「――そろそろ、休憩にしましょうか」
ディミトリ公爵夫人エルティアの一言に、リティスは全身の緊張を解いた。
同時に、部屋の隅に控えていたスズネが音もなく動き出す。
あっという間にティーセットが準備され、ディミトリ公爵夫人と共にテーブルにつく。
しばらく優雅に紅茶を味わってから、彼女はにこやかに切り出した。
「リティスさんは、勉強熱心ね。本当に教えがいがあるわ」
「恐れ入ります。こちらこそ、ディミトリ公爵夫人にご指導を賜っていただけるほど、光栄なことはございません」
休憩とはいっても、ただ休むだけではない。
共にテーブルを囲むだけでも社交やマナーが存在し、それに反した行動をとれば、たちまち公爵夫人の指導が飛んでくる。そういう、完全に緊張を解くことのできない時間でもある。
現在リティスは、ディミトリ公爵夫人を定期的に宮へ招き、伝統的な貴族のしきたりについて学んでいた。いわゆる、花嫁修業というものだ。
上流階級の社交や洗練された会話術、エチケットなど、覚えることは多岐にわたる。
侯爵家出身とはいえ、リティスは十分な教育を受けてこなかった。
だからといって、とうに成人を過ぎた年齢でマナー講師を招くというのも、王族の婚約者として体裁が悪い。
そのため、リティスのマナー教育兼花嫁修業の指導係には、養子縁組も引き受けてくれたエルティアが適任だったのだ。
彼女はティーカップを置くと、困ったように微笑んだ。
「花嫁修業といっても、ここまで厳格にしきたりを守っているのは、今はもう公爵家や王族くらいのものかもしれないわね。今どきの子は、こんなおあばちゃんにあれこれ口を出されるのは嫌でしょう」
「とんでもございません。お会いするたび新鮮な発見ばかりで、ご教授いただけることがどれほど楽しいことか」
「そうかしら? うちの孫にも聞かせてやりたいわ。私が話し出すとね、いつも退屈そうに耳を塞いでしまうの」
「お孫様は、まだ三歳ではございませんか」
今から淑女教育を徹底しようというのか。
エルティアの熱心ぶりに、リティスは口元に手を添えて笑った。
彼女は根っから、人に何かを教えるのが好きな性分なのだろう。
指導は厳しいが、的確で分かりやすい。自分がどれだけ至らなかったのかを明確にしてくれる分、成長を実感できる。リティスは日々やりがいを感じていた。
元々、人前に出しても恥ずかしくない程度の教育しか受けられなかったため、学びの場があるというだけで幸せなことなのだ。
「ユレイナ様からお聞きしました。夫人の花嫁修業を受けた女性は、例外なく幸せになれると言われているとか。お孫様も、いつかご自分から率先して指導を望まれるようになるでしょう。もちろん、私も望外の喜びを感じております」
緊張はするけれど、楽しい。
心からの思いを伝えると、エルティアは愛らしく頬を染めてはにかんだ。
「ありがとう。わたくしも、あなたのような娘ができて、とても嬉しく思っているわ」
ユレイナにも当てはまることだが、上流になればなるほど可愛らしい女性が多いのはなぜだろう。心の余裕が、生まれながらの気品を育むからだろうか。
交流をはじめてまだ三ヶ月ほどなのに、リティスは彼女のことをとても好ましく感じていた。書類上は家族だった義母よりも、ずっと。
――義母や義弟妹達は、今頃どうしているかしら……。
日々の忙しさにかまけて思考を停止させていたリティスだが、ふとした拍子に家族のことを思い出す。
三ヶ月ほど前に起こった、実家であるレイゼンブルグ侯爵家の没落。
貴族達の間では噂も下火になってきた事件だけれど、リティスにとっては未だ生々しい傷跡のまま。あえて気付かないふりをして、問題から目を逸らしていたのだ。
ユリアやヴォルフを思うと胸が苦しくなる。
日を追うごとに罪悪感が増していく――それが偽らざる本音だから。
今が幸せであるほど辛くなるのだ。
義弟妹達は強い。
アイザックから話を聞いた時、リティスが心配しなくてもたくましく生きていくだろうと、勝手に安堵したり、肩の荷が下りたように感じたりもした。
けれど、そんな甘い考えでいいはずがなかった。
家族を窮地に追いやったのは、他ならぬリティス自身なのだから。
いつか、義弟妹達と対面する日が来るのだろうか。
どれほど罵倒されるだろう。憎しみをぶつけられるだろう。
