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第37話 リティス・ディミトリのプロローグ

 冬であっても花々が咲き誇る美しい温室。

 目の前には温かな紅茶やおいしそうな茶菓子が並んでいるというのに……アイザックは、どんよりと呟いた。

「なぜ、リティスが閨係だった時より、会う頻度が減っているんだ……?」

 この度、リティスは正式に閨係の任を解かれ、速やかに第二王子の婚約者という立場に収まった。

 彼女を閨係に指名した自身の暴挙も、これで完全になかったことにできたのだ。

 今後は堂々と一緒にいられる、今までよりもっといちゃいちゃできる――アイザックはそう浮かれていたのに、どうしてこうなってしまったのだろうか。

 重々しいため息を落とすと、隣の席で優雅に紅茶を楽しんでいたルードルフが笑った。

「私は、こうなるだろうと思っていたよ。彼女は真面目な女性だからね」

 兄に続いたのは母ユレイナだ。

「裏で勝手に工作をしておきながら、嫌われなかっただけ重畳よ。あなたはもっと、リティスさんの心の広さに感謝しなくては」

「確かに。普通なら、気味悪がられてもおかしくないところだ」

「うぅ……」

 こうも会えない日々が続くと、だんだん彼らの指摘通りなのではと思えてくる。

 リティスを迅速に婚約者とするため、アイザックは自身の優秀な能力をいかんなく発揮した。頭脳や立場、権力やこねなど全てを駆使して。

 彼女に足りない実績の面は、実父であるボルツ・レイゼンブルグの罪を告発したということにすれば、十分に事足りた。

 本来主導したのはアイザック達兄弟やトマス・クルシュナーだが、その辺りの面々は、リティスのためだと説得すれば簡単に黙らせることができる。

 トマスには、先代クルシュナー男爵の罪のせいで彼ら一家に類が及ばないよう采配したことを、改めて念押ししておいた。彼は笑顔で青ざめていた。

 他の条件全てをひっくり返すのは、もっと簡単だった。

 身分差に問題があるなら、高い地位の家と養子縁組をすればいいのだ。

 ディミトリ公爵夫人……叔母のエルティアは、その点において非常に最適な人材だった。

 アイザックはあらかじめ目星をつけていたのだ。

 それこそ、収穫祭の夜会前には、リティスを養子とすることを打診していた程度には。

 彼女が叔母に気に入られるかはある種の賭けだったが、アイザックには勝つ自信があった。怒れるリティスの鮮やかな手腕を前にして、好きにならないわけがないのだから。

『夜会中、リティスがおかしな連中に絡まれないよう側についていてほしい』。

 アイザックの依頼の真意がこれだけでないことくらい、エルティアも分かった上で引き受けたはずだ。

 甥が特別気にかける女性とは、つまり王族となり得る可能性があるということ。

 身分のある者に逐一助けられなければ、自身の地位を確立できないなんて論外。

 そういった厳しい目でリティスを採点した結果、素質は十分とみなされた。だからこそ夜会後には、養子の件を快諾してくれたのだ。

