なぜシマラは、思いを伝えようとしないのだろう。
片思いだと思っているからか、それとも今の関係性を壊すのが怖いからか。
どちらにしても、距離を縮める努力すらしていないような気がする。それはなぜなのか。
森をテーマにしたお茶会が終了し、リティスは離宮一階部分にあるゲストルームを退出した。隣にはシマラもいる。
交流会が終わるまで、あまり時間はない。
二人きりで話をするなら今しかないと思った。
「シマラ様」
既に歩き出していた背中に声をかけると、彼女はゆっくり振り返った。
「何かあったか、リティス殿?」
話がしたいと申し出る前に、シマラの方から色々と察した。
「茶会の場では話せなかったことがあるようだ。では、私の部屋に招待させてくれ」
「ありがとうございます」
それから、彼女が使っている居室へと案内される。ここに来るのは、指輪紛失について相談を受けた時以来だ。
既に時間帯は夕方といってよく、黄みの強い西日が窓から差し込んでいる。
遅い時間に訪ねるのは失礼だと気付いたが、今回ばかりは礼儀作法に目をつむらせてもらおう。
その代わり、お茶会のあとだからと飲みものの準備を固辞する。
茜色に染まりつつある部屋で、改めてシマラと向き合った。
「単刀直入にお窺いします。シマラ様には——お慕いする方がいらっしゃるのでしょうか?」
思いも寄らない質問だったようで、彼女は珍しく目を丸くした。
「……なぜ、そんなことを確かめたい?」
シマラの疑問はもっともなものだ。
知り合って日も浅い相手から、自身の恋愛に口を出されても、余計なお世話でしかない。それこそ、信頼の置ける隣家のおばさんや情報通の同級生くらいにしか許されないことだ。
それでも、彼らの交流がどうなっていくのか、気になっているのが本心。
リティスは正直な気持ちを吐露した。
「何か、お力になれるのではないかと思いました。……差し出がましいことですが……」
こんなにありふれた言葉では、納得させることなど難しいだろう。
それなのに、意外にもシマラは理解を示した。
「なるほど。リティス殿は、以前結婚されていたと聞く。相手を陥落させるほど閨での技術に長けておられるということか」
「…………!?」
「そして今から、それをご教授いただけると」
——なっ、なっ、何のことー!?
リティスは心の中で絶叫していた。
だって、どういう誤解だ。
未亡人であったことは事実だが、未亡人だからと手練手管に優れているとは限らない。むしろ実際は経験皆無なのに。
真っ赤になって絶句するリティスに気付かず、シマラはしきりに頷いている。
「やはり閨での手技などは、実地で会得したのだろうな。ぜひ参考にさせてもらおう。たとえば性感帯を……」
「待って待って待って待って!」
リティスは勢いよく立ち上がると、敬語をかなぐり捨ててシマラを制止した。明け透けすぎて聞いていられない。
「わた、私……結婚している期間は長かったのですが、元夫とはほとんど顔を合わせることがありませんでしたので……」
「そうなのか?」
結婚生活の内容までは聞き及んでいないらしく、彼女は不思議そうに目を瞬かせている。
なぜ、シマラの恋愛相談を受けるはずがこんなことに。
「だとしても、現在はアイザック殿下の婚約者として教育を受けていることだろう。閨に関することも学んでいるはずだ。そこまで恥ずかしがることではない」
腕を組み堂々と言い切るシマラと、目を合わせていられない。
「ま、まだなんです……」
リティスは密やかに返した。
けれど残念ながら微塵も届いていないようで、彼女は同じ体勢のまま微動だにしていない。
意を決して、リティスは声を張り上げた。
「実はっ、まだ閨房学は勉強していないんですっ……!」
室内にしん、と沈黙が落ちる。
だがここまで言ってしまえば、もう怖いものなどなかった。せきを切ったように言葉が溢れ出す。
「閨房学どころか、そういった経験は一切ありません! 昔からほとんど勉強をしてこなかったので、この手のことにはとことん疎く……閨ごとに関しては、全くお役に立てないと思います……!」
リティスの勢いに圧されるように、シマラはぎこちなく頷いた。
「それは、その……すまなかった……」
「いえ、確か、レーデバルト連邦では、花嫁が初夜まで純潔を守り抜くといった考え方が、一般的ではないと聞きました。国が変われば常識も変わるものです。私は、シマラ様が非礼を承知で発言したとは思っておりません」
だからどうぞご安心ください、と言い切った時には、リティスはもう全身真っ赤に茹だりきっていた。涙目にもなっている。
それでも、外交問題にしないという言質を取らねば彼女も安心できないだろうと、懸命に対処したつもりだ。
ずっと戸惑っているようだったシマラは、やがて柔らかな笑みを浮かべた。
「……いいや。それでも、恥をかかせてしまったことに変わりはない。本当に申し訳なかった。そこまでは調べていなかったから、配慮が足りなかった」
