「――会いたい。会いたいのに、なぜなんだ……」
呪わしい声音で、アイザックは鬱々と恨み言を吐き出す。
「リティス……リティスが足りなくて頭がおかしくなりそうだ……やはり避けられているのではないか……? 俺ばかりがいちゃいちゃしたいと思っているのか……? いや、そんなはずはない。妃教育で忙しく、疲れているだけ。だから会えないだけだ。そう、むしろ今こそ俺が、リティスを労わってやるべきでは……冷たい飲みものを提供し全身マッサージをして彼女が望むならそのまま唇を奪ってあわよくばその先まで……」
「――気味は悪いが、それでも手を動かしているのがお前のすごいところだな」
共に執務をこなしていたルードルフは、弟のただならぬ様子に苦笑をこぼした。
呪詛めいた重い言葉を呟きながらも、書類をさばくアイザックの手元には一切の迷いがない。
表情も冷酷と噂される印象そのままで、側まで近付きよく耳をすませなければ、彼が変態的執着を吐露しているとは誰も気付かないだろう。
むしろ最近は辣腕に磨きがかかってさらに容赦がないと噂されているけれど、それらが全てリティスに会えないことへの八つ当たりだということは、身内しか知らない秘密だった。
「そんなに会いたいなら、会いに行けばいいではないか」
「雑務を押し付けてくる兄上が、それをおっしゃいますか」
アイザックは実の兄を、恨みつらみを込めた視線で射貫く。
ルードルフは軽く肩をすくめるばかりで、罪悪感など欠片もなさそうだ。
ボルツ・レイゼンブルグの大規模な大麻栽培が明るみに出てから、あちこちの領地が業務に支障をきたしている。侯爵の影響下にあった貴族家にも、少なくない処分者が出たからだ。
そのせいでアイザック達の執務量が増えているのだが、ある程度覚悟の上で告発したのでそれはまだ許容できる。……たとえ兄が、うまいこと弟に仕事を割り振って、手を抜いていたとしても。
忙しすぎて会えないなんて、結局は言いわけにすぎない。
「……リティスは今、懸命に妃教育をこなしているんです。寂しいからなんて理由で、俺が邪魔するわけにはいかないでしょう」
アイザックは、特大のため息と共に愚痴をこぼした。
書類を仕分ける手を止め、自身の銀髪をくしゃりと掻き混ぜる。リティスに会いたい思いが膨らんで、もはや執務どころではなくなっていた。
会いたい。けれど、頑張っている彼女の迷惑にはなりたくない。
その忙しさも、全てアイザックと結婚するための努力なのだから、なおさらだった。
紅茶片手に休憩を決め込んでいたルードルフが、憂いをにじませる弟を鼻先であしらった。
「――なんて、綺麗な言葉で誤魔化しているが。単に、いちゃいちゃしたくなってしまうから会いに行けないだけだろう?」
兄の明け透けな指摘に、アイザックの横顔が引きつった。
咄嗟に反論が出てこないのは、図星だったからだ。
一度、中途半端に触れ合ってしまったせいで、欲望に歯止めが利かなくなっている。
リティスが自ら閨にやって来た夜。
結局寸止めに終わったけれど、あの時の彼女の大胆な格好や恥じらう表情、甘い声や吐息が、脳内で何度も再生されていた。
綺麗で、愛らしくて、素直で健気で敏感で――……。
カッと頬に熱が上り、アイザックは慌てて首を振った。
思い出すだけで困った状態となるため、執務室ではまずい。万が一兄に知られでもしたら軽く死ねる。
めでたく婚約したわけだし、アイザックとしてはもっと親密な関係へと進みたい。
けれど純粋で穢れのない彼女は、こちらが強く求めても戸惑うだけだろう。
リティスの性知識の乏しさを知っているからこそ、分かる。
彼女はおそらく、誰もが健全な婚約期間を過ごしていると思っている。婚約を済ませた若い男女が人知れず物陰でことに及んでいたとしても、身に覚えがありすぎて咎められない者の方が大半だというのに。
いずれ妃教育の一環で、リティスが閨房学について学ぶ日も来るだろう。その辺りは今後に期待だ。
もちろん、あわよくば抱き締めて口付けをしたいという願望はあるが、アイザックだって性的なことばかりを望んでいるわけじゃない。
