「では、最後に北のレーデバルト連邦についてお話ししましょうか」
「よろしくお願いいたします。連邦ということは、いくつもの国によって形成されているということですよね?」
オーリアは一つ頷いた。
「その通りにございます。二つ以上の国が、一つの主権の下に結合して形成する国家形態。それが連邦の定義です」
多数の人種が暮らしているウルジエ共和国とは、似ているようで違う。
ウルジエ共和国には多数の民族が暮らしているが、一つの国として成り立っている。
それに対しレーデバルト連邦にはいくつもの州が存在しており、それらがほぼ一つの国のように国家を構成している。それぞれの州に自治権があり、それをまとめる連邦政府も存在しているという。
「そのためウルジエ共和国と同様、地域によって言語も異なります。レーデバルト連邦の現在の首相は、その全てを解する傑物だと言われております」
「ちなみに、言語というのはいくつほど……?」
「方言と呼べる範囲のものを含めると、百以上あるということです」
「百以上!」
驚嘆に値する数字に、思わずのけ反ってしまった。
素直な反応を見せるリティスが面白かったらしく、オーリアはくすくすと笑っている。
「驚かせすぎましたかな。方言の範囲を除外すると、五十ほどになるそうですよ」
「五十……それでも、驚異的な数ですね……」
「まことに。連邦政府の現首相が、連邦内の大多数から指示される所以でしょうな」
現在の首相は女性で支持者も多く、人を惹きつける資質を持っているという。
オーリアが大多数、と表現するからには、反発する者も一定数いるのだろうが。
また、レーデバルト連邦の大半が、動植物を大切にする国民性らしい。
これは、国土は広いものの痩せた土地が多く、植物が育ちにくいところから由来しているという。
「年中強い風が吹いているため、土地だけでなくその影響もあるのでしょう。そのように過酷な環境を生き抜く動物達への畏敬の念も、そこから派生しているようです」
レーデバルト連邦の国民の多くは、自然回帰的な暮らしをしているらしい。
主食は寒さに強い大麦で、四本足の獣の肉は食べない慣習があるため、そこには気を配らねばならないだろう。
「そして……大麻を栽培し、輸出する国でもあります」
オーリアの声音は淡々としており、それゆえやけに静かに響いた。これまで子どものような無邪気さを伴っていたからこそ、余計に。
思慮深い眼差しを受け、老爺が何を危惧しているのか手に取るように分かった。
当主による大麻栽培の罪で没落したレイゼンブルグ侯爵家は、リティスの生家だ。
大麻は、忌まわしい記憶と繋がっている。
ルシエラを誘拐したのもボルツ・レイゼンブルグ――リティスの実の父親。利己的な理由で少女に危害を加えた、血も涙もない男。
それも、実の娘を幼少から虐げてきたのだから、ある意味当然だったのかもしれない。
オーリアの気遣いに、リティスは何とか笑みを返す。
「そうでしたか……ですが、大麻とは寒さの厳しい土地で育つものなのですか?」
こちらも淡々と、私情を挟まず質問をする。
温かだった空気が、急に余所余所しく感じた。
「一般的には、大麻とは温暖な土地で栽培されるものです。ですが、寒い土地で全く育たないというわけではありません。成長の速度は遅れますし、品質にも影響は出ますが、レーデバルト連邦くらいの気候ならば、十分栽培可能です」
大麻栽培のために温室を用いることもあり、その建築費用の一部を連邦が補助しているという。国が認めた事業なら、そういった制度もあるだろう。
――国が違えば、本当に常識も変わるのね……。
分かっていたつもりだが、これが今日一番の衝撃だったということは、本当の意味では理解しきれていなかったのだろう。
ボルツのことは別にいいのだ。
義母にも、何の思い入れもない。
けれど――ユリアとヴォルフは。
実父が大麻栽培をしていたことを知らなかったのは、リティスも一緒だ。
それなのに今、全く違う立場にいる。
王宮で安穏と暮らし、第二王子の王妃となるべく教育を受けるリティスと。
厳しい立場を強いられているだろうユリア達と。
義理でも兄弟なのに……冗談にしても笑えない落差ではないか。
どれほど考えないようにしたって、自分が幸せであるほど後ろめたさは消えない。エルティアから、厳しくも優しい激励をもらったのに。
リティスはハッとして、丸まっていた背筋を伸ばす。
――そうだ。逃げないために、頑張らなきゃいけないんだわ。
目を逸らさず、義妹達と向き合うために。
リティスはもどかしい気持ちにいったん蓋をして、オーリアに向き直った。
「授業の流れを止めてしまい、申し訳ございませんでした。先生、説明の続きをお願いいたします」
リティスは、挑むようにオーリアを見つめる。
長い沈黙が続く。
老練の教師は、こちらの葛藤をつぶさに観察するような眼差しでリティスを見つめ返した。
ふさふさとした眉毛の奥、オーリアの眦が緩む。
「……リティス様は、上に立つ者に必要な資質を何と心得ますかな?」
「え……」
唐突な質問を投げかけられ、リティスは目を瞬かせた。
けれど、オーリアにとっては話の流れを汲んだものであり、意味のあることなのだろうと思い直す。
リティスはすぐさま質問の内容を吟味する。
