リティスが王都に来るのは、これが初めてじゃない。
レイゼンブルグ侯爵家の一員だった時や、前クルシュナー男爵と結婚していた時は、残念ながら縁がなかった。
けれど、トマスが男爵位を継いでからは、何度か彼ら一家と遊びに来たことがある。あの夫妻にとっては、遊びというより市場調査に近かったのかもしれないが。
書店に寄ってルシエラの一押し恋愛小説を情熱の限り紹介されたり、他の兄弟達と買い食いをしたり。はしゃぎすぎた子ども達が広場の噴水でずぶ濡れになり、急遽既製服を買いに走ったこともあった。
どれも当時のリティスにとっては、新鮮な出来事だった。
家族とはこうも温かく、笑顔に溢れているものなのか。
その輪の中にリティスが受け入れられていること、一緒に笑っていること。その経験は、不思議な戸惑いと共に、優しい思い出に彩られていた。
今もまた、リティスの心は新たな驚きで満たされている。
馬車を降り、多くの人で賑わう街へ一歩踏み出す。
しかも隣には、大好きなアイザックがいるのだ。
何て奇妙な非日常。
胸が期待に高鳴って、ありふれた景色さえ輝いて見える。
青果店の威勢のいい呼び込みも、露店で売られている食事のいい匂いも、日差しを受けながらキラキラと弾ける噴水の水しぶきも。
この商店街は、こんなに素敵な場所だっただろうか。
リティスはそわそわとした気持ちで、隣のアイザックを見上げる。
彼もまた、堪えきれない笑みをこぼしてリティスを見下ろしていた。
さぁ、どこから回ろうか。
二人は笑い合ってから、雑踏の中を同時に歩き出した。
「まずは、腹ごしらえだな」
「賛成です。あそこの露店は、買ってすぐに食べられるように、パンに紙が巻いてあるんですよ」
「買い食い。どこか食事店に入るよりいいかもしれないな。色々な食べものを少しずつ食べてみたい」
「飲みものと、食後の甘いものも欲しいですね」
「リティス、敬語」
「はい、すみませ……ごめんね、アイザック」
「可愛いから許す。おいしいものに夢中になって、普段より若干気が緩んでいるリティスも果てしなく可愛い」
「もう、何を言っているんだか」
確かに浮足立っている感は否めないが、王族への敬意は払っているつもりだ。
そんなことより早く行こうと、リティスは促すようにアイザックの手を引く。
彼は何やら感じ入った様子で、顔を上向かせた。
「あーーーー……可愛い」
「どうしちゃったの、アイザック?」
大方、名前で呼ばれることが照れ臭くなったに違いない。
自分から言い出したわりに慣れずに戸惑っているのだから、リティスにとっても可愛いしかなかった。
――身分なんてなかったら、二人でこんなふうに過ごすのが日常だったかもしれないのね……。
街中でよく見かける幼馴染み、あるいは友人同士や恋人同士のように。
何てことのない休日を共に過ごし、思い出を重ねていく。それが少しずつ降り積もり、やがて互いがかけがえのない存在になっていく。
それは、とても素敵な想像だった。
――まぁ、アイザック様が街に溶け込めているかというと、そうでもないのだけれど……。
目移りしそうなほどおいしいものに囲まれていたから、気付かなかった。
リティス達……というより、アイザックに釘付けになる周囲の熱視線に。
ベーコンパンにすべきかベーコンチーズパンにすべきか真剣に悩んでいる彼は、自分に注がれている視線に気付いていないようだ。
老若男女問わずアイザックの美貌に注目しているし、何ならパン屋の店主は全ての商品を持って行っても構わないという勢いなのに。常日頃から注目を浴びることに慣れているからなのか、単に無頓着なのか。
少し冷静になったリティスは、自分達を取り囲む人々のさらに外側へと視線を向ける。
注意深く観察してみると、建物の陰や人の輪の向こうに、落ち着き払った様子でこちらを見つめる複数名を確認できる。その中にスズネはいないけれど、おそらく諜報部隊か騎士団の者達だろう。
