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第66話 針のむしろを行く

 まずリティスが疑問に思ったのは、エレーネに指輪紛失の情報を流したのは、一体誰なのかということ。

 リティスを敵視している国内貴族は多い。

 身内が大麻栽培事件を起こしたにもかかわらず、大した罰も受けず第二王子の婚約者の座に収まっている。それだけで反感を買うには十分だった。

 エレーネは、ルードベルク貴族の内の誰かから情報を得たのだろうか。

 だがそうなると、その何者かの情報源が分からない。印章の指輪がなくなったことは、ごく一部しか知らないはずだ。

 リティスやシマラ、フロイから漏れたのでないとすれば、指輪を盗んだ犯人自身が噂を広めた可能性が一番高い。

 だが、これもまた先入観は禁物だ。慎重に調べを進めていく必要があるだろう。

 犯人の真意が分からない以上、拙速に動くべきではないと、お茶会に参加していた全員が考えていた。

 逆に言えば、これ以上は何も仕掛けてこないだろうと、揃って油断していたのだ。

 ことが露見すれば、国際問題となる。犯人がリティスを標的としているなら、国同士の揉めごとに発展することは望まないはずだと。

 それがまさか、ここに来て事件が大きくなるとは。

 そこに犯人の意思が介在しているかは不明だが、これで隠し通せる問題ではなくなってしまった。火種を最小限のまま終わらせることもできたのに、国家間にしこりが残るかもしれない。

 同盟がどうなってもいいと思っているのか、自国に瑕疵がないことを証明する自信があるのか。

 ——どちらにしても犯人の意図は……結局、混乱を招くところにあるはず。

 指輪紛失が貴族達に知られれば、責任者への非難は避けられない。この騒動をどう収めるのか、それを吟味されているのだろう。

 一連の事件を引き起こした犯人の思惑を、リティスは至極冷静に読み取ることができていた。


 ……そうして思考に没頭していないと、黒い悪意に押し潰されてしまいそうだった。

 ひそひそ。ひそひそ。

 批判の視線と共に心を蝕むのは、密やかに交わされる噂話。

 内容なんて聞こえないのに、全てがリティスに向けられたものではないかと疑心暗鬼になっている。

 文官が多く働いている中央棟を歩けば、標的にされることは分かっていた。

 それでも指輪紛失の件が隠しておけなくなったのなら、国王陛下に報告するのが歓待役としての義務だ。

 報告義務を怠っていたリティスを、ケインズが叱責することはなかった。謝罪をする間、ただ深遠なる眼差しにさらされ続けるだけ。……これが、一番辛かった。

 ケインズの信頼を裏切る行為だと、もうリティスと話す価値はないと、突き付けられているようで。

 気分がどん底まで落ち込んでいても、中央棟には人目がある。

 背筋を伸ばして毅然と歩く。心ない噂話など、聞こえていないふりをする。

 助けて——なんて、絶対に口にできないから、必死に歯を食い縛る。

 リティスが努力するのは、アイザックの隣に立つためだ。王子妃というのは、一人でも立っていられる強さが必要。それなのに彼に助けを求めたら、それこそ本末転倒というものだった。

 とはいえ、覚悟と気持ちは裏腹だ。

 心は傷付き疲弊していく。自分の全てを否定されているようで、どこかに消えてしまいたくなる。

 ——せめて、顔を上げていよう。後ろ指を差されたって、決して俯かず。

 問題解決の手段が既に見つかっているかのように、余裕を匂わせて。こんな事態はリティスにとって些事なのだと、そう思わせるように。

「——失礼、レディ」

 その時、リティスを立ち止まらせる声がかかった。

 中央棟にはそもそも女性が少なく、見回してみても『レディ』はリティスくらいしかいなかったので、足を止めた。

 けれど、相手の皮肉は十分に伝わってくる。

 ——私をディミトリ公爵家の一員だと、認めることさえ嫌なのでしょうね……。

 存在そのものを認められていないのだと、肌で実感する。

 リティスに声をかけてきた男性は、文官の制服を着ている。

 とはいえ、第二王子の婚約者であるリティスの前に平然と進み出ているからには、文官として働いている貴族だと思われた。

「ご挨拶を申し上げます。本日も麗しく……」

「前置きは結構です。何か用件があるのでしょう?」

 何を言われるかは分かっているのに、白々しい挨拶はいらない。

 リティスは震えそうになる体を叱咤し、相手と真っ向から対峙する。

 文官はあくまでにこやかに切り出した。

「では、お窺いいたします。私は毎年、交流会の雑事を担当しております。交流会の期間もあと一週間ほど。今回も例年通り滞りなく終わると思っていたので、この度のことは非常に残念で……」

