「――義母や義弟妹達がどうしているかは、ご存じでしょうか?」
「当然、不幸のどん底にいるのではないか?」
「っ! そんな……!」
アイザックが心底どうでもよさそうな返答をするから、リティスは責めるように反論の声を上げてしまった。
けれどすぐに自分の間違いに気付き、慌てて謝罪する。
「申し訳、ございません……」
身内の揉めごとにアイザックは関係ない。他人事の態度も仕方がないことだ。
リティスは自分の無力さを認めたくないあまり、つい彼に怒りの矛先を向けてしまうところだった。
「たいへん申し訳ございませんでした……今ですら、レイゼンブルグ家出身の私に火の粉がかからぬよう、十分よくしていただいているのに……」
リティスは悄然と項垂れる。
レイゼンブルグ侯爵家の問題が取り沙汰されているのに、一人だけアイザックの宮で穏やかに過ごしている。それが全てだった。
たとえ既に嫁いだ身であっても、ある程度は批判にさらされて当然の立場。安穏としていられるのは彼の采配のおかげなのだと、理屈では分かっているのに。
幼い義弟妹達が渦中にいる中で、自分ばかりが安全圏にいること。そこに、どうしようもない罪悪感があった。
いつの間にかアイザックを頼りすぎていた。
彼ならきっと助けてくれると、無意識に自惚れていたのだ。
リティスは再度頭を下げた。
「レイゼンブルグ家の問題に巻き込んでしまったのに、アイザック様のご恩情に胡坐をかくところでした。本当に申し訳なく――……」
「いやいやいや。こちらとしては、もっと頼ってほしいくらいだが?」
心からの謝罪に、なぜか彼の方が慌てている。
顔を上げるよう促されたリティスは、不思議に思って首を傾げた。
アイザックは、ばつが悪そうに唇を尖らせている。
「……すまない。ただ単純に、リティスがあの者達を気にかけているという事実を、腹立たしく感じただけだ」
「…………はい?」
彼の言葉が、やはり理解できない。
目を瞬かせるリティスに、さらにアイザックは説明を重ねる。
「大体、おかしいだろう。ずっとお前を虐げてきた家族なんだぞ。心配する必要すらないのに……まぁ、そういう優しいところもリティスらしいのだが……」
アイザックは極めて不満そうにしている。
それがリティスの家族に向けられたもの――そして、リティスへの配慮なのだと分かり、面映ゆい気持ちになった。
――本当に、この方は……。
冷徹だと恐れられているけれど、不器用で優しい人。
アイザックは過保護すぎるし、リティスを過大評価しすぎていると思う。
「……私だって、されてきたことを許すつもりはありませんよ」
リティスは詰めていた息をそっと吐き出すと、緩く首を振った。
過去を思い返すだけで指先が冷たくなるのに、簡単に許せるはずがないのだ。
毎日ふらふらになりながら屋敷を彷徨って、なのに誰にも顧みられることのなかった日々。本当に辛くひもじい思いをしたのは二年にも満たない期間だけれど、幼く柔らかい心を打ちのめすには十分な時間だった。
忘れたくても忘れられない。
汚物を見るような義母の目付きも、父のステッキでぶたれた痛みも。
「少なくとも義母がどうなろうと、私は一切同情するつもりなどありません。……ただ、幼かったユリアやヴォルフを恨む気持ちはないんです。私がされていたことに、気付いてすらいなかったでしょうし」
リティスがひどく虐められていたのは十歳以前のことだし、マナー講師の教育が一通り終わるまでは、ユリア達とは完全に隔離されていた。
それ以降も義母や使用人の態度はあからさまだったが、天真爛漫に育ったユリアには見抜けなかったのではないかと思う。十六歳になってもあの調子なのだ。
誰にでも分け隔てなく、可憐で、心優しいユリア。
何の躊躇いもなくリティスの手を握り、義姉と呼んでくれた。
助けてくれなかったと嫌悪するのは、それこそ逆恨みだと思うから。
「これから交流をもって分かり合いたいとか、そういうことでもないんです。それでも義弟妹なので無関心ではいられない……というのが、今の心境に近いでしょうか」
