その時、アイザックがおもむろに動いた。
覚悟を決めたような、どこか決然とした面持ちが近付いて……リティスの手にあるポテトパンに、がぶりとかじり付く。
今度はリティスが固まる番だった。
「……うまい」
もぐもぐと口を動かしながら、アイザックはくぐもった声で呟く。
リティスは大きな歯型のついたパンを見下ろしながら、振り子のように何度も頷いた。
「……ね。本当に、おいしい、よね」
頬が熱い。
もうキスだってしているし、何なら閨係を務めていた。思い出すのも恥ずかしいが、彼の前で下着姿になったことだってあるのに。
漂う空気が熱を帯びているようで、非常に気まずかった。ついでに言えば、彼がかじったポテトパンをこのまま食べ進めることも。
そこから、リティス達は揃って真っ赤になりながら、黙々と食事を平らげた。
せっかく買ったさくらんぼのタルトの味が分からなくて、今後食事中にいちゃいちゃするのはやめようと心に誓う。
食べ終わったあとは気分を一新して、雑貨店巡りだ。
腹ごなしも兼ね、様々な露店を練り歩く。
異国情緒溢れる硝子玉のブレスレットや、色とりどりの羽で飾られた帽子。木彫りのお面や魔除けの像など、興味深い品物が雑多に売られていた。
「この辺りの品は、ウルジエ共和国やレーデバルト連邦から輸入したものかしら?」
「この魔除けの像は、カルタゴンで作られたものだと思うぞ。あちらの大陸でしか採れない、希少な香木が使われているみたいだ」
アイザックが、不気味な生きものをかたどった木像をリティスの顔に寄せる。
店先ということもあって一瞬躊躇したが、好奇心に駆られて匂いを確認してみる。すると思いのほか香り高くて、リティスは目を見開いた。
華やかさはないが、奥ゆかしく神秘的。そして、心が落ち着くような安心感があった。
「カルタゴンでは、この香木を使うことで、一層魔除けの効果が高まると考えられているんだ。やや香りが薄いから高級品ではないが、粗悪品でもなさそうだな」
さすがに聞き捨てならなかったのか、ここで店主が口を挟んできた。
「物知りの兄ちゃん、冷やかしなら他を当たっちゃくれねぇか。彼女にいいところをみせたい気持ちは分かるが、店先で商品の良し悪しを語られちゃあ、こっちは商売あがったりだ」
いかつい店主の言い分はもっともだった。
魔除けの像の相場は分からないけれど、買う気もないのに商品の批判をしているように聞こえただろう。同盟国について実地で学ぶつもりだったはずが、これは失態だ。
「すみません。珍しいものだったので、つい……」
リティスがすかさず謝るも、アイザックは不思議そうに首を傾げている。
「冷やかしではないぞ。今日の記念に彼女へ贈るつもりだからな」
これには、店主だけでなくリティスも内心目を剥いた。
蝙蝠のような羽が生え、大きく裂けた口には鋭い牙が並んでいる、不気味な魔除けの像。よりにもよってこんなに全力で甘さのない贈りものを、リティスにするつもりだというのか。正気か。
店主もリティスと同意見なのだろう、信じられないような目付きでアイザックを凝視している。
「はぁ……? 兄ちゃん、本気で言ってるのか? 指輪や髪飾りじゃなく、この魔除けの像を恋人に贈ろうなんて、正直俺でもどうかしてると思うぜ?」
「そうか? なかなか趣があると思うが。二人で出かけるのは初めてなんだ。せっかくなら印象に残るものを贈りたいだろう」
「そりゃあ、目に焼きついて一生忘れられないような代物だけどよぉ……」
店主の同情混じりの眼差しが、リティスに向けられる。まるで、運が悪かったと思って諦めろと言わんばかりだ。
けれどリティスはというと、だんだん面白く感じはじめていた。
よりにもよって、不気味な魔除け像という選択。確かにこれは、一生忘れられない記念になりそうだ。
今日のことをいつまでも覚えていてほしいという、アイザックの願いが込められていると思えば、不気味な中にも何だか愛嬌すら感じられる。
リティスは像の鋭い牙をちょんとつつき、彼に笑みを返した。
「ありがとう。大切にするわ」
「あぁ。喜んでもらえてよかった」
「……あんたらお似合いだよ」
会計を済ませ、改めてアイザックと笑い合う。
その間、店主はずっと半眼になっていた。光の差さない目は、『あぁ。兄ちゃんだけでなく、それに付き合うこの姉ちゃんもどうかしてるんだな……』と雄弁に語っていた。