 文官は語尾を濁し、ちらりとリティスに視線を向ける。その先は口にせずとも分かるだろうと言わんばかりに。

「諫言でしたら、はっきりおっしゃればよろしいのではないですか?」

「諫言などと、とんでもない。ただ、万が一にも国際問題に発展するようなことがあれば、一大事にございます。何か対策がおありでしたら、ぜひ我々とも情報を共有していただきたく……」

 真っ当な申し出のようでありながら、やはり皮肉以外の何ものでもなかった。

 策がないと答えたら無能扱いされ、策があると答えても、なぜすぐに実行しないのかと責められる。

 そうして最後には、アイザックの妻に相応しい器量なのかという話になるのだろう。

 リティスは表情を変えずに問い返した。

「対策がない場合、どうされるおつもりですか? まさかこの場で王子妃に相応しくないと、私を糾弾するおつもりで?」

 明確な言葉にすると、相手は多少怯んだ。

 ことさら毅然とした表情を保っていたリティスは、ここで柔らかく微笑む。

「気にかけてくださるお気持ち、たいへん嬉しく思います。この度の問題に胸を痛めているのは、私も同じです」

「そ、それはもちろん……」

 皮肉をあえて額面通りに受け止めると、相手はしどろもどろになりながら頷いた。

 リティスは加えて、完璧な辞儀を披露する。

「我々の心は一つだと確信しております。どうか、見守っていただけると幸いです」

 駄目押しとばかりに有無を言わせぬ笑みを残して、文官の前を辞する。

 立ち去る後ろ姿すら優雅に、完璧に演じきった。

 しばらくは、相手の視線を背中に感じ続けていた。回廊を曲がりきったところで、ようやく少し気を緩める。

「——お手並み拝見させていただきました」

 リティスはビクリと肩を揺らした。

 人がいることに全く気付かなかった。壁際には——穏やかな笑みを浮かべたフロイがいるではないか。

「フロイ様……」

 その神出鬼没さに、だんだん慣れてきた節がある。

 そして先ほどの言葉から察するに、文官とのやり取りはばっちり目撃されているようだ。彼には情けないところばかりを見られている。

「リティス様、さすがの手腕ですね。王子妃に選ばれるだけあります」

「とんでもないです。アイザック殿下の婚約者になったからこそ、頑張っているだけであって……」

「だとしたら、なおさら素晴らしいことではありませんか。愛する方のために努力し、短期間で文官とも渡り合えるまでに成長しているのですから」

「そんな……」

 手放しに褒められると、どう反応すればいいのか分からなくなる。

 今は国内貴族達から厳しい目を向けられているから、余計に。

 リティスはたまらず矛先を変えることにした。

「フロイ様は、何かご不便はございませんか? 交流会中にこのようなことになってしまい、たいへん申し訳ございません」

「秘密を共有していた私にまで気を遣うことはありません。それより、リティス様の方こそ心配です。あのようなことばかり続けば、ご心労はいかばかりか……」

 フロイに気遣いを返され、リティスは苦笑する。

 逃げ出したいという思いが頭をよぎったのは、否定できない。

「……この程度のことで挫けていては、王子妃などとても務まりません。元々、批判されやすい身ではございますので」

 シマラ同様、リティスが既婚者だったことはどうせ知られている。隠すことではないだろう。 

 ルードベルク王国には、王族に嫁ぐのは未婚の令嬢、という通例がある。

 とはいえ、あくまで通例だ。法を犯しているわけではない。

 それでも、リティスの立場が特殊なのは明らかだった。

「この国には、女性を縛る制約があまりに多い。リティス様ほどの方ならば、いくらでもご活躍できるはずなのに」

「買い被りです。けれど、ありがとうございます」

「いいえ。これは決して世辞ではありません。先ほどの文官とのやり取りからも、あなたの才気は十分に見て取れます。正直、あのように責められるお姿を拝見するのは歯痒い」

 フロイの真っ直ぐな眼差しがリティスに向いた。

 黒曜石のような、星空のような、揺るがぬ光。


「リティス様——ウルジエ共和国に来ませんか?」



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