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第39話 充実した日々の気がかり

 翌日も、リティスは早い時間から慌ただしく動き出す。

 議会の見学に行くことは以前から決まっていたことなので、外交問題や内政についても積極的に学んできたつもりだ。

 それでも、どこで足をすくわれるか分からない。

 服装から議会に入場する時間まで、とにかく神経を使って調整する。

 夜会の時のような華やかさは必要ないので、デイ・ドレスは落ち着いた色味を選んだ。喉元まできっちりと隠す、深緑色のビロード地。レースも最小限で、宝飾品も真珠とアクアマリンで鳩をデザインしたブローチのみ。

 第二王子の婚約者とはいえ、陛下と共に入場するなどあってはならない。

 スズネだけを伴って、若輩者が顔を出しはじめる時間帯に議会入りをした。

 議会のために建設された講堂は天井が高く、見上げる位置にずらりと並んだ採光窓からは燦々とした陽光が差し込んでいる。

 壁面に彫られているのは正義や公正の象徴であるルドベキアの花と、誠実や不滅を表すアイビー。それ以外に目立った装飾はなく、ウォルナット材の落ち着いた色調の木目と相まって、厳格な雰囲気をかもし出していた。

 貴族議員にも名誉議員にも女性はいないので、否応なく目立つ。不躾な視線を浴びながら、リティスはあらかじめ用意された席に着く。

 議会がはじまるまで、針のむしろだった。

 鋭い視線、密やかに囁き交わす声。全てがリティスに向けられていると分かる。しかも、そこに混じる悪意まで。

『スキモノ未亡人』が、ついに王族まで誑かした。神聖な議会の場にまで入り込んでくるとは、何と非常識なことか。侍女を連れて、遊びにでも来たつもりじゃないのか。

 未だ、王族がいない席でのリティスの扱いなどこんなもの。

 いかに普段、アイザックや国王夫妻らに守られているかを実感する。

 正直怖くて仕方がない。

 けれどリティスは、背筋を伸ばして微笑を保つ。

 昨日エルティアから教わった心の在り方は、どのような状況にも応用できる。

 どれほどの苦境にあっても、毅然と前を向くこと。強く弾き返すのではなく、柔らかく受け入れ身の内に取り込むこと。

 それが、リティスなりの戦い方だ。

 リティスは確かに、ここにいる誰より経験値に乏しい。だから今日は、彼らの胸を借りるつもりでいればいいのだ。

 敵意を向けられているのに静かに微笑んでさえいるリティスは、周囲の者達には奇異なものに映ったらしい。彼らの眼差しが、だんだんと不気味なものを見るような意味合いに変わっていく。

 そんな中、一人の若者としっかり視線がぶつかった。

 狼狽える青年をしり目に、リティスは笑みを深めてみせた。

 見下しも、軽んじる意図もない友好的な笑み。向こうがどう思っていようと、ルードベルグ王国をよりよくしようと考える仲間であることは変わらないのだ。

 声高にリティスを嘲っていた青年は、途端に勢いをなくした。

 彼が気まずげに黙り込むと、周囲の者達も徐々に感化されていく。

 そうして議場は、普段の落ち着きを取り戻した。

 異物ではなく、まるではじめからその場にいたかのよう。

 あとからやって来た高位貴族らもそういった気配を敏感に感じ取って、リティスに対しあからさまに眉をひそめる者はいなかった。

 最後に、国王であるケインズが入場し、いよいよ議会がはじまる。

 エルティアに忠告されていた通り、想像以上の紛糾ぶりだった。

 議題について一丸となって話し合うというよりは、あちこちで論争が巻き起こっている感覚だ。怒号にも似た声音が飛び交い、リティスは何度も通った救貧院の子ども達を思い出していた。元気があり余っている。

