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第36話 求婚

「リティスの結婚についてもそうだ。何年も婚姻関係にあったにもかかわらず、リティスと先代クルシュナー男爵が関係を持っていなかったと気付いた時、俺は喜んでしまった。よくないことだというのは分かっている。その間もお前は苦しんでいたのに……最低だろう?」

 慌てて否定しようとしたが、それより早くアイザックが動いた。

 リティスの手を取ると、それを額に押し当て、懺悔をするかのように瞑目する。

「……再会したばかりの時も、嫌な態度をとってすまない」

 アイザックの呟きに、リティスは視線を落とした。

 初めての閨で対峙した日の、鋭さをまとった態度を思い出す。

 彼にとって完全な他人になってしまったのだと、密かに落ち込んだことは記憶に新しい。

「あれは、完全な嫉妬だった。俺は落ち着いていられないほど緊張していたのに、現れたリティスが手慣れているように見えて。本当に他の男に……と思ったら」

 嫉妬? 緊張?

 信じられない気持ちで絶句するリティスに気付かず、彼は続ける。

「二人でホットチョコレートを飲んだ時――俺は初めて、自分の愚かさを思い知った」

 ごく少量のブランデーで酔ってしまったリティスは、心から己の失態を忘れたいと思っていたけれど、彼の方にも悔いがあったのだろうか。

 確か、幼い頃内緒で遊んだこと、乳母のマリーに散々お世話になったことなどを、懐かしく話しただけだったような。

「身構えて、いつまでも意地を張って……それでは、リティスを閨係に指名した意味がなかった。あの時、幼い頃のように二人で話して……本音で向き合わねばならないと気が付いたんだ」

 再会してからは他人行儀だったリティスが、過去のアイザックについて嬉しそうに語る。その様子を見て、今のままではいけないと強く感じたという。

 リティスが知らない男と結婚すると聞いた時、心底後悔した。

 今度こそ誰にも奪われまいと、体裁すら放り出して閨係にしたのだ。

 それなのに目の前のリティスに向き合うことができなければ、きっとまた離れてしまうだけだと。

「……まぁ、次に会った時のリティスはとても煽情的な格好をしていたから、そんな決意も頭から吹き飛びかけたが」

 三度目の夜、大胆なハレム風衣装を身に着けた時のことだ。

 リティスは今さら恥ずかしくなって、顔中を赤くしながら頭を下げる。

「そ、その節は、たいへんお見苦しいものを……」

「いや、あれは素晴らしく魅力的だった。そういえば自制心を保とうとするあまり、衣装について触れることもできなかったが……とてもよく似合っていた。異国の舞姫が現れたのかと思ったぞ」

「そ、それはさすがに言いすぎです……」

「危うく同意なく襲いかかってしまうところだったがな。特に腰のくびれが……」

「ア、アイザック様!」

 閨のやらかしについてはお互い様だ。

 とはいえ、リティスにとっては全ての夜がきらめくような思い出。

 その都度アイザックがどのように思っていたのかなんて、知らなかった。彼の本音が嬉しいやら恥ずかしいやらで、顔を上げていられない。

 しばらく、部屋に沈黙が満ちた。

 アイザックは、リティスが顔を上げるのを待っている。

 待ち構えている。

 気配でそれが分かった。

 いつの間にか、リティスの鼓動は早くなっている。

 けれど、もう逃げない。

 そう決めてここに来たのだ。

 リティスはゆっくりと、挑むように顔を上げた。

 途端、アイザックの眦が緩む。

 途方もないほどの愛情を宿した瞳で迎えられ、リティスは包み込まれているように感じた。

「こんな失態だらけの俺に、リティスを求める資格があるのかさえ分からない。お前には、もっと相応しい幸せがあるのではと思ってしまう。だが……俺にはどうしたって、お前以外考えられないんだ」

 アイザックの手が、僅かに震えている気がした。

「リティス――どうか、俺と結婚してほしい」

 思いを告げる時より、改まった態度。

 真率に許しを請う表情。

 アイザックからの……正式な求婚だった。

 リティスの息が詰まる。

「お前は誰よりも魅力的だ。優しく穏やかかと思えば、守るもののためなら強くもなれる。控えめで恥ずかしがりなところ、それでいて凛とした立ち振る舞いができるところも好きだ。はにかんだ顔も、誠実さも、抱える孤独も、ひどい仕打ちをしてきた家族を捨てきれない愛情深さも……俺には、リティスの全てが愛おしい。愛しているんだ」