リティスと一緒に、もっと色々なことがしたかった。
手を繋いで街を散策したり、昔のように庭園でのんびりしたり、甘いお菓子を二人で分け合ったり。そんなささやかな願望だってあるのだ。
「――俺は下心ばかりではありません、決して」
「そうやって強調する方が胡散臭く聞こえるがな」
顔をしかめるアイザックなど歯牙にもかけず、ルードルフは気だるげに手元の書類をめくる。それこそが、兄がこの執務室を訪問した理由だった。
「まぁ、もうすぐ同盟国との交流の時期だ。お前も婚約者殿のことばかりにかまけてもいられまい」
ルードベルグ王国は、年に一度必ず周辺国と交流する機会を設けている。
王国の東隣に位置するウルジエ共和国、そこをさらに南下するとあるフェリオラ王国、そして北のレーデバルト連邦。
ここにルードベルグ王国を含めた四ヶ国で同盟を結んでおり、毎年その緊密な関係を確かめるべく交流会を催しているのだ。
開催国は年ごとの持ち回りで、今年はルードベルグ王国と決まっていた。
アイザックは、ルードルフの口振りを訝しんだ。
確かに主催国としての責任はあるけれど、それも四年に一度は経験している。前回はアイザックが十二歳の頃だったが、若輩ながら王族として十分務めを果たしたつもりだ。
十六歳になった今、さらに責任が圧し掛かってくることは想像に難くない。
それでも、兄ほどの人物が懸念を掲げるような案件ではないはずなのだが。
ルードルフが、交流会に関する書類をこちらに寄越す。
黙って受け取って読み込む内に、アイザックにも懸念材料が理解できた。
文書の一枚目に記されていたのは、招待客のリスト。
そこに連なる名前は無視できないものだった。
「これは……」
「お前に婚約者ができたことは、既に周辺国でも知れ渡っているだろう。向こうの思惑は不明だが、かなり神経をすり減らす人選と言えるな」
完全に他人事の口調。
だが、ルードルフなりに努力家のリティスを気に入っていることは分かっている。つまり兄は、アイザックというより彼女の心配をしているのだ。
書類から顔を上げ、ちらりと視線を送る。
アイザックの眼差しに応え、ルードルフは素っ気なく嘆息した。
「十分気にかけてやれ。何が起こるか分からないからな」
兄の忠告に、アイザックは真剣な顔で首肯した。
◇ ◆ ◇
リティスはいつもの温室で、国王夫妻と紅茶を嗜んでいた。
ユレイナに王妃教育の進捗状況を報告し、愛妻家のケインズの惚気に相槌を打つ。
そんなふうに楽しい時間を過ごしたところでユレイナが切り出したのは、二ヶ月後に控えた交流会に関する話題だった。
「私が、来賓のおもてなしを……?」
いまいち理解できず、リティスは曖昧に首を傾げる。
最低限の教育しか受けられなかったリティスは、当然王宮で行われる催しにも疎い。交流会の存在自体初耳だった。
詳細の説明を受けても途方に暮れてしまう。
――同盟国については学んだけれど……確か、ウルジエ共和国とフェリオラ王国、それとレーデバルト連邦よね……?
来賓をもてなすには、あまりに手持ちの情報が少ない。
リティスはわけが分からず途方に暮れた。
「あの、取り組む前からこのようなことを申し上げるのは恥ずべきことですが、まだ至らぬ私には、少々荷が重いかと……」
「えぇ、リティスさんが不安に思うのも無理はないわ。けれど大丈夫、あなたを支える者も既に選んでいるの。あちらも快く引き受けてくださったわ」
ユレイナが、温室の入り口に視線を送る。
つられて振り返ると、颯爽と近付いて来る女性が一人。
堂々とした足取りはさることながら、燃えるような赤毛にもつい目が奪われた。
生き生きと輝く瞳は赤茶色で、ややつり目がちなせいもあって勝気な印象を与える。それは、自信に満ち溢れた笑みも相まってのことだろう。
立ち止まる女性に頷いてから、ユレイナはリティスに視線を戻した。
「正式に顔を合わせるのは初めてになるわね。彼女はクローディア、ルードルフの妻よ」