「――クルシュナー様。ご歓談中、失礼いたします」
その時、扉の外から声が響いた。
やけに籠もった声音から察するに『お喋り女の仮面』を愛用している侍女なのだが、彼女はスズネが復帰した途端に姿を見せなくなってしまった。極度の人見知りという点を踏まえ尊重しているが、もう少しくらい距離を縮めてみたかった。
応対に出たスズネが戻ってくる。
「リティス様、お客様がいらっしゃったようです。どうなさいますか?」
来訪者は、エマとルシエラということだった。
ボルツが捕縛されたあと多少会話をしたくらいで、改まって会うのは五日ぶりだ。
リティスは笑顔で頷いた。
「もちろん会うわ。スズネ、追加の紅茶をお願いしてもいい?」
紅茶は、蜂蜜と生姜が入ったものを。育ち盛りの少女もいるので、菓子はお腹に溜まるものを多めに。
リティスはてきぱきと指示を出すと、クルシュナー男爵家の親子を出迎えた。
「ようこそいらっしゃいました。エマさん、ルシエラ」
客人を迎える側としての定型的な挨拶を口にし、席へ促す。
その頃には仕事の早いスズネが、紅茶だけでなく追加の茶菓子も用意し終えていた。
招かれた側の挨拶もそこそこに、ルシエラが駆け出す。
「ちょっとリティスー‼」
「あっ! こら待ちなさい、ルシエラ!」
母親の制止をすり抜けて、少女は一直線にリティスの元へ。
元気いっぱいの体当たりも慣れたもので、しがみつかれるままルシエラを受け止めた。八歳の彼女はまた背が伸びたようだと、抱き着かれることで実感する。
ルシエラが勢いよく顔を上げた。
母親似のくせが強い珈琲色の髪と、琥珀のような瞳。生気に溢れる大きな瞳には、不満がありありと浮かんでいた。
「聞いてよ、お母様ったらひどいのよ! 横暴、職権乱用!」
「職権って何よ、私は母親であってあなたの上司じゃないんだけど⁉」
賑やかに言い合う二人に、スズネがこっそり面食らっているのが分かる。
貴族階級にある者は、もっと体裁を取り繕うものだ。
リティスは苦笑と共にスズネを振り返った。
「これがいつもの光景だから、心配しなくてもいいわ。クルシュナー男爵家のみなさまは本当に仲がいいの」
家族間であっても礼儀を重んじるのが貴族だ。
ある程度成長するまではほとんど乳母や家庭教師に任せきり、という家も少なくない。
そんな中にあって、クルシュナー男爵家は異色だった。
乳幼児の頃から両親が愛情を込めて世話をし、決して人任せにしない。家庭教師らと協力しつつ、仕事の合間を縫って子育てをしている。
だからこそ彼らは、他の貴族家より親密な絆があるように見えるのだ。
激しさを増していく親子喧嘩を感慨深く見守っていると、スズネが気まずそうに口を開いた。
「あの、確かにそこも驚いたのですが……ルシエラ嬢は、読書が趣味でやや内向的な性格だと窺っておりましたので……」
「――あ。そうね、表向きは……」
彼女の言わんとしていることが分かった。
諜報部隊に所属しているスズネなら、クルシュナー男爵家の長女についても情報を収集しているだろう。
その上彼女は、ルシエラの誘拐現場にも居合わせている。
おそらくだが、可憐で健気で儚げな少女が、懸命に助けを求める場面に遭遇したのだろう。スズネは、同一人物とは思えないルシエラの豹変ぶりに戸惑っているのだ。
「その……エマさんも頭を抱えているの。溌溂とした性格は仕方がないにしても、なぜこんなにも表裏が激しく育ってしまったのかと……」
「僭越ながら、完璧な取り繕いぶりを見ていれば、クルシュナー男爵夫人の教育が行き届いているとしか……」
「えぇ。激しく同意するわ……」
実際、トマスの見解とも一致しているので、それが真実なのは間違いない。
似た者親子だということに、ただエマだけが気付いていないのだ。
父親であるトマスは、その当時遠い目をして語っていた。『きっとあの情熱を原動力に、いつかどこかに飛んで行ってしまうのだろうな……』と。
エマは隣のウルジエ共和国出身で、トマスと結婚するためルードベルグ王国に移住した、という話は以前から聞いていた。
クルシュナー男爵夫妻は恋愛結婚、という端的な言葉の裏に隠された彼らの怒涛の歴史を、リティスは垣間見た気がした。