 あまりの愛情に、溺れてしまいそう。

 逃げないと決めた端から怖気づいてしまいそう。

 ――もう、もう、もうっ……‼

 何だか悔しさすら込み上げてきて、リティスは両手で顔を覆った。

 結局アイザックには敵わない。

 常に全力でぶつかってくる、年下の可愛い人。

 せっかく覚悟を決めて訪ねてきたのに、これではまるで格好がつかない。

 それでも返す答えが一つしかないから、ますます悔しくなるのだ。

 リティスは両手の隙間から、返事を絞り出した。

「………………嬉しいです。再婚ですけど、私をもらってくださいますか……?」

 ぼそぼそと、情けない応え。

 聞こえなかったかもしれないと思ったのは一瞬の杞憂だった。

 顏から外しかけた両手ごと抱き締められ、また視界が塗り潰される。

「よかった……リティス……」

 心からの安堵の声が、リティスの胸にも甘く響く。

 同じ気持ちだから。

 嬉しい。この先もずっと一緒に歩いていける――支え合っていける。

 ただ気になるのは、抱擁……と呼ぶにはあまりに重いことだ。物理的に。

 ソファの背もたれとの間で、リティスは危うく押し潰されてしまいそうだった。

「ア、アイザック様……?」

「すまない。緊張していたから、一気に力が抜けて……」

 アイザックが緩慢に体を起こす。

 彼の表情は、充実感より疲労の色が濃かった。

「リティスが最後の挨拶と言っていたから……俺を置いてどこかに行ってしまうのかと……」

 今夜、訪問した際の台詞について言及しているのだろう。

 そういえば、アイザックの態度はどこかぎこちなかった。

 落ち着かない様子だったし、リティスが話を切り出すのを恐れているようでもあった。

 どうやら、暇乞いの挨拶に来たと勘違いしていたらしい。

「閨係として、と私は言いましたよ」

 リティスは呆れて首を傾げた。

 不安にさせてしまったのは申し訳ないけれど、閨係の任を返上するために来たのであって、アイザックとの関係を終わらせるつもりなど微塵もなかった。

「はじめからやり直す必要があると思ったのです。……閨係のままでは、あなたの隣に立つことができませんから」

 閨係の返上は、そのけじめ。

 婚約者候補と噂になっているリティスが閨係を務めていると知られれば、少なくない混乱を招く。閨係の手管に惑わされたのではと、アイザックの心証も悪くなるだろう。

 情報が出回っていない今の内に、問題点を解消した方がいいと考えたのだ。

「もっと着実に力をつけて、アイザック様に相応しい女性になります。あなたの隣に並ぶためには、少々お時間をいただくことになりますが――……」

「リティスは十分素晴らしいし、俺の方こそお前に相応しくあらねばと、いつも思っている。それに、学びが必要なら王宮ほど充実した場所はない。いつでも本格的な妃教育をはじめられる手筈になっているぞ」

 しばらく側を離れるのも必要な過程。

 そういう意味を込めての挨拶も、光の速さで遮られた。

 アイザックの眼差しには、『ほら別れを告げに来たのではないか』という非難が込められている。

 未亡人というだけでなく、リティスの身分など様々な障害があることを、彼は忘れているのではないだろうか。

 だが、やっぱり敵わないのだ。

 リティスは彼にとことん弱い。いじらしさや独占欲を垣間見せられると、どうしたって決意が揺らぐ。

 ――まぁ、いずれ現実を突き付けられるでしょうし……。

 まずアイザックの家族が、妥協を許さないだろう。

 二人の関係を認めたからには、むしろ誰にも付け入る隙を与えない完璧さを求めるはずだ。それが何より今後のためになると知っているから。

 リティスは長々と息を吐き出したあと、小さく頷いた。

「……分かりました。いつでもはじめられる手筈という点が用意周到すぎて怖いですが、王宮で学ばせていただけるのなら非常に助かります。私には知らないことが多すぎますので」

 そうと決まれば、王宮に滞在していられる間に、少しでも多くのことを吸収したい。

 王族が守るべき伝統や慣習、外交戦略など、ここでしか知り得ない学びはたくさんあるのだから、いい機会だと思うことにする。

 リティスの返事を聞いて、アイザックは晴れやかに笑った。

 本当にずるいと思うが、まぁ仕方ない。

 あくまで真面目な気持ちで残留を了承したつもりだが、リティスだって彼と離れがたいのだから。


 ……この時、リティスはまだ知らなかった。

 アイザックの本気を。

 リティス達が結婚するまでにある、様々な障害。

 未亡人であることや、現在男爵家に属している身分。

 足りない実績や後ろ盾。

 それら全てを、アイザックが既に力技で解決していたということを――……。


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