思いがけない提案に、リティスは目を瞬かせた。
「街へ……ですか?」
「あぁ。勉強も大切だが、たまには息抜きをした方がいいだろう?」
リティスは、咄嗟にオーリアを振り返る。
老爺は我関せずといった様子で、顔を上げようともしない。
王族に逆らうことなどできないのは分かる。ここでリティスが首を振ったら、アイザックの面目が立たないことも。
オーリアは平身低頭を続けることで、黙ってアイザックに従うよう促しているのだ。
つまり、ここで反論すれば、教師の面目もまた潰してしまうことになりかねない。
リティスはそれでも、返答に躊躇った。
今はまだ授業の時間で、同盟国の文化を学んでいるところ。オーリアはわざわざそのために、学術院から足を運んでくれている。
――しかもたった今、上に立つ者の資質として、欲に溺れぬ精神力と忍耐力について、話をしたばかりなのに……。
この場合、突如乱入したアイザックに問題があるのか。はたまた、彼の強引さを許してしまう自分の甘さがよくないのか。
街には、様々なものが売られている。
その中には同盟国から輸入されたものだってあるだろう。様々な国の産業を学ぶという点では、街へ行くことにも意義がある……はずだ。何とも言いわけがましい。
「……分かりました。私も……アイザック様と街に行ってみたい、です」
リティスは躊躇いつつも、結局頷いていた。
誘惑した張本人であるアイザックを、若干恨めしい気持ちで見上げる。
彼は、珍しく満面の笑みを浮かべていた。
困ったことに、やはりリティスは、アイザックのこういう素直さに弱いのだ。
オーリアに誠心誠意謝ったあと。
リティスとアイザックはいったん解散して、準備に取りかかることになった。
街へ出かけるにあたって、王宮で過ごす時の格好では目立ってしまう。特にアイザックは、輝く銀髪や美貌を隠す必要があった。
リティスもまた、それとなく市井に紛れ込めるような変装をする。
清潔な木綿のブラウスに、濃茶のスカート。飾り気なく髪をまとめれば、それほど工夫しなくてもありふれた一般人が完成する。
王宮で至れり尽くせりの生活を送っているとはいえ、元が地味ならこんなものだ。
待ち合わせ場所である宮の入り口にスズネと共に向かうと、既にアイザックが待ち構えていた。
オリーブ色の帽子を目深に被り、濃紺のジャケットとスラックスを合わせている。素材も上等なものではなく、街で売られている既製品に近い。
だが、それでもアイザックの気品や美しさは、隠しきれるものではないらしい。手足の長さやすらりとした体躯のせいか、一般人とは一線を画している。
そんな、自然と人目を惹いてしまうだろう青年が、リティスに気付いて嬉しそうに笑う。弾むような足取りで近付いて来る。
もうそれだけで、リティスはときめきで胸が痛くなった。
これが以前、スズネが口にしていた『普段と異なる状況に新鮮さを感じる』というものか。まさか男性だけでなく、女性にも有効だったとは。
「ア、アイザック様……これ以上の破壊力は、どうかもう……」
「破壊? 誰かに何かを壊されたのか、リティス?」
アイザックが深刻げに眉をひそめたことに気付き、リティスはすぐに何でもないふうを装った。
「あえて言わせていただくと心臓が壊れてしまいそうですが、もう大丈夫です。平常心を心がけますので」
「そうか?」
彼は不思議がって首を傾げるも、嬉しさを隠しきれぬ様子で表情を和らげた。アイザックの青い瞳が、リティスを映して愛おしげに細められる。
「その……リティスはどんな格好をしても可愛いな。街で見かける一般的な服装のはずなのに、こうも特別に仕上がってしまうとは思わなかった。おかしな輩に絡まれやしないかと心配になるから、今日はできる限り俺から離れないでいてくれ」
だから、破壊力。
リティスは頭に血が上りすぎて、くらりと後方に倒れそうになった。
すかさずスズネに支えられ事なきを得たが、出かける前から予定が中止になるところだった。優秀な侍女が耳元で『どっちもどっち……』と呟いた意味すら考えられないほど、リティスは動揺している。
――かかか、可愛いなんて、そんなことないのに……!
