世に存在するとは、それまで知りもしなかったので驚いた。
初めて感じる高揚感。mayori成分を摂取することによって得られる多幸感。酩酊状態にも似ている。
過剰摂取を試みて、mayoriの情報をあれこれ検索してみた。けれど得られた情報は、そう多くなかった。
24歳だということ、仕事はリモート勤務多めのIT系。いずれも本人が、配信中に視聴者からの質問に答えるかたちで明かしたものだ。本名は分からない。
身体的特徴といえるのか分からないけど、右手の中指の付け根には、ふたつ並んだ小さなほくろがある。mayoriの細く長い指に見惚れて、見惚れ過ぎて、注視するあまり発見するに至った。
私は、mayoriの配信があれば必ず視聴した。投げ銭も行っている。もちろんコメント欄にも書き込む。熱心なmayoriオタクになるまで、そう時間はかからなかった。
自分でも配信を始めたのは、彼と同じ配信をするという行為を通して、少しでも共感覚を得ようとしたのだと思う。
◆
mayoriの配信は、たいてい早朝に行われる。仕事が最も捗る時間帯が深夜らしく、夜明けとともに一区切りをつけて、そこから料理をする。なので、朝方の配信になるのだ。
「昼夜逆転って、体に悪いのかな?」
水菜とツナのサラダをもしゃもしゃと頬張りながら、mayoriが憂いた表情を見せる。
mayoriは食べる姿がきれいだ。口いっぱいに詰め込んでも上品だし、なんというか所作が美しいのだ。
私は早朝にもかかわらず、目をぱっちり開けながら視聴している。mayoriの配信があると思うと早起きは苦ではない。
起床すると、壁一面に飾られたmayoriグッズに目を奪われる。mayoriのロゴが入ったTシャツ、タオル、アクキー、等々。飾る用に棚も設置しているので、思う存分飾ることができるのだ。
mayoriは人気配信者なので、コメント欄は常に盛り上がっている。
今は、mayoriを心配するメッセージが多数投稿されていた。嘘か誠か、医師を名乗るファンが登場し、昼夜逆転生活の危険性を説いている。
自分には専門外だ。コメント欄に参加できずにもどかしく思っていると、話題が変わった。
「コンビニで毎日、ペットボトルのお茶を買うんだけど。ちょっと飽きてきたんだよね」
薬味たっぷりの冷奴に箸を伸ばしながら、「かといって水は味気ない気がするし」と笑っている。
有り難きコンビニの話。これは得意分野だ。なんといっても週の半分はコンビニで勤務している。
『ルイボスティーなどはいかがでしょうか』
ルイボスティーは、ほんのりと甘く、ハーブティーの中でも飲みやすい部類だといわれている。
得意の高速フリック入力でコメントを送信したのだけど、メッセージが殺到しているため、高速で流れて画面上から消えた。
『ジャスミン茶はどうでしょう?』
めげずにコメントを送信する。またしても一瞬で消える。こうなったら仕方がない。投げ銭をしよう。
投げ銭をすると、コメント欄でしばらくメッセージが留まるのだ。投げた金額と一緒に、メッセージが表示される仕組みになっている。
バイトの時給と同額の金額を入力した。あとはメッセージを入れればOK。メッセージ……。
「他に変わったお茶って、あったっけ……?」
フリック入力の手が止まる。ダメだ。思い浮かばない。でも早くしないとコンビニの話題が終わってしまう。せっかくのチャンスなのに。何かメッセージ。コンビニにまつわること。
ええい、もう何でもいいから送ってしまえ……!
