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第42話 ひとときの逢瀬

 彼女の言葉が、ものすごく緩やかな速度で脳内に浸透していく。

 アイザックが、お越し……来ている。

 今。

 ——……今!?

 ようやく理解に到達したところで、リティスは瞬時に覚醒した。

「ア、アイザック様が……⁉」

 慌てて身を起こして夜着を整える。

 その途中でリティスは我に返った。

「あ……着替えた方がいいに決まっているわよね」

 閨係をしていた頃は、散々夜着のままで会っていたから、すっかり忘れていた。

 一般的に、婚約中の男女であろうとも、夜着を見せるのははしたないことだ。

「スズネ、急いで支度を。簡単なものでいいわ」

 リティスはすぐさまベッドから降り、ドローイングルームに向かった。

 簡素なブラウスとスカートに着替え終えると、応接間へと案内されてアイザックがやって来た。彼は執務を終えたそのままの足で訪問したらしく、かっちりとしたジャケット姿だ。着替えておいてよかった。

 久しぶりに目にするアイザックは、強烈の一言に尽きる。

 凛とした輝きを帯びる銀髪に、涼やかな青い目。通った鼻筋と薄い唇が完璧に配置された顔。多忙からか頬の輪郭はやや痩せているが、それがむしろ引き締まった印象を与える。相変わらず新鮮に格好いい。

 今日会えるとは思っていなかったため、嬉しい驚きだった。

 毎日彼の顔を思い浮かべながら、会って話がしたいと願っていた。それが、こんなに早く実現するなんて。

「お久しぶりです、アイザック様」

 リティスは頬を綻ばせながら、アイザックに駆け寄った。

 彼の方もこちらを目にした途端、思わずといったふうに破顔する。

 嬉々としてその胸に飛び込みかけ――リティスは、はたと立ち止まった。

 同じ宮で寝起きしているとはいえ、今はまだ婚約中の身。これもまた、閨係だった時と同じようではいけない。

 接触は最低限。

 リティスはぎこちない動きで、伸ばしかけていた腕を下ろした。

「アイザック様……ずっと、お会いしたかったです」

「リティス――俺もだ。忙しいお前の邪魔をしたくなかったのだが……これ以上我慢が利かなかった。すぐに帰るから、今日はほんの少しだけでも話がしたい」

「そんな。すぐに帰るだなんておっしゃらず、ゆっくりしていらしてください。今、スズネがお茶を用意してくれていますから」

 そんな会話をしている内に、あっという間にティーセットが準備されていた。執務で疲れているアイザックのためにかクッキーなどの茶菓子も用意されている辺り、さすがだ。

 リティスはアイザックをソファに誘導した。

「お話したいことがたくさんあるんです。私が交流会の歓待役を任されたことは、お聞きになりましたか?」

「あぁ、聞いている。俺も交流会の準備に携わっているから、協力できることはあると思う。いつでも頼ってくれ」

 アイザックは自分の執務をこなすだけでも忙しいのに、こうして気にかけてくれる。

 その気遣いが嬉しかったから、リティスは満面の笑みを浮かべた。

「大丈夫ですよ。補佐役として、クローディア様にお手伝いしてもらえますから」

「義姉上が?」

 リティスは、昼間のクローディアとのやり取りを反芻しながら答える。

「はい。今日初めてお話ししましたが、とても素敵な方でした。堂々とした佇まいはさることながら、つい聞き入ってしまうほど話術も巧みでいらっしゃって……同じ女性として憧れます」

「は……?」

 目の前にいるアイザックではなく空想のクローディアを見つめていたので、リティスは彼が固まっていることに気付かない。

「同盟国についても、ただ情報としての知識ではなく、その背景にある歴史にも造詣が深く、学ぶところが多かったです。私も、もっと努力しなければならないと思いました」

「そ、そうか……」

「クローディア様は紅茶がご趣味のようで、様々な産地から茶葉を取り寄せていらっしゃるそうです。ルードルフ殿下やお子様達のために、手ずから紅茶を淹れることもおありのようですよ」