「上に立つ者に必要な資質、ですか……統率力は元より、広い視野や、様々な立場の意見を取り入れる柔軟な姿勢が、肝要かと存じます」
オーリアは何度も深く頷いた。
「そうですな。挙げられた全て、確かにとても大切なものでしょう。けれど私が何より重要視するのは――自身を律する精神力にございます」
「精神力……」
心の強さとは、何とも曖昧な答えに思った。
統率力などは誰の目にも分かりやすいかたちで結果が現れるけれど、精神は目に見えぬもの。誰もが同じ評価を下すのは難しい。
リティスの疑問を読み取ったオーリアが、持論を続ける。
「過去、欲に溺れ国を傾けた王族は何人もおります。玉座につくまでどれほど優秀だと称賛されていても、素晴らしい王となることを熱望されていても、欲に落ちるのは一瞬です。それほど、権力というのは魅力的なものなのでしょう」
それはリティスにも理解できる。
建国史にて、ルードベルグ王国が何度か崩壊の危機に直面したことを学んだ。
戦争に王位継承、あるいは天災で。
人同士での争いはともかく、天災ですら対応によっては人災に変わってしまうことを知った。
たとえば、不作が続いて国民が飢えているのに、国庫を解放しない王。
川の氾濫で住むところがなくなった国民に対し、救済の手を差し伸べない王。
流行り病の拡大を恐れ、薬草や物資が行き届いていないにもかかわらず、患者を徹底的に隔離した王。
その誰もが凡庸だったわけではない。
まことに秀でた王子だったはずが、失策を重ねた。そしてそれぞれ、ことが納まったあとには代替わりを余儀なくされている。
「結局のところ、長い治世の中で一瞬たりとも気を抜かず、我欲に囚われず、生涯を終える……そういう者こそが、のちの世で賢君と称えられているのではと、私は思うのです」
何年も自身の欲望を押さえつけ、国と向き合い続ける。
その忍耐力こそが肝心だと……すなわち、自身を律する精神力だと、オーリアは考えているのだろう。
静かに頷き返すと、彼はふと相好を崩した。
「先ほどの対話で、あなた様の強さを拝見することができました。決して私情を挟もうとはなさらず、ただレーデバルト連邦を国として捉えておられた。リティス様の中には、既にそれがあるのかもしれません」
とんでもない買い被りだと、リティスは慌てて首を振った。
「私は……強くなどありません。幼い頃よりずっと、父に逆らわず背中を丸めて生きてきました。時々考えるのです。私がもっと強ければ、父の凶行を止めることだって、できたのではないかと……」
虐げられるまま、そこから逃げようとも戦おうともしなかったリティスを知らないから、オーリアは過大評価ができるのだ。
何もしなかった。だからレイゼンブルグ侯爵家は没落した。長子として、ユリアやヴォルフを守ることができなかった――……。
「私は弱いです。だからこうして、必死に知識を蓄えるしかない」
「では、あなた様の強さは、弱さを知っているからこそ芽生えたものなのでしょう」
「いいえ。そもそも、義妹達のことを思い出してはくよくよと悩んでいるのだって、弱さ以外のなにものでもありません」
「そうでしょうか? 過去を顧みない者に成長など見込めません。つまり、それは強さを掴み取っていく過程でしかない」
いくら否定しても、オーリアは頑として意見を曲げなかった。
頑としてというか、柳の枝のようにしなやかに流されてしまう。
ついに反論を封じられ黙り込んだリティスに、老教師は笑った。
「その小さな芽を、大事に、決して手放さずに育て続けてください。リティス様はきっと、第二王子殿下と並び立つに相応しい方となられる」
「――――」
こんなふうに肯定されたのは、初めてかもしれなかった。
これまで、リティスの人柄を気に入り、自信を与えてくれた人はたくさんいる。
だが、尊き立場に比準して、激励を送られるなんて……いつまでも生家に囚われていた過去のリティスでは、考えられないことだった。
毎日がむしゃらに勉強をして、前に進んで。
その努力は無意味なんかじゃないと、背中を押された気がした。
確実な実力を身に着けるまでは、身内以外の誰も味方ではない。
そう思い込んで常に気を張っていたけれど、リティスを批判的に見る者ばかりではないということなのだろう。
「ありがとうございます……オーリア先生」
リティスは、心からの感謝を込めて呟く。
オーリアがいたずらっぽい笑みになるから、ついつられて笑ってしまう。
そうしてしばらく、教師と生徒の穏やかな時間が続く。忙殺される日々の中で思いがけず得た、束の間の休息。
しかし突如その平穏を乱したのは――リティスが忙しさに身を投じる、その理由となる人だった。
「リティス‼」
扉が派手な音を立てて開き、リティスは驚きの声を上げた。
「ア―― アイザック様⁉」
アイザックは執務に追われているはずなのに、なぜここにいるのか。
一瞬見間違いかと考えたが、オーリアが礼の姿勢をとっているので、幻覚ではなさそうだ。
「殿下……本日は、どうなさったのですか?」
「うむ。運がいいことに、公務が早めに終わってな。急遽時間ができたんだ」
颯爽と歩み寄ったアイザックは、嬉しさをこらえきれない様子で破顔した。
「だからリティス。今から一緒に街へ出かけないか?」