スズネと小声を交わす間にも、クルシュナー男爵家の親子はさらに白熱していた。
「いいじゃない! 恋愛小説は私の原動力、生きる糧なの! 取り上げられたら、私の心の泉は枯れ果ててしまうわ……!」
「別に没収するとは言っていないでしょう⁉ 当分は単独での外出を禁じるってだけ!」
「それが横暴だって言っているの! 恋愛小説との出会いは、一冊一冊が運命なの! 様々なかたちで、私に愛を語りかけてくる……その絆を引き裂こうなんて、たとえ神であろうと許されないことだわ……!」
「いちいち詩的な表現を挟んでくるの、やめてくれる⁉ 話がややこしくなるから!」
恋愛小説の影響なのか、ルシエラの言い回しが独特なのもいつものこと。
リティスは言い争う内容で、状況を的確に理解した。
つまりルシエラは、恋愛小説を買いに行く途中でさらわれたのだろう。確かに、彼女が街に遊びに行く用事といえばそれくらいだ。
トマスとエマも、今まではある程度の自由は認めていたが、今回娘が危険な目に遭ったことで考えを改めた。せめて安全を確保するまでは、街歩きなどさせられないと思ったのだろう。
けれど、突然自由を奪われたルシエラとしては、当然不服にもなる。彼女は新刊の告知情報を仕入れ、発売当日に自ら足を運んで購入することを楽しんでいたから。
「どちらの言い分も理解できるわ……」
「理解できてしまえるのですか……」
スズネの戦慄の籠もった呟きを聞きながら、リティスは考える。
何か、双方の願いを叶える方法はないものか。
「……あ。ルシエラ自身が書いてみるというのはどう?」
ポツリと落とした言葉に、親子喧嘩がぴたりと収まる。
その隙に、リティスは提案を続けた。
「エマさんは、当分は街に遊びに行ってほしくない。ルシエラは、最新の恋愛小説と出会いたい。それなら、いっそ恋愛小説を書いてみちゃえばいいかもしれないわ。外出できなくても、ルシエラ自身が読みたいと思う物語を書いている間は、きっと楽しいもの」
ルシエラは、呆然とリティスを見つめた。
「私が……恋愛小説を……?」
「えぇ。たくさん読んできたあなただからこそ、書けるものがあると思うの」
「……たとえ書けなくても、途中で挫折しても、諸作家様方への憧れと尊敬が深まるだけだわ……」
「そうね。それに、書くことに没頭していれば、街歩きの解禁なんてあっという間よ」
よろよろと近付いてきた少女が、リティスの両手を握り締めた。
それは、彼女の情熱を物語るかのように力強い。
ルシエラはもう、悲しげな顔をしていなかった。むしろぎらぎらとした瞳で、はるか遠くにある目標を見据えているようだ。
「リティス、あなたってやっぱり素晴らしいわ……私、やってみる‼ 自分の手で素晴らしい作品を生み出してみせる‼ そうして、神々の頂に少しでも近付いてみせるわ……‼」
「応援するわ。完成したら、ぜひ私にも読ませてね」
闘志を燃え上がらせるルシエラは、早速紙と万年筆を求めた。
すかさずスズネが差し出すと、テーブルに向かって何やら構想を練りはじめる。
彼女と入れ替わるようにして近付いてきたのはエマだった。
「リティス、助かったわ……危険な扉が新たに開いてしまった感は否めないけど」
母として心配なのか、彼女は疲れた表情をしている。
リティスは小さく笑んでから、小声で返す。
「ルシエラがいつも通り元気そうで、安心しました。あんなことがあったあとなので、色々怖がって当然ですし……もしかしたら私に対しても、態度が変わってしまうかと」
一度極限の恐怖を体験した者は、日常生活に戻っても、ふとした拍子に過去に捕らわれてしまうことがあると聞く。
それは当人にすらどうしようもない反応で、時間の経過と共に恐怖の記憶が薄まっていくのを見守っていくしかないのだとか。
それだけでも非常に繊細な問題なのに、幼い少女に恐怖を与えたのは、誰あろうボルツ・レイゼンブルグ――リティスの実父だ。彼女の中にある恐怖心と結び付けられていても、おかしくなかった。
だから、たとえルシエラがリティスに対して怯えを見せても、彼女自身に非はない。
こればかりは、時間をかけていくしかないと思っていたのに――……。