彼らがついているなら、アイザックに危険が及ぶことはないはず。
それでも、人だかりができてしまうと護衛をしづらい。人が多いせいで近付けない状況ならばなおさらだ。
リティスはいくつかのパンを手早く選ぶと、それをアイザックに押し付けて会計を済ませた。
「あっちにベンチがあるから、席を取っておいてほしいの。私はこれで飲みものを買ってくるわ。果実水でいいかしら?」
「それなら、一緒に行って選べば……」
「この時期は苺味がおすすめなの。私は別の味を買うから、一口飲ませてね」
「一口交換……」
互いの飲みものを分け合う行為は、何やら彼の琴線に触れたらしい。
アイザックは呆けた顔で頷くと、素直にパンを抱えたまま席の確保へと動き出した。
あちらは家族連れで混み合っているから、彼に見惚れていた者達も簡単にはついていけない。夢から覚めたように我に返ると、少なからず散開していく。
人だかりを散らすためにアイザックを誘導したに過ぎないが、リティスの発言は彼に秋波を送る少女達への牽制にもなったようだ。恋人が隣にいることに気付いたらしく、残念そうな顔で離れていく。
口を開かなければ存在にすら気付かれなかったのかと虚しい笑い声を漏らしながらも、リティスは飲みものを売る露店に立ち寄った。
一部始終を見ていた店主が、生温い笑みでたっぷりおまけをしてくれた。カップになみなみ注がれた果実水が激励だと分かる。
その後、タルトとキッシュを扱う店でさくらんぼとオレンジのタルトを一切れずつ買った時も、おまけでキャンディをもらった。優しさが胸に染み入る。染み入りすぎて逆に辛い。
席を確保して待っていたアイザックの元へ向かうと、彼は不機嫌そうに唇を尖らせた。
「やはり一緒に行けばよかった。可愛いリティスを、おいしいおまけで釣ろうとする不埒者が現れるとは……」
「これはそういうのじゃないのよ……」
気持ちは嬉しいが、リティスはアイザックが思うほど可愛くない。あくまで純粋なご厚意だ。
晴れ渡った春の空の下、今は日差しが眩しい時間帯。
リティスはふと、大きな木が日除けになっていることに気付いた。
「こんないい席が空いていたの?」
「リティスは帽子をかぶっていないから、テーブルを日陰に移動させるのを手伝ってもらったんだ。食べ終わったらリティスの帽子を買いに行こう」
「その前に、手伝ってくれたという人達にちゃんとお礼を言わせてくれる?」
人心地つきかけていたリティスは、聞き捨てならない発言を受け慌てて立ち上がる。
食べはじめる前に聞いておいてよかった。
リティスは、手伝い要員だというたくましい男性方にお礼を言って回る。アイザックの人たらしぶりが留まるところを知らない。
時間はかかったけれど、二人はようやく食事をはじめる。
アイザックが悩み抜いていたベーコンを巻き込んだパンと、チェダーチーズとベーコンを挟んでマスタードで味付けしたパン。アップルパイとクロワッサン。バターがたっぷり染み込んだじゃが芋が、まるごと一つ入ったパン。
「何だこれは。おいしすぎないか?」
「私が食べているこのポテトパンも、とってもおいしいわ。アイザックも食べる?」
リティスの問いに、アイザックが固まる。
クルシュナー男爵一家と出かけた時は、ルシエラ達と当たり前に分け合っていたから、それが街歩きの流儀だと思っていた。
真っ赤になっているアイザックを見て、もしかしたら間違っていたのかもしれないと、リティスはようやく気付く。そうして芋づる式に、果実水を一口交換するという発言がいかに大胆なものだったかまで。
――し、しまった……!
下心など一切なかったけれど、これではリティスこそ不埒者ではないか。弁解の余地もないため、ただあわあわと口を動かすしかない。