「あぁ……」

「……アイザック様?」

 リティスはここでようやく、彼が浮かない顔をしていることに気付いた。

 久しぶりに会えたからといって、自分のことばかり話しすぎただろうか。

 リティスはすぐに頭を下げた。

「申し訳ございません、私が軽率でした。アイザック様はお疲れでいらっしゃるのに、長々とお引き留めして……」

「いや、全く疲れてはいないぞ! ただ、あの豪傑と比べなくてもリティスは十分素晴らしい女性だし、憧れる必要は全くないと思ったまでだ!」

 思いのほか強い否定が返ってきて、リティスは目を瞬かせる。

 そうして、ゆっくりと頬を緩めた。

「ありがとうございます。豪傑という表現がいささか気になりますが、アイザック様にそう言っていただけると自信がつきます」

「豪傑という表現も、リティスが素晴らしい女性だというのも、俺は事実を述べているだけだ。リティスにはリティスのよさがあるのだから、ああはならなくていい」

「……アイザック様は、私を喜ばせる天才ですね」

 子どもの頃から、甘いお菓子をくれたり、面白い話をしたり。リティスの心の中が見えているのではないかと思うほど。

 クローディアに憧れる気持ちは本心だけれど、ほんの少しだけ……劣等感はあった。

 華やかで強くて、自信に満ち溢れている彼女が羨ましく、引け目を感じていた。

 それが、アイザックのたったの一言で——こんなにも救われる。

 リティスはリティスのままでいいのだ。

「……よろしければ、お菓子を召し上がりませんか? スズネが、きっと殿下はお腹が空いているだろうと」

「あぁ、ありがとう」

 できるだけ共にいる時間を引き延ばしたくて、リティスは彼の方へ菓子が入った器を押しやった。

 アイザックも空腹なのか本当のところは分からないけれど、黙々と菓子を食べはじめる。

 自分と同じように、少しでも長く一緒に過ごしたいと思っているのだろうか。そうだとしたら嬉しい。

「こちらのお菓子もおいしいですよ。アイザック様、バターがたっぷり使われたフィナンシェがお好きでしたよね」

 リティスは追加の菓子を取り分けつつ、笑い声をこぼした。

 フィナンシェが載った取り皿を、彼はやや決まり悪げに受け取る。

 幼い頃のアイザックは、リティスとの秘密の待ち合わせ場所によくお菓子を持って来てくれた。それが家族や乳母の目を盗んでのことだったので、手口はかなり大胆なものだった。一生懸命に握り締めすぎたフィナンシェのせいで、手の平がバターまみれになるくらいには。

 頑なに目を合わせようとはしないけれど、アイザックも同じ思い出を共有している。きっと今、同じ場面を回想していることだろう。

 しばらく黙り込んでいたアイザックが、咳払いをして口を開いた。

「その……リティスは義姉上と、ずいぶん仲よくなったみたいだな。優しい方だが派手な容姿のせいで、初対面では特に誤解されやすい。思いがけなくて驚いた」

 そこで一度言葉を切ったが、彼は慌てた様子ですぐに付け足す。

「いや、これは断じて嫉妬ではないからな。クローディア義姉上とリティスは義理の姉妹となるわけだし、仲がいいのはいいことだ。うん」

「ふふ、分かっております。嫉妬する理由がございませんもの」

 頷くと、なぜか彼は再び黙り込む。

 リティスの返答が気に入らなかったのだろうか。どこかふて腐れた少年のようで、さらに笑みが込み上げてくる。子どもの頃を思い出して微笑ましい。

「……今日のリティスは、意地が悪い。俺のことを完全に子どもだと思っているだろう」

 アイザックは、さらに不満そうに口端を引き結んでいる。

 けれど、拗ねた彼も可愛くて仕方がないのだから、どうか二人きりの時くらい愛でるのを許してほしい。

 かろうじて口元は隠していたものの、リティスが笑っているのは明らかだっただろう。アイザックは、青い瞳に凶暴な光をひらめかせた。

 まずいと謝罪を口にしかけたがもう遅い。

 彼は素早く立ち上がると、一人がけのソファにリティスを囲い込んだ。そうして覆い被さるように、全ての体重を預けてくる。

 可愛い年下の婚約者だと油断していると、こういう男らしさにリティスは度々驚くことになる。

 今も全身の血が沸騰したように熱くなって、身じろぎ一つできない。

 まるで小動物のように大人しくなったリティスを腕の中でじっくりと観察し、アイザックは満足そうな笑みを浮かべた。

「リティスは子どもに抱き着かれて、そんなに愛らしく恥じらうのか?」

「あ、愛らしいだなんて……嫌な態度だったことは謝りますから……」

「愛らしいぞ。真っ赤に熟れた頬も、潤んだ深緑色の瞳も、頼りなげな表情も全てが――食らい尽くしたいほどに」

 ゆっくりと言葉を区切るたび、アイザックの指先がいたずらに動く。

 頬に、目蓋に、唇に触れられ、心臓が破裂しそうだった。

 子ども扱いがよほど不服だったのか、子どもではあり得ない色気が凄まじい威力で襲いかかってくる。

 これはもう、降参するしかない。

「アイザック様、どうか許してください。楽しい時間を過ごすはずが、これでは……のぼせてしまいそう……」

 切実に訴えかけると、優位を確信して笑っていたアイザックが、目を見開いた。

 リティスの熱が移ったように頬が赤くなる。すぐに離れていくかと思いきや、彼は腕にますます力を籠めた。

「アイザック様……?」

「……これ以上は、誓って何もしないから……もう少しだけ、このままで――……」

 耳元近くで囁く声は、熱を帯びているかのようだった。

 くらくらするのに、抗おうとすら思えない。

 リティスは、アイザックの背中におずおずと腕を回した。

 早かった鼓動が重なり、少しずつ速度を落とす。

 二人で一つの生きものになったような一体感。

 互いの熱は、やがて穏やかな温もりへと変化していく。

 久しぶりの甘い時間に、リティスの心は満たされていった。


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