 公爵家の養子ともなれば、身分も後ろ盾も問題ない。エルティアがついているなら、未亡人だと後ろ指を差す者だって閉口せざるを得なくなる。

 あの求婚の直後。アイザックはこれらの話を、意気揚々とリティスに披露した。

 喜んでくれると思っていた。

 それなのに、彼女の反応はトマスを説得した時と似ていた。笑顔で徐々に青ざめていくのを見て、どうやら何かを間違えたらしいとアイザックは悟る。

 すぐにでもリティスと結婚したいあまり、焦って先走ってしまったのだ。

 現在彼女は、王子妃教育に奮闘している。

 そのためほとんど顔を合わせる機会がなくなっているのだが、果たして兄のように、『彼女は真面目だから』で片付けていいのだろうか。

 裏で勝手に工作をしておきながら、という母の言葉が胸に刺さる。

「ちなみに……同じ女性の視点からですと、俺の自己中心的な行動は、どの程度まずかったですか?」

 アイザックの問いに、ユレイナはしばし考える素振りを見せた。

「そうねぇ。本人の了承を得ることなく、養子縁組の話を進める……気持ちが悪いし、控えめに言って引くわね」

 きっぱりと言い切られ、アイザックはますます項垂れる。

『引く』という、家族内でのみ使われる砕けた単語に、父のケインズが笑い声を上げた。

「それでも、リティスさんが出て行かなかっただけましじゃないか。なぁ、アイザック」

「そういう問題ではありません……」

 リティスは優しいから王宮に留まってくれているだけで、避けられているかもという嫌な予感は、あながち間違っていないのかもしれない。

 会う頻度が減っているという、何よりの証拠が心を抉る。

 瀕死状態のアイザックを横目に笑いながら、ルードルフがティーカップを置いた。

「さて、暴走するアイザックに代わって、また私達が動く必要がありますね。『アイザックの幸せを見届け隊』を、ここに再結成しましょう。私の妻も、頼りになる義妹ができると喜んでいたのに、今になって見切りをつけられては困りますから」

 兄が目配せを送ると、両親は力強く頷いた。

「そうだな。もはやアイザックだけに任せてはおけまい」

「わたくしも、リティスさんを繋ぎ止めるためなら努力は惜しまないわ」

 盛大な茶番を前にして、アイザックはこめかみが引きつるのを感じた。

 ――何が『アイザックの幸せを見届け隊』だ……ただ楽しんでいるだけのくせに……。

 温室で定期的に行われている、この会議とやらも本当は気に入らなかった。

 許された者以外の入室を固く禁じる温室で、毎回アイザックの失態についてあれこれと議論されるのだ。正直やっていられない。

 ボルツ逮捕劇のあとようやく解散させたというのに、あっという間に再結成の流れに持ち込まれてしまった。

 今回は王太子妃が所用で欠席しているからまだいいものの、彼女が加わると輪をかけて酷くなる。身内の恋愛事情に口を出すなと言いたい。

 母が、憂いを帯びた口調で続ける。

「どうすれば、リティスさんはこの子を見捨てずにいてくれるかしら……せめてアイザックくらいは幸せな結婚をしてほしかったから、思い合って結ばれてくれるのなら、これ以上に喜ばしいことはなかったのだけれど」

