リティスは、夢中になってテーブルにしがみつくルシエラを見つめる。
彼女が真っ先に飛びついてきた時、どれほど安堵し、どれほど嬉しかったことか。
「……ルシエラは、本当に強いですね」
「えぇ。だからといって油断せず見守っていくつもりだけど……少なくとも、あなたに対して特別態度が変わるなんてことは、今後もないと思うわよ」
確信の籠もったエマの口振りに、リティスは首を傾げて返す。
彼女はこちらを振り返ると、いたずらっぽく片目をつむって笑った。
「だって、私達は家族だもの。ルシエラもきっと、リティスはどんな時でも自分の味方だって認識しているわ。……それはつまり、どんな時も、あなたの味方ってことでもある」
リティスはハッと目を見開いて、エマを見返す。
彼女の焦げ茶色の瞳は、揺らぐことなくこちらを見つめていた。
そこに宿る深い理解と、信頼……眼差しでリティスの全てを肯定するかのように。
エマの手が、優しい温もりと共に肩に触れた。
「リティスだって十分強いわ。あなたが自分の願いを叶えるため、諦めなかったからこそ、今この瞬間に繋がっているの。この先何があっても、あなたがどんな選択をしても……いつだって、私達一家がついているから」
「エマさん……」
彼女は、気付いているのだろうか。
リティスの覚悟を。
閨係を務め終え、クルシュナー男爵家に帰り、執務を手伝う傍ら家族で楽しく過ごす――そんな当たり前ではいられなくなることを。
泣きそうになるリティスに、エマは微笑んだ。
まるで母のような、慈愛に溢れた笑み。
「――ご心配なく。リティス様には、我々がついておりますから」
とうとう涙腺が決壊する……というところで割り込んできたのは、スズネだった。
リティスの涙も引っ込む。
「ス、スズネ……」
一体何を張り合っているのか。
しかもスズネ個人ではなく、『我々』という部分がちょっと不穏だし。
思わず脱力するリティスだったが、これに即座に応じたのはエマだ。
「あなた、アイザック殿下にお仕えしているんでしょう? もちろんあの方にはルシエラを助けていただいたし、多大なる恩義を感じてもいるけど……リティスを閨係に指名した点で、いまいち信用しきれないのよね」
彼女はリティスに肩入れしているから、見解があからさまに一方的だ。
実は経験皆無だったことなど、応じた側にも至らない点があるにもかかわらず、そこには綺麗さっぱり触れない。
すると、主人を侮られたと判断したスズネがむきになって返す。
「確かにアイザック殿下は色々と拗らせておいでで、情けなく映る一面もありましょう。ですが、リティス様への思いだけは本物です。――この殿下が所有する宮も、リティス様が滞在なさるということで、一から調度を揃えられたのですから」
彼女まで主人を侮っているのでは……というリティスの危機感は、続く言葉に打ち消された。
「…………え? ここってアイザック様のお住まいだったの?」
リティスにとっても衝撃の新事実だったので、無意識に訊き返していた。
居心地の良さを感じていた宮が、アイザック所有のものだった。
王宮を訪れた初日から滞在していた、この宮が。
つまり、アイザックが閨のたびにわざわざ足を運んでくれているものと考えていたが、そうではなく、そもそもここが彼の住まいだったと。
閨のたび訪れていたあの部屋は、彼の寝室だったと。
――いや、婚約者ですらない人間が、王子殿下の宮への滞在なんて……国王陛下ご夫妻だって許されるはず……あら? けれど以前、両親や兄を説得したというようなことを、アイザック様が言っていたような……。
すっかり混乱し、放心状態になっているリティスの隣で、エマはたまらないとばかりに噴き出した。
「気付いていないのは本人だけだった、ってやつね! リティスったら、はじめから肩書きなんて関係なしに、すっかり囲われていたんじゃない!」
笑い声を上げるエマの向こうで、盗み聞きをしていたルシエラが『そのネタいただき!』と楽しそうに何かを殴り書きしている。
その間も、リティスはまだ呆然としたまま動けない。
……この日のアイザックの宮は、絶え間なく明るい笑い声が響いていた。
◇ ◆ ◇