労りに満ちた彼女の言葉。
けれどリティスはぎくりとさせられた。
王族の婚約者として初めて交流会の場に現れたリティスについて、事前に調べるのは不自然なことではない。出自や経歴を把握し、外交に役立てるためだ。
……既婚者だったことを知っているなら、もっと他のことも調査済みかもしれない。
「シマラ様……私の実家のことは……ご存じですか?」
静かに問いかけると、シマラは神妙な顔付きになった。
リティスの生家、レイゼンブルグ侯爵家。
その前当主が犯した罪は、アイザック達によって明らかにされ、断罪された。今や誰もに嘲笑される没落ぶりだ。
ディミトリ公爵家と養子縁組をして家名が変わっても、過去はなくならない。調べれば簡単に行き当たる事実だった。
「知って……おられるのですね」
返答を避けたことが何よりの証拠だ。
あまりな醜聞ゆえ、当事者であるリティスに直接何か言うことは憚られたのだろう。優しく高潔なシマラらしい配慮だ。
「ありがとうございます。我が生家のことを知りながら、こうして仲よくしてくださって」
たとえ同情や、打算が絡んだものであっても、リティスの思いは変わらない。これからも彼女と友情を育んでいきたかった。
するとシマラは、思いがけず強く首を振った。
テーブルの上に置いていた手に、彼女の手が重なる。
「リティス殿の人柄に惹かれて仲よくなりたいと思ったのであって、それとこれとは関係ない。……そう前置きした上で言うのもなんだが、我が国にとって大麻の所持は罪ではないのだ」
「はい。聞くところによると、信仰に欠かせない植物なのだとか」
あの日の授業はアイザックの乱入によって中断を余儀なくされたが、その後無事にオーリアから教えを受けていた。
レーデバルト連邦内には、神聖国が掲げる宗教とは別の信仰があるらしい。
一ヶ月に一度は異教の神を称える儀式が行われ、その瞑想中には大麻が使用される。
レーデバルト連邦では、大麻は神聖な植物とされているのだ。
「国が変われば常識も変わる、か」
シマラがふと呟く。
彼女の視線がテーブルの上に重なった手に移り、それからリティスに向けられる。
シマラの瞳は、どこまでも穏やかな色を映していた。
「これはあくまで私個人の意見だが……親が大麻の違法栽培に手を染めていたからといって、その子どもの価値まで揺らぐことはないと思う。リティス殿は、リティス殿の成し得たことで評価されるべきだ」
「——」
喉奥が震えた。
レーデバルト連邦出身のシマラだからこそ、そういった考え方ができるのかもしれない。
だが、ただ単純に嬉しかった。
ずっとリティスについて回っていた父親の罪を、関係ないと断じてくれた。リティス自身を貶めるものではないと。
重なる手から伝わる、優しい温度。包み込むような思い。
シマラもリティスと同じように願っているのだと分かった。
交流会が終わっても、きっとこの友情は続いていく。ゆっくりと成長し、やがてかけがえのないものへと変わっていく。
「ありがとうございます……シマラ様」
「礼を言われることではない。私は私の意見を述べたまでだ」
「はい。ありがとうございます」
「……全く。あなたという人は、どこまで愛らしいのか……アイザック殿下が過保護に守ろうとするのも頷ける」
「なっ!?」
なぜ急にアイザックの名が出てくるのか。
というか、さらりと愛らしいとか言わないでほしい。うっかり惚れてしまったらどうするつもりなのか。
リティスが動揺する様を一しきり眺めてから、シマラは再び口を開いた。
「……私のことは心配しなくていい。まずは首相にならないことには、自由な恋愛も許されぬ身でな。あちらも婚約に関しては様々な制約があるようで、どうせすぐには結婚できない。長期戦は覚悟の上だ」
「……え」
さらりと告げられた言葉に目を見開く。
リティスが当初抱いていた疑問の答え。
それがあまりに突然、しかも本当に何でもないことのように差し出された。
それぞれに事情があるから、今は隠しておく。それがシマラの恋愛だという。
——名前を伏せて濁しているけれど、きっとフロイ様のことよね……。
今はどうにもできなくても、シマラは恋心を守り抜く覚悟をしているのだ。
眩しいほど純粋な愛情に、何も言えなくなってしまう。
ややしんみりとした空気を破ったのは、扉を叩く音だった。
「——リティス様、至急お耳に入れたいことが」
スズネだ。
二人きりで話がしたいからと、どちらに付いている使用人も部屋の外に待機してもらっていた。
スズネは普段より口早に話し、何やら珍しく性急な様子だ。
シマラに許可をもらってから、扉を開く。すぐに顔を出したスズネは、潜めた声で耳打ちした。
「シマラ様が印章の指輪をなくされたことについて——エレーネ王女殿下が、我が国の貴族達に触れ回っておいでです」
スズネの報告に、リティスは表情を失った。