今後関わることになったとしても、特別気にかける存在になるとは限らない。
そもそもの接点が少なかったので、義弟妹をいう実感も薄い。
――まだ小さかったヴォルフに、こっそり会いに行ったことならあるけれど……。
彼は二歳だったから、きっと覚えてすらいないだろう。
義姉だと告げるとはちきれんばかりの笑顔を見せてくれたこと。懐いてくれて、短い時間だったが一緒に遊んだこと。
今頃は、義母にあることないこと教え込まれて、リティスを敵視しているに違いない。
だがもし、過ぎるほど純粋なユリアのように――再び『義姉様』と呼んでくれたら。
確かめたいと願い出ることさえアイザックを煩わせてしまうから、胸の内に秘めるしかないけれど……それだけが、唯一の心残りかもしれない。
諦観のにじむ笑みを浮かべるリティスに、アイザックは渋々といった体で口を開いた。
「……ボルツの家族は大麻栽培について一切知らされていなかったから、連座で財産のほとんどを失った以外の痛手はない。残念ながらな」
「残念ながら……」
アイザックの明け透けな本音に、苦笑いしか浮かばない。
彼は腕を組み直して続ける。
「ボルツの妻は手が付けられないほど怒り狂っているそうだが、わめいたところで何も戻らない。己の所業の結果が跳ね返ってきただけのこと。いい気味だ」
「あの……言葉の端々にそこはかとない私怨を感じるのですが……」
「ユリア嬢は、そんな母親を献身的に支えているそうだ。『知らなかったとはいえ罪は罪、きちんと罰を受けてやり直そう』と奮闘しているらしい。意外にも前向きだな」
義妹の打たれ強さには、アイザックも驚くものがあるようだ。
リティスは再会した時に知っていたから、少しも意外に感じなかった。
周囲の思惑など一切気にしない朗らかさと、ど根性と表現してもいいくらいの精神の強靭さ。『レイゼンブルグ家の妖精』と謳われていた少女は、外見の可憐さに反してたくましいのだ。
逆境にあろうと変わらない彼女らしさに、リティスは思わず笑みがこぼれてしまう。
「そして長男のヴォルフ少年だが、環境が変わっても一心に勉学に打ち込んでいるとのことだ。親戚連中に奪われた領地を取り戻すと息巻いているらしいが、虎視眈々と復讐の機会を待つ姿勢は悪くない。こちらもなかなか見どころがあるようだ」
「あ、あのヴォルフがですか……?」
何だろう。思っていた成長の仕方と違う。
義弟はまだ十一歳のはずだが、成人前の自分には何もできないことを、十分に理解している。それでいて確実に実力を身に着けておこうというのは、実に現実的で合理的だ。
「まぁ、リティスの義弟妹のことなら、心配しなくても勝手にすくすくと生き延びていくだろう。義母のことは気にかける必要すらないし何も問題ないな」
アイザックはさらっと話を終わらせたいだけのようだが、リティスもだんだんそれでいいような気がしてきた。
心配してもしなくても、何も変わらない。
それは、リティスが家族という枠組みに入っていなかった証拠でもあるが、今は寂しさよりも肩の荷が下りたように感じている。
今この瞬間、リティスは本当の意味で生家から解放されたのかもしれなかった。
「……気にかけなくていいとおっしゃるわりに、入念に調べてくださったのですね。感謝いたします、アイザック様」
特に、まだ成人していない義弟妹の情報など、調べる意味すらないだろうに。
リティスはおかしくなって、くすくすと声を上げて笑う。家族の現状を聞いて、こんな気持ちでいられるとは思わなかった。
ひとしきり笑っていると、ふとアイザックの視線に気付く。
青色の瞳が、直向きにリティスを見つめている。それだけで、その場に縫い留められたように動けなくなってしまった。
アイザックはおもむろに立ち上がり、リティスが座るソファの前で片膝をつく。真摯に見上げる瞳から目が離せない。
「俺は……リティスに関してだけは、いつも悔いてばかりだ」
彼が唐突に切り出したのは、悔悟の念。
リティスは意表を突かれて目を瞬かせた。