それからさらに五日後。
ボルツ・レイゼンブルグの処遇が、正式に決定した。
大麻を大量に栽培していた罪が明らかになった彼は、領地取り上げの上で爵位の降格、王都に所有する邸宅でのちっ居を命じられた。
レイゼンブルグ領は、王家の直轄地となった。
爵位こそ剥奪されることはなかったものの、一気に男爵位まで落とされては社交界でも立場がないだろう。
ちっ居も国王の許しが出るまでという、事実上の無期限謹慎。かろうじて接収から免れた邸宅で、ボルツは当分閉じ籠もっているしかない。今や物笑いの種にされているので、公衆の面前に姿を現すのは、彼の矜持が許さないだろうが。
アイザックは宣言通り、ボルツを徹底的に潰したのだ。
……婚約者の生家であっても容赦なく切り捨てる。
やはり冷酷無慈悲だと、貴族達はアイザックに恐怖したという。
◇ ◆ ◇
ボルツ・レイゼンブルグの没落は、しばらく社交界を賑わせ続けるだろう。
けれど、リティスが滞在している宮は、驚くほど穏やかだ。
レイゼンブルグ家への対処に追われ、アイザックは忙しく過ごしているらしい。
それもスズネから聞いただけで、彼とはもうずっと会えていない。同じ宮で、共に暮らしているというのにだ。
一日、二日、三日。
ゆったりと日々が過ぎていく。
アイザックに会えないまま、安穏と。
枯れゆく庭園を眺めながら深く瞑目していたリティスは――静かに覚悟を決めた。
ひたり、ひたりと進んでいく。
暗い廊下、灯りはスズネが持つランタンのみ。
今日はちょうど新月らしい。
窓の外には闇が広がり、ちらほらと星が浮かんでいる。
初めて閨に呼ばれた時のことを、否応なく思い出す。
あの時のような不安はないけれど、現実味も感じられない。
装飾の施された扉の前で、スズネは足を止める。
ついにこの時が来た。
彼女が開いた扉に、リティスは滑り込むように入室する。
「――リティス……⁉」
執務机で書類に向かっていたアイザックが、驚愕の声を上げる。
リティスは頭を上げ、はにかむように笑った。
「こんばんは、アイザック様。……閨係として、最後のご挨拶にお伺いいたしました」
戸惑うアイザックを置き去りに、スズネが淡々と紅茶の支度をしていく。
全てを整えたら、彼女は速やかに退室していった。
今夜は寝室ではないけれど、閨の時のように二人きりだ。
リティスは、彼に一歩近付いた。
「最近、お会いできていなかったから寂しくて……お話がしたくて参りました」
にこやかに小首を傾げると、アイザックはぎこちなく頷いた。
「あ、あぁ……そうだな。報告したいことも、たくさん溜まっていたんだ」
彼がソファに移動したので、リティスもその正面に腰を下ろす。
座っても、アイザックはどこか落ち着かない様子だ。不思議に思いつつ口を開こうとしたリティスだったが、それを遮るように彼の方から話し出した。
「ボルツに加担していた者も、現在続々と検挙されている。前クルシュナー男爵は死亡しているため罪に問えないが、王宮騎士団長の他にも奴の仲間がいた。もれなく大麻絡みで利益を得ていたため、処罰は重いものとなる」
それはレイゼンブルグ侯爵家と同じ穏健派が多かったけれど、強硬派の貴族の中からも逮捕者が出たという。
こうなってくると派閥どうこうではなく、今や貴族界全体が荒れ模様らしい。
穏健派の重鎮であるレイゼンブルグ侯爵の失墜をほくそ笑んでいた者達も、あわや自身に飛び火しかねない事態に、身辺整理を余儀なくされているとか。
「そしてレイゼンブルグ家内での混乱も、未だ続いているらしい。当主は他にもいくつかの爵位を持っていたが、それらも侯爵位と共にほとんどが剥奪されたからな。侯爵領以外は王家の管轄外だから、今は分家が寄り集まって、どの爵位を得るかで揉めているそうだ」
当主が所有する領地は他にもあるが、王家の直轄となったのは侯爵領のみ。既に当主でなくなったボルツに所有する権限はないので、分家が割譲するのが定石だ。
死肉にたかる猛禽類のように、さぞ激しく揉めているだろうことは想像にかたくなかった。
けれどリティスにとって、顔も知らない縁戚など実感が薄い。
それよりも気になるのは、共に暮らしていた家族のことだった。