『ゼリービーンズぜんぜん売れない ¥1200』
私が送ったメッセージが、消えずにコメント欄に留まっている。
東京のコンビニで時給1200円は、ごくごく普通だと思う。私自身も金額と仕事内容に納得している。って、そうじゃなくて。
なんとつまらないメッセージを送ってしまったのだろう。
ゼリービーンズは、最近レジ横に置かれるようになった店長おすすめの商品だ。仕入れたものの、売れ行きが良くないのでレジ横に進出させたのだろう。その結果も芳しくないのだけど。
外国製らしく、妙に毒々しい色使いのパッケージが異彩を放っている。レジ業務の際、微妙に邪魔なのだ。場所を取っている。その邪魔だなという気持ちが、なぜ今になって噴出するのか。
仕入れセンス皆無なのが悪い。あんなものを店に置いているのが悪い。陽気な店長の顔を思い出して、腹立たしくも悲しい気持ちになった。
◆
レジ業務の最中、ゼリービーンズが視界に入ってきた。忌々しい気持ちになるので、ずいっと端に追いやった。袋詰めのスペースに進出して来ないで欲しい。
あの投げ銭をした日から数日経っても、まだ失敗を引きずっている。
金銭の問題ではない。mayoriのコメント欄に、あんな文言がたとえ数秒でも居座ったことが許せない。お目汚し失礼しました、と何度も心の中で詫びている。
ちなみに投げ銭は、するよりもされるほうが圧倒的に多い。こんな「食べているだけ」配信者の私にも、投げ銭は飛んでくるのだ。
正直、コンビニで働く必要もないくらいの金銭を得ているのだけど、金銭感覚がバカになったらこの先の人生が詰むのではという危惧もあるのでバイトは続けている。
コンビニバイトは、一度業務を覚えてしまえばあとは勝手に体が動く。機械的に体と頭が反応して、それっぽい声で接客も出来る。
それっぽいというのは、耳障りにならない、けれど義務的でもない、ニュアンスに「歓迎」と「感謝」を含む、そんな声色を指す。
レジの客が途切れたのと同時に、聞き慣れた入店音が聞こえた。反射的に「いらっしゃいませ」と言いながら視線を上げる。
入店してきた男性が視界に入った瞬間、思わず息を飲んだ。
すらりとした体型。黒のシャツに黒のパンツ、キャップ、サングラス。マスクも装着しているので、ほとんど顔は見えないのだけど、動悸が止まらない。
まさか、と思う。
確かめたい。けれど体が動かない。心臓がバクバクして息苦しい。
レジの真正面、ちょうど陳列棚が途切れた付近で、全身黒づくめの男を再確認する。
襟足にかかる髪は、つい最近染めたばかりだと言っていたアッシュグレイの髪色で。
推しのことは、顔を見なくても推しだと判別できる。体つき、歩き方、所作、髪質。後ろ姿でも推しのことは絶対に見分けることが出来る。
そのくらい容易いことだ。
だって、推しだから。
でも、そんなはずはない。人違いに決まっている。ただ単に、背格好が似ている人だ。
なんとか冷静を装う私のレジに、黒づくめはやって来た。
そして、レジ横のゼリービーンズを指さした。
心臓が止まりそうになった。
ゼリービーンズ。カラフルというよりも、毒々しいと表現したほうが正しい代物。
『ゼリービーンズぜんぜん売れない』
1200円の投げ銭と共に送ったメッセージ。
震える手でレジを通す。有料レジ袋の有無を確認する。合計金額を伝える。完全に思考停止しているはずなのに、体はコンビニバイトとして業務を全うしている。
支払いを済ませた男が、レジ台からゼリービーンズを手に取る。
その、右手。中指の付け根に、ふたつ並んだ小さなほくろがあるのを見つけて、私はその場に崩れそうになった。
mayoriだ……!
間違いない!!
泣きそうになる。それを堪えようとしてひどい顔になる。大きめのマスクをしているから、そのひどい顔が周囲に露見することはなかったけれど。
現実感がない。ぼんやりしながらも、引き続き業務に邁進する。忙しさのピークを迎えると、レジの列がぐんぐん伸びていく。無駄のない動きで対抗し、その列を捌いていく。
ようやく落ち着いたころ、ゴミを片付けるために店の外に出た。
私が勤めるコンビニは店先にベンチが置かれている。プラスチック製の長椅子で、従業員が休憩時に喫煙スペースとして使用している。おしゃべり好きな常連客のたまり場でもある。
ゴミをまとめながら、なんとなくベンチのほうに視線をやると、黒づくめがいた。
優雅に足を組みながら、ゼリービーンズを口に含んでいる。
mayori……!?