……父ボルツの罪を明らかにし、レイゼンブルグ家崩壊のきっかけを作ったリティスに、弁解の余地はない。
だから、自身の罪から逃れるように、勉強に打ち込んでいるのかもしれなかった。
「――リティスさん。背中が丸まっていてよ」
エルティアの声に、リティスはハッと物思いから抜け出す。
普段おっとりしている彼女からすれば、思いがけず強い口調だった。
王妃ユレイナと……アイザックと同じ色の瞳が、真っ直ぐにリティスを見据えている。
「どんな時だろうと、俯いてはいけないわ。選び取ることから逃げなかった者だけが、掴めるものがあるはずよ。そのためにも、心を強く持つの」
リティスはゆっくりと目を見開いた。
あくまで花嫁修業の一環としての発言、だろうか。
けれどまるで、リティスの中の憂いを見抜いたかのように響いた。
正しいことをしたのに、後悔するわけにはいかない。
分かっているからこそ、向き合うことができなかった。ユリア達の現状を知った時、僅かにも悔いを感じない自信がなかったから。
だが、エルティアは目を逸らすなという。
傷付けた現実から、失った事実から、逃げるなと。
どれほど残酷な場面にも、背筋を伸ばして向き合う――それが、上に立つ器に必要な覚悟だと示すように。
そうだ。これは花嫁修業である前に、王子妃教育でもあるのだ。
リティスは、全身に力を張り巡らせる。
「ご指摘ありがとうございます、ディミトリ公爵夫人」
俯かず、エルティアの眼差しを真正面から受け止める。
唇には、上流階級らしく本音の窺えない薄い笑みを張り付けて。
指先まで神経を行き渡らせれば、そこには洗練された貴婦人がいた。
エルティアは満足げに頷く。
「いつもそうして堂々としていなくては。あなたは既にリティス・ディミトリであり……この先、リティス・ベルンダートと名乗るようになるのだから」
王国の名を姓とする。
それは便宜上のことで、実際には家名がなくなるのだ。
王族とは、存在そのものが国と同義であるがゆえ。
じわじわと実感が広がっていく。
リティスは、アイザックと幸せな結婚をするだけではない。
いずれ、国を背負って立つ一柱となるのだ。
恐れ多くとも、その道を進むと決めたのはリティス自身。
まさしく背筋が伸びるような思いだった。
「――夫人からご訓示をいただける私は、やはり幸せ者です。今後もご指導のほど、よろしくお願いいたします」
簡易な礼をとると、エルティアはすぐに表情を緩めた。
「あぁ、あまり堅苦しくしないでちょうだい。ごめんなさいね、せっかくの休憩なのにつまらないことを言って。こういうところが、孫に嫌がられてしまうのかしら」
彼女はいつもの大らかな態度に戻っておどけてみせる。
水に流す合図だと理解し、リティスも話を合わせた。
「いいえ、とても興味深いお話です。夫人がどのように公爵閣下をお支えになっているのか、勉強になりました」
「あら。主人の前では、これでも控えめな良き妻なのよ。わたくしの個人的な意見だけれど、殿方の庇護欲を刺激するのが長く円満な夫婦生活を営む上で重要なの。女性には女性の戦い方があるということね」
「参考にいたします」
二人はさざ波のように、穏やかに笑い合う。
「明日、陛下の計らいで議会の見学をすると聞いたわ。議論の場になると気性が荒くなる男性は多いの。リティスさん、くれぐれも気を付けてちょうだいね」
「ありがとうございます。政においても、学ぶべきことは多いと存じます。自身の糧とできるよう、多くを見聞きしてまいりたいと思います」
「大げさね。どうせ殿方は、政治の話もそこそこにして、別のところで白熱しはじめるのよ。スポーツや、観劇で見かけた美しい歌姫、行きつけのパブの話なんかでね」
「それでしたら、女性にも同じことが言えますね。絵画や詩集の話が落ち着けば、つい恋愛や結婚について熱く語ってしまいますもの」
「いやだ。言われてみれば、確かにその通りだわ」
その後リティスは、何でもない話でエルティアと大いに盛り上がった。
アイザックとの出会いや、どういうところを好きになったのか。エルティアと公爵閣下の馴れ初め。政略結婚から少しずつ愛を育んでいった話や、結婚七年目に持ち上がった公爵の浮気疑惑とその顛末など。
心から、本当の意味での休憩を楽しんだのだった。