アイザックのように秀でた容姿をしているわけでもないのに、彼の目が曇りすぎている件。これは一度、宮廷医に診てもらった方がいいかもしれない。
真正面から褒めちぎられ、どのように対応すればいいのか分からなかった。
上流階級で交わされる賛辞は形式的なものだから、そつのない笑顔で感謝の言葉を返すことができる。
けれど、アイザックは本心からリティスを称賛している。それが分かるからこそ心に響くし、ここまで狼狽えてしまうのだ。
この場合、感謝を伝えればいいのだろうか。だがそれでは、リティスの方が形式的な対応をしたように誤解されないか。
嬉しいと感じたのだから、こちらも心からの思いを伝えたい。
リティスは突き動かされるように口を開いた。
「――アイザック様も、今日も本当に素敵ですっ。いつも惚れ惚れするほど凛々しいですが、装飾が少ない分、普段よりアイザック様ご自身の格好よさが際立っているように思います! 本当に、これほど素晴らしい方と一緒にいられるなんて、何だか夢を見ているような気分です……!」
本心を吐き出し終えて、リティスは顔を上げる。
すると、アイザックは頬どころか全身を真っ赤に染めていた。
リティスはぽかんと彼を見上げた。思うままに口を動かしていたから、自分が何を言ったのか、いまいち自覚していなかった。
「ア、アイザック様……?」
「ぐうっ……破壊力……」
「破壊? 誰かに何かを壊されたのですか?」
胸を押さえているから、もしかしたら具合が悪いのかもしれない。
リティスは焦ってアイザックを覗き込む。彼がますます赤くなるから、余計に心配になった。
「アイザック様……もし具合がよくないのでしたら、街へ行くのは延期ということにしませんか? また予定を合わせればいいだけのことですし……」
体調に配慮しての提案だったが、その途端、彼は雷に打たれたように我に返る。
「そうだった……! こんなことをしていたら、出かける前に日が暮れてしまう……!」
すぐさま玄関から出て行こうとするアイザックを、リティスは慌てて引き留めた。
「お待ちください! ご無理はなさらない方が……」
「無理というなら十分してきた! この日のために執務も前倒しでこなしたし、それでも馬車馬のように追加で働かせようとする兄上を何とか納得させたんだからな!」
アイザックは振り向きざまに反論したかと思うと、拗ねた顔で項垂れた。
「全部、リティスと一緒に出かけたかったからだ……」
「アイザック様……」
運よく公務が早めに終わって、急遽時間ができた。彼は先ほどそう言っていたけれど、実は今日のために様々な苦労をしてきたようだ。
それなのに、授業中に乱入してきたことを恨めしく思うなんて、リティスは恥ずかしくなった。自分の都合しか考えていない。
リティスは覚悟を決めると、力強く頷いた。
「——分かりました。今日は目いっぱい楽しみましょうね、アイザック様」
「本当か?」
すぐに嬉しそうに頷き返したアイザックが、ふと表情を改める。
「そうだ、リティス。その『アイザック様』というのはやめてくれ。せっかく変装をしたのだから、敬語もなしだ」
確かに、街に溶け込むためには口調も合わせなければならない。堅苦しい敬称をつけていれば、上流階級だと吹聴しているようなものだ。
「では……じゃなくて、えぇと……ア、アイザック……?
せめて軽めの『さん』なら、敬称をつけても許されるだろうかと考えながら、恐るおそる名前を呼んでみる。
すると、アイザックは嬉しそうに眦を緩めた。
「リティス、もっと親密に『アイク』と呼んでもいいんだぞ?」
「それは……もう少々お時間をいただきたく……」
既に限界を超えて頬が熱いのだ。
これ以上は難易度が高すぎる。
アイザックはリティスの反応を存分に楽しんでから、馬車に向かって歩き出した。けれど数歩行ったところで足を止め、背後に控えたスズネを振り返る。
「二人きりの時間を楽しみたいから、お前達はなるべく離れた場所にいてくれ」
「……かしこまりました」
諜報部隊の一員であるスズネは、隠密行動を得意とする。
王族という立場上、護衛を置いていくわけにはいかないから、今回は彼らを連れて行くつもりらしい。
「スズネ、ありがとう。あなたがいてくれたら心強いわ」
「……かしこまりました」
二人のいちゃつきぶりを見て、スズネの目がすっかり死んでいることに、浮かれて馬車に乗り込むリティス達は最後まで気付かなかった。