驚きのあまり、ゴミ袋を取り落としてしまった。
「寧々ちゃん、大丈夫?」
今日のシフトの相棒であるパート女性が、心配そうに店内から駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫です!」
ゴミ袋を掴み、集積場所に持っていく。慌てて店内に戻り、大きく息を吐く。
「お疲れ様です」
「えっ?」
「……帰らないんですか?」
深夜勤務の男子大学生に挨拶をされて、退勤時間が過ぎていることに気づいた。
「か、帰ります……」
私服に着替え、無駄に店内をうろつく。陳列棚の隙間から、まだ黒づくめがベンチに座っていることを確認する。
私はペットボトルのお茶を2本購入した。
ルイボスティーとジャスミン茶。
黒づくめのところへ行き、私は意を決して話しかけた。
「ゼリービーンズって、飽きませんか」
レジ横から一刻も早く消し去りたくて、実は何度か購入している。色は多種多様なのに、味は一辺倒というがっかり商品だった。
「飽きるね」
サングラスとマスク越しでも、にこりと笑ったのが気配で分かった。一気に心拍数が上がる。
「よかったら、お茶どうぞ」
買ったペットボトルを差し出す。
「個性的なチョイスだな」
「この間の配信で、飽きたとおっしゃっていたので。変わり種が良いかと思いました」
「そういえば、そんな話したね。いつだったかな……?」
「先週の金曜日です。始まって15分くらい経ったころ」
推しが放った言葉はすべて受け止める。一言一句、逃すことなく。
「さすがは俺のファン」
mayoriが、マスクを人差し指で引っ掛けるようにして下にずらす。
薄いくちびるに目を奪われる。口角がいたずらっぽい笑みを浮かべたときみたいな形になっている。
「……ここだと、出入りが多いので」
警戒しつつ、周囲を見渡す。ピーク時は過ぎたとはいえ、それなりに客が行き交っている。
コンビニの裏手には小さな公園がある。
仕事終わりに、私が休憩している公園だ。パンダやカバ、コアラの形を模した物体が等間隔で配置されている。
どの個体も、ペンキが剥げているので物悲しい表情をしている。それでも、ちょうど良いベンチになるので、私にとっては可愛い奴らだった。
mayoriを促すと、嬉々としてついてきた。
「あ、ここがバイト終わりに一息ついてるっていう公園かぁ」
パンダの頭を撫でながら、mayoriがサングラスとマスクを外す。それからキャップも。
……ん? どうして、私がここで休憩していることを知っているんだろう。同僚でさえ知らないはず。あ、そういえば、配信のときに、言った記憶はある。
自宅近くのコンビニでアルバイトをしていること。勤務終わりにアイスやお菓子を買って、裏手の公園でこっそり食べていること。
それを、どうしてmayoriが知ってる……?
「な、なんで……?」
……まさか。
ま、ままままさか!?
「み、見たんですか……!?」
私のチャンネル。お世辞にも上手とはいえない料理。
「いけない?」
「ダメに決まってるじゃないですかっ!」
部屋着姿をmayoriに見られたのだ。
いや、それよりも。なぜ、私のチャンネルを彼は視聴している? 私がmayoriのファンだということも知っていた。今、mayoriがここにいるのはどうして?
意味不明な事象が多すぎて、理解が追い付かない。
「俺のチャンネルも視聴してるから、お互い様じゃない?」
薄暗い公園の中で、唯一の外灯がmayoriを照らす。まるで、そこだけスポットライトに照らされているみたいだった。
「そう思うでしょ? ねねちゃん」
「え……?」
どうして?