 このままでは、取っ組み合いに発展するのではないか。

 戦々恐々とするリティスに声をかけたのは、最奥に座るケインズだった。

「驚いただろう? 議会というわりに、あまり実のある時間は少ないのだよ」

 素直に頷きづらい内容だったので、リティスは曖昧に首を傾げた。

「ディミトリ公爵夫人が、いずれスポーツの話で白熱するだろうとおっしゃっていましたが……私の緊張をほぐすための冗談だと思っておりました」

「的を射た意見だね。げんにもう、このあと酒を飲む算段をする者が、現れはじめているはずさ」

 ケインズはあくまで鷹揚に笑っている。

 リティスは、お菓子の取り合いをする救貧院の子ども達を温かく見守っていた院長を思い出していた。……恐れ多くてとてもではないが口にできないけれど。

「大丈夫、少しずつ慣れていけばいい。その内に、自分の意見を伝えることも、提案をうまく押し通すやり方も身についていくさ」

「提案をうまく押し通す……」

 不穏な言葉だが、今のケインズを見ていると納得してしまう。

 これまでは、厳格な雰囲気を持ちながらも穏やかな彼にしか触れてこなかった。それは、アイザックの父としての顏だったのだろう。

 今、静かな面差しで議会を見下ろしているのは、国王としてのケインズだ。

 リティスは自然と身が引き締まった。

 議題から逸れた会話ばかりになってきて、すっかり気が抜けていたけれど。

 ――この、一瞬一瞬に意味があるんだわ。

 リティスは全てを吸収するために、真剣な眼差しで議会を見つめた。



 疲れ果てて宮に戻る頃には、既に日が沈んでいた。

 議会の開始が午後の早い時間だったから、数時間も議論に及んでいたことになる。

「疲れた……」

 結論、その一言に尽きる。

 数時間もかかったのに、何一つ議案がまとまらないとか予想外すぎる。

 厳しい意見が飛び出し、侃々諤々の話し合いが行われているものと思っていただけに、実のない議論に労力を費やす時間は苦痛でしかなかった。正直、ケインズからの声がけがなければ、後半は居眠りをしていたかもしれない。

「たいへんお疲れのようですが、夕食はいかがなさいますか?」

 気力も体力もリティスとは段違いに多いのだろう。無為な数時間を共にしたスズネが、いつもの無表情で問いかける。

「ごめんなさい。今は、何も食べられる気がしなくて……」

「このままお眠りになられては、明日のご予定に支障が出るかもしれません。せめてこちらだけでもお召し上がりください」

 ソファに沈み込むリティスに彼女が差し出したのは、果物や野菜をすりおろした飲みものだった。

 冬だというのにしっかり冷やされていて、おかげで喉を通りやすい。口内に広がる瑞々しい甘さに、疲れが溶けていくようだった。

「おいしい……」

「本当ならきちんとお食事をしていただきたいところですが、緊張が疲れとなって出たのでしょう。今日はもうお眠りください」

「ありがとう……」

 もはや単語でしか喋れなくなっているリティスの手から、スズネは素早くグラスを奪った。

 そうして、流れるようにベッドへと促され、彼女のマッサージを受ける。強ばっていた背中の筋肉をほぐされている内に、肩から腰にかけてポカポカと温かくなっていく。

 こうしてスズネが徹底的に補助してくれるから、リティスは多忙な日々を乗り切ることができるのだ。また翌日も頑張る活力をもらえる。

「明日も……朝、早いから……」

「分かっております。いざとなれば無理やりにでも叩き起こしますので、安心してお休みになってください」

「ふふ、頼もしい……」

 深く深く、泥のように意識が沈み込んでいく。

 新しいことを知っていくのは楽しい。

 毎日新鮮な驚きの連続で、忙しくても気力で乗り切れてしまうほど、リティスにとってはやりがいに満ちた日々。

 ……そんな充実した日々の中で、気がかりがあるとすれば。

 ぼんやりとした意識に浮かぶのは、アイザックのこと。

 同じ宮に住んでいるのに、最近は全然会えていない。

 彼は彼で執務に忙しいから、仕方のないことなのだが……寂しい。

 甘い笑顔が目蓋の裏に浮かぶ。

 冷たい薄青色の瞳が、リティスを映して柔らかく細められる、あの瞬間。何度経験しても心臓に悪い格好よさで、毎回新鮮に見惚れてしまう。

 温かい腕、広い胸。

 彼に抱き締められながら眠れたら、最高に心地いいだろう。

 ――あぁ、会いたいな……。

 けれど、眠りの誘惑に引きずり込まれては逆らえない。

 リティスは今夜も早々に意識を手放した。



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