生温い表情の店主に見送られ、二人は露店を離れる。
噴水広場を抜けるよう歩きはじめたアイザックが、おもむろに笑い出す。
「いい買いものをした。掘り出しものだぞ、これは」
「え……?」
ただ記念品という意図で買ったわけではなかったのか。
リティスは不気味な像をまじまじと見下ろす。
「先ほども言ったように、高級品ではないが粗悪品でもない。つまり、本物の希少な香木が使われているということだ。これだけでその辺の宝石よりも価値があるぞ」
「えっ」
リティスは危うく、魔除けの像を取り落としてしまうところだった。
宝石より価値のある品が、露店で投げ売りされていた。アイザックはそれに気付いたからこそ、記念に贈ろうなどと言い出したらしい。
リティスがどれほど眺めてみても不気味可愛い像にしか見えず、どうしても宝石と比較することができない。アイザックのような目利きになるには、まだまだ道のりが遠いようだ。
「……でも、私にとっては嬉しかったし、本当にいい記念になったわ。楽しかった今日のことを忘れないために、寝室に飾るわね」
魔除けの像に使われた香木の希少価値とか、そういったことは関係ない。
初めてアイザックと二人で出かけ、初めて贈ってもらったもの。
リティスにとって愛着が湧く理由は十分にあった。
だがアイザックは、さらにいたずらっぽい笑みを浮かべる。
「何を言っているんだ、リティス」
そうしてこちらの手を引くから、にわかに緊張してしまう。
普段のように手袋をしていないため、彼の体温がじかに伝わってくる。肌の質感も、指の付け根にある剣だこの固さも。
無意識だろうか。アイザックの指が、じゃれるようにリティスの手の平をなぞる。
彼からすれば他愛のない触れ合いかもしれないが、リティスはその度魔除けの像を抱え直さねばならなかった。うっかり落としそうになるから切実にやめてほしい。
「街歩きの本番はまだこれからだぞ」
「え……?」
アイザックが得意げに口を開き、リティスははたと顔を上げる。
気付いた時には周囲の雰囲気が一変していた。
いつの間にか大衆向けの雑多な区画ではなく、高級店が軒を連ねる街並みに入っている。気付かない内に誘導されていたらしい。
はじめから目的地は決まっていたようで、アイザックはある店舗に滑り込んだ。大きくはないが重厚感のある店構えで、老舗だと一目で分かる。
いくつかの品物が展示されている広間を素通りし、彼はさらに奥へと進む。勝手知ったるといった足取りで、従業員も頭を下げて道を譲る。
奥の間にはどっしりとしたソファが置かれ、リティス達は支配人らしき初老の男性に迎えられた。
「ようこそおいでくださいました」
「頼んだものは用意しているか?」
「はい。お眼鏡に適えばよろしいのですが」
支配人が退室し、部屋にはリティスとアイザックの二人だけになる。
猛烈に嫌な予感がして落ち着かない。
瀟洒な帽子やバッグ、洗練されたシルエットのドレス、芸術作品のような靴――店内にあるほとんどが婦人向けのものだからこそ、余計に。
彼はソファに腰を下ろすと、その隣をリティスに勧めた。
「噴水広場で、帽子を買うと約束しただろう?」
「確かに言っていましたけれど……」
「リティス、敬語に戻っているぞ」
「ここまで来たら、お忍びという意味での偽装は必要ないのでは?」
実際、支配人とアイザックは顔馴染みな様子だったし、リティスの存在にも訳知り顔で詮索は一切しなかった。
しばらくは所在なく立っていたリティスだが、彼からの無言の圧に耐えきれず、すごすごと席につく。ちなみにソファは極上の座り心地だった。
「これも学びの内と思えばいいだろう」
「そうおっしゃられても……」
リティス自身はそういう名目で心の折り合いをつけたけれど、それは先ほどまでのような露店を見て回る感覚でのこと。解釈違いが起きている。
「もちろん、見て学ぶだけですよね?」
「それでは、貸し切りにしてくれた店に失礼じゃないか?」
「そんなのはアイザック様の都合です。申し訳ないと思うなら、クローディア様にお土産を選ばれては――……」
支配人が従業員を引き連れて戻ってきたので、リティスは慌てて口を噤んだ。
というか、商品を捧げ持つ従業員の列があまりに長く、絶句するしかなかったとも言える。
リティスはくらくらしてきた。
ちょっともう、アイザックの暴走を止められるか自信がなくなってきた。