来ませんか——というのがどういった意味合いなのか、一瞬迷った。
勘違いだったらかなり恥ずかしい。
けれどフロイの眼差しが、あまりに真っ直ぐだったから……リティスは揺らぐことなく答えを返した。
「お誘いいただき光栄です。とてもありがたいお話ですが……お断りさせていただきます」
ウルジエ共和国式に、深々と頭を下げる。
すると頭上に、彼の苦笑が降ってきた。
「なぜ……とお訊きしても、よろしいですか?」
「遊学のお誘いでしたら、喜んで受けていたかもしれません。ウルジエ共和国には、学ぶべきところが多くありますから」
誘ってくれたのがフロイというのも大きかった。
掴みどころのない男性だが、彼には好感を抱いている。話していて元気をもらったことも、一度や二度ではない。今だってそうだった。
「けれど、フロイ様は……移住という意味合いでおっしゃっているように、感じられました」
リティスの直感は間違っていなかったのだろう。
彼は否定することなく、先を促すように首を傾げる。
「ルードベルク王国には、堅苦しい価値観が未だ根深く残っております。こうして指輪の紛失について責められているのも、根本には女性蔑視があると思っております。『どうせ女には重要な仕事など任せられない』、と」
オーリアから聞いている。
ウルジエ共和国やレーデバルト連邦は、多くの女性が活躍する社会だという。
能力さえあれば年齢、性別、身分、国籍問わず重用される。そのため、子どもの内から誰もが学問を習う。
子ども達のための学び舎もあるのだと聞いて、リティスはひどく驚いた。
ルードベルク王国では、小さい内から学べるのは身分のある者だけ。しかも学校に通うのではなく、それぞれが家庭教師から学びを得るかたちだ。
しかも女性に関しては、この学びがほとんど役に立たない。
社会進出の場がないため、生かす機会が来ないのだ。
だから勉強できる環境にある貴族の令嬢も、裁縫や社交マナー、楽器や教養といった、花嫁修業の延長のような分野しか学ばない。それが淑女として正しいとされていた。
アイザックの婚約者になってから様々な分野を猛勉強するというのも、おかしな話だった。もっと小さな頃から、誰もが平等に学んでいれば、急いで詰め込む必要なんてないのに。
ウルジエ共和国のように先進的な国に移住すれば、苦労も少ないのだろうか。
「いつかルードベルク王国も、ウルジエ共和国のように発展していけばいいと思います。そのために、私も尽力していきたいです」
「わざわざあなた様が変える価値がありますか? こんなにも懸命に公務をなさっているのに、その努力さえ平気で踏みにじるような方々ですよ」
フロイから切り込むような反論を受け、リティスは言葉に詰まった。
その間隙を縫うように、彼はさらに続ける。
「リティス様のように優秀な女性が、活躍の機会を奪われているのは見ていられません。あなた様ならば、どこに行っても輝くことができる。それだけの実力と、魅力のある方です」
フロイの手が、さりげなくリティスの手を包み込んだ。
訴えかける眼差しは真摯で、それでいてどこか切実にも見える。
まるで、心からリティスを求めているかのように。
きっと、昔のリティスなら揺れていた。
レイゼンブルグ侯爵家で父親に否定されながら育ち、先代クルシュナー男爵ともいい関係を築けなかった、あの頃のままなら。
それどころか喜んで頷いていたかもしれないと思うと、少しおかしい。
とても遠いところまで歩いてきたような感慨が湧いてくる。
ずっとずっと、自分の足で歩いてきた。
それが今のリティスの自信に繋がっているのだと、実感する。
リティスはフロイの手を、そっと外した。
「私を今、少しでも魅力的だと思っていただけるのであれば、それは……全てアイザック様のおかげです」
フロイの目が、痛みをこらえるように細められる。
それでもリティスは、あくまで微笑みを浮かべ続ける。
アイザックがいたからここまで来られた。努力できた。
互いに忙しくて隣にいられなかったとしても、心を支えてくれていたのは彼だ。彼がいてくれたからこそ強くなれたのだ。
「アイザック様のおかげで、今私はこうしてここにいる。交流会の歓待役として、胸を張って立っていられる。それならば私はこの力を、あの方が大切に思うルードベルク王国のために使いたい」
ずっと根底にあるリティスの原動力は、アイザックだった。
誹謗中傷にさらされても微笑み一つでかわし、諦めずに努力を続ける——そのための。
「……なんて。壮大な決意を語りましたが、もしアイザック様に愛想を尽かされたら、そちらに移り住むこともあるかもしれません」