私の名前を知ってるの?
「桜野寧々ちゃん」
もちろん配信で本名は明かしていない。
「な、なんで……?」
声が震える。
「可愛い名前だよね」
「ねねちゃんって呼んでいい?」
「……どうして? 知ってるんですか」
myoriが、困ったように肩を竦める。
「イヤだった?」
いや、なんだろうか。
自問自答したら一瞬で答えが出た。不快成分は一ミリたりとも検出できず、私は首を横に振るしかなかった。
「俺は、頼より。影山頼かげやまより」
「かげやまより……」
恍惚とした面持ちで、その名前を繰り返す。
妄信する神の降臨に感極まる信者のような心情で、目の前のmayoriを眺める。激しい感情ではなく、不思議と静かな海みたいに心が凪いでいる。
そうか、私は無神論者だと思っていたけれど、mayoriは自分にとっての唯一絶対の神なのだ。今さら気づいた。
「頼さま……」
ぽつりとつぶやくと、パンダに座った唯一絶対の神がふき出した。
「様はイヤだな」
神様を呼び捨てには出来ない。でも、それが神自身の願いなら仕方ない。
「頼」
決意を持って呼ぶ。
「はい」
満足そうな顔で、頼が返事をする。
かげやまより。かげやまより。より。より。より。
「あ、もしかしてmayoriって……?」
かげや【まより】だ……。
「安易でしょ」
「素晴らしい名づけだと思います」
心の底から、そう思う。
「ねねちゃんは?」
「え?」
「どうして【ぴちゃん】なの」
頼に説明すると、「なるほどなぁ」と唸っている。
「私のほうこそ、安易で恥ずかしいです」
「そんなことないよ。名前つけるのって、けっこう難しいよね。俺は特にこだわりがなかったから、面倒だったな。何でも良かったし」
共感の嵐だ。
「同じです……! 面倒で考えるのがいやになって、もう少しで【無職大学生】にするとこでした」
「いやいや、大学生の時点で無職ではないでしょ」
くすくすと笑う頼に見惚れる。
間近で見る頼は、解像度が高過ぎて脳の処理が追い付かない。笑顔まで見せられたら、もうどうして良いか分からない。腰が抜けそうになり、慌てて身近にあったカバの体にしがみつく。
いつもは物悲しいカバの顔が、なんだか呆れたように私を見ている気がしたけど、そんなのは絶対に気のせいだ。
頼は結局、ルイボスティをチョイスした。
こくこくと飲み干す様子をしっかりと目に焼き付ける。喉仏が上下する映像は、特に克明に脳に刻み込む必要がある。
喉仏がセクシーだなんて知らなかった。形の良い耳から、顎にかけてのラインも芸術品のように美しく尊い。これは美術館で厳重に保管しなければならない。そして私は、その美術館の警備員になる。
勇ましい警備の制服姿の自分を妄想していたら、ふいに頼の声が聞こえて我に返った。
「ねねちゃん、聞いてる?」
「あ、ちょっと。夢の国に行ってました……」
なんたる失態。目に前に本物の頼がいるというのに、安易な妄想の世界に逃げ込んでしまった。いや、この本物だと思っている世界こそが偽物かもしれない。
「もう少し、ねねちゃんと話したいんだけど」
首を傾げながら、残念だなという顔をする。
「はい」
これはもう夢だ。夢の可能性のほうが高い。そう思いながら、ぼんやりと頼の言葉にうなずく。
「これから、帰って配信しなきゃダメだもんね?」
「はい」
配信……? そうだ、私は食べるだけ配信者だった。
「じゃ、コメントするから」
「はい?」
……コメント?
「ま、まさか。配信を見る気ですか!?」
慌ててカバから立ち上がる。
頼はパンダの頭をぺちんと軽く叩くように撫でてから、私に「バイバイ」と手を振った。
キラキラの笑顔で磔にされる。
颯爽と公園を後にする頼を、私は茫然としながら見送った。