「おや、母上。その口振りは心外ですね。私も互いに唯一無二と感じたゆえ、彼女を王太子妃として迎えたつもりですが?」

「あなた達の場合、唯一無二の戦友じゃない。利害の一致に打算だらけ……そこもまた、あなた達らしいのだけれど」

「ルードルフの感性は独特だからなぁ」

「はい。背中を預けられる相手以外に、心など動きませんので」

 落ち込んでいるのだから、隣で盛り上がらないでほしい。心から。

「――ご歓談中に失礼いたします」

 その時、アイザックにとっての救世主が現れた。

 温室への出入りを許可された数少ない人物。

 愛らしい声音は控えめで、気遣いすら感じられる。

「リティス……!」

 愛しい人の姿を目にするのは、一体何週間ぶりだろうか。

 リティスのはにかんだ笑顔が、ちらりとアイザックに向けられる。ただそれだけで心が洗われていくようだった。

「マナーの先生から、今日は庭園での茶会を想定した授業をしてはどうかと提案されました。つきましては、王妃殿下に庭園の使用許可をいただきたく参じた次第です」

 彼女は位の高い順に辞儀を披露してから、改めてユレイナに礼をとる。

 夜会前にも一通り礼儀作法の指導を受けていたが、あの時より格段に所作が磨かれていた。落ち着いたモーヴのドレスと相まって、まるで花の化身のようだ。

 母も満足そうに頷いて返した。

「もちろん、好きなように使ってちょうだい。リティスさんはわたくしにとって、もはや可愛い娘も同然ですもの。養子縁組のおかげで名実共に姪でもあることだし」

「恐れ多くも王妃殿下のお身内として、今後より一層励みたく存じます」

「いやね。『ユレイナ』または『お義母様』と呼ぶよう、約束したでしょう?」

「お、お義母様……ですか……?」

『お義母様』と呼ぶことに戸惑い恥じらうリティスは愛くるしいが、何やら二人で語らいはじめそうな気配にアイザックは焦った。

 久々の逢瀬なのだ。

 身内に邪魔をされたくない。

「――リティス」

 アイザックは、家族の視界を遮るように前へと進み出た。

「久しぶりだな」

 こちらを見上げたリティスは、嬉しそうに頬をゆるめる。

「アイザック様、お久しぶりにございます。本当に、同じ王宮にいてもなかなか会えないものですね」

 リティスの笑みは自然で柔らかい。

 ユレイナ達に向けていたものとは違う、僅かに隙のある笑顔。アイザックに気を許しているからこそ見られるのだと、毎回新鮮に感動する。

 可憐なリティスを前にして心が躍っていることを悟られないよう取り繕いながら、アイザックは最近の懸念を伝えた。

「会えない日が続いたから、もしかしたら避けられているのではないかと思っていた」

 憂いを帯びた顔で口にすれば、彼女は目を瞬かせて首を振った。

「私がアイザック様を避けるなんて、そんなわけありません。ただ、私が至らないばかりに学ばねばならないことが多く……そのせいでアイザック様に不安な思いをさせてしまったのなら、たいへん申し訳ございませんでした」

「いいんだ、謝るようなことじゃない。避けられていないなら、それでいい」

 万が一の場合もあったので本当にホッとした。

 だが、リティスが懸命に学んでいるのは、そもそもアイザックとの未来のためなのだ。心が離れてしまったのではなんて、彼女に対して失礼な考えだった。

 ――家族の監視がないところで、もっといちゃいちゃしたい……。

 安心した途端、心に邪な欲求が浮かび上がる。

 アイザックはさらに押してみることにした。

「それなら、少しでもリティスとゆっくり過ごす時間を作りたい。……嫌だろうか?」

 彼女が忙しいのは分かっているから、時間はこちらが合わせればいい。

「昼間は王子妃教育で忙しいようだし、きっと疲れているだろう。それならば、また以前のように、夜にでも……」

 夜。

 否が応でも、リティスが閨係を務めていた日々を思い出す。

 花びらのような唇を前にして、下心がないとは断言できなかった。アイザックは既に、その甘さを知ってしまっているのだから。

 こちらの欲望を知ってか知らずか――リティスは健気に、そして前向きに笑った。

「心配してくださるのですね、アイザック様……嬉しい。ありがとうございます」

「……んん?」

「ですが、大丈夫ですよ。これでも体力はある方なので。私、もっと王子妃教育を頑張って、ディミトリの名に恥じない人間になりたいです。それは、あなたに相応しい女性に近付くということでもありますから!」

「――――」

 輝く笑顔に邪気を浄化され、アイザックは固まった。もはや言葉もない。

 それから彼女は辞去の挨拶を丁寧に済ませ、温室を出ていく。

 おそらくマナー講師の元へ向かったのだろうが、いそいそと嬉しそうな足取りだ。それだけ、リティスの王子妃教育へのやる気が窺える。

 愛しい後ろ姿が遠ざかっていく中、リティスに従い歩き出していたスズネが振り返った。

 彼女は憐みの眼差しでアイザックを一瞥すると、礼をとってから再びリティスのあとを追いはじめる。何という薄情者だ。

「……あ。今、見えたなぁ。これは、結婚初夜までお預けになるやつではないか?」

 ルードルフの残酷な未来予想が耳を素通りしていく。

 アイザックはゆるゆると天を仰いでから、絶望に肩を落とした。



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