フロイが思わずといったふうに目を丸くする。
それに軽く肩をすくめ、リティスはそっと息をついた。
将来のことは分からない。
けれど。
胸に手を当て、ぐっと顔を上げる。
リティスは誇らしげに、満面の笑みを浮かべた。
「けれど私は、そんな日は来ないと——心から信じております」
こんなに自信のないリティスでも、アイザックの愛だけは絶対だと信じられる。
それこそが、リティスを真っ直ぐ立たせてくれているのだ。
しばらく呆然としていたフロイが、やがてゆっくりと口端を引き上げた。
「……完敗ですね」
彼は緩く首を振り、笑みに困ったような色を混ぜた。
「実に残念です。優秀なリティス様ならば、絶対に我が国の役に立つと算段していたので」
「え」
今、明るく朗らかなフロイらしからぬ言葉を聞いたような。
リティスは混乱をそのまま顔に載せ、彼を凝視する。
フロイは緩くうねる黒髪をかき上げ、流し目を寄越した。そんな仕草もまた彼の印象にそぐわず、戸惑うしかない。
「正直押せばいけると思っていました。誤算は、思いのほかリティス様の意思が強かったことでしょうか」
「え……と」
「ルードベルク王国に来る前から、実は狙っていたんですよね。あなたを自国に引き込むことができれば、今回の交流会の十分な収穫になるだろうと。そのくらい、あなたに魅力を感じておりました」
「みりょくをかんじて……」
彼が何を言っているのか分からない。
そもそも、リティスに目をつけるというのが解せなかった。他国で有名になるようなことは、何一つ成し遂げていないというのに。
——そういえばフロイ様は、何度もそういう素振りを見せていたわ。以前から私を知っているかのような……。
リティスは、改めてフロイを見つめてみる。
異国情緒が漂いながらも親しみやすい美貌は、やはりどれだけ記憶をさらっても覚えがない。
リティスは思いきって、本人に訊ねてみることにした。
「ところで、つかぬことをお訊きしますが……フロイ様は、一体どこで私のことを知られたのですか?」
彼は目を瞬かせると、にやりと意味深に笑った。
「私があなたをどう思っているかより、そちらの方が気になりますか」
「え、どう、とは……はい。気になります」
「ははっ、正直な方ですね。アイザック殿下以外の人間は、恋愛対象にすらならないようだ」
「?」
もう馬鹿みたいに、頭の中が疑問符だらけだった。
リティスは真面目な話をしているのに、フロイが煙に巻こうとしている気がした。
「驚いてます? 一応それなりに、アピールをしてきたつもりだったのですが」
「なぜそこまでして私をウルジエ共和国に引き入れようとなさるのか、その方が気になります」
巧みな話術に惑わされないよう、リティスはきっぱりと一刀両断する。
彼は恋愛感情を振りかざすけれど、中身が伴っていないことくらい簡単に分かる。
アイザックの重たい愛情を知っているから、口先だけの求愛にときめいたりしない。
だからリティスにとっての論点は、あくまで移住の誘いについてだ。恋愛を騙ってまでというのが本気で不思議だった。
フロイからの返答は——真意の読めない笑みが一つ。
「それは秘密、です」
「ここまできて隠す必要はないように思います。一般的には、企みが露見した時点で素直に供述するのがセオリーかと」
「それ絶対に小説知識じゃないですか」
彼は呆れたように手を振ると、いたずらっぽく微笑んだ。
「少しくらい思わせぶりにしたっていいでしょう。どうせいずれ分かることですし、ふられた腹いせでもしないとやっていられないので」
「私はフロイ様をふっておりません」
「頑固ですね」
「フロイ様こそ、恋愛を便利に利用していれば、いつか痛い目に遭いますよ」
「もう既に耳が痛いです」
フロイはおどけるように肩をすくめると、用事があると言いわけをして逃げていく。
結局、真実は分からないまま。
——本当に、目的が分からないわ……。
大きなため息をついたあと、諦めてリティスも歩き出す。
その時になってふと気付いた。
先ほど文官と衝突をしてから、ずっと胸に重苦しいつかえがあったのに。
フロイのことばかり考えていたせいで、リティスはいつの間にか心が軽くなっていた。
——もしかしたら、これも彼の企みの内だった……?
誘い自体が目的だったとしても、リティスへの思い遣りもまた真実なのかもしれない。
本当に、フロイは不思議な青年だ。
恋愛感情は全く感じられないけれど、親愛に似た何かは、確かにあるように思えるのだから。