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第32話 しらを切らなくても済むように

「……なんて、冗談です。助けに来てくださって、本当にありがとうございました。アイザック様を信じているからこそ、私はお父様に立ち向かうことができたんですよ」

「リティス……」

 心からの感謝を込めて微笑むと、彼はようやく体の力を抜いた。

 そうしてじっとリティスを見つめたあと、改めて表情を引き締める。

「……リティス、本当に申し訳なかった。だがこれからも、全てを事前に相談することは、きっと約束できない。王族として、どうしても秘しておかねばならないことはあると思う。それでも、夜会服のことは……完全に俺の一存で黙っていた。すまなかった」

「いいんです。あれは、明言せずに周囲へ理解を求めるための作戦だと、分かっておりますから」

 自分達の婚約は、正式に成立したわけではない。

 愛は確かめ合ったものの、リティスは未亡人だし、未だに肩書きは閨係だ。貴族議会をある程度納得させることができなければ、第二王子との結婚が厳しいことは自身でも分かっている。

 リティス自身の中に、王子妃なんて恐れ多いとしり込みする気持ちもあるのだ。

 アイザックへの思いは本物だが、愛だけでは王族との結婚など成り立たない。

 卓越した知識と社交術、いざという時に国を背負って立つ強さも備わっていなければ、王族と並び立つことは到底不可能。貴族議会だって、経歴に『未亡人』という瑕疵のあるリティスを、簡単に認めはしないだろう。

 覚悟も実績も地位も、今は何もかも足りない。

 婚約が難しいのは当然。

 だがそうなってくると、今回の作戦でアイザックの力を借りるのが難しいという問題が発生する。

 クルシュナー男爵家に振りかかった誘拐事件に、王宮騎士団を投入する。それは、一つの家に肩入れすることに等しい。

 それでも、どうしても騎士団を動かさざるを得ない、大義名分が欲しかった。

 そこでリティスとアイザックは、さも婚約が内定しているかのように振る舞ったのだ。

 作戦という観点からすると、彼が夜会服の色を揃えたのは有効だった。

 夫婦、またはそれに準ずる関係の者達は、互いの髪や瞳の色を夜会服に取り入れるのが一般的だ。特に婚約関係にある若い男女は、互いの色を身に着けることで、常に行動を共にしても咎められることがなくなる。

 アイザックはこの慣例を利用した。

 色を揃えるだけで、婚約をしていなくてもそうと匂わせることができる。両者の関係について訊ねられることもない。

 それでいて、堂々とクルシュナー男爵家を助けることができるというわけだ。

「ディミトリ公爵夫人からご指摘を受けた時は恥ずかしく思いましたが、とても合理的な手段なのだと気付きました。全て終われば、『たまたま色が揃って見えただけ』としらを切ることだって可能になりますし」

 だから、気にしていない。

 リティスが笑顔で続けると、なぜかアイザックは後ろめたそうに視線を逸らした。

 それでも腕の中で、じっと答えを待ち続けてみる。すると、彼は目を泳がせつつも口を割った。

「その、それもあるんだが……リティスに近付く男共への、牽制を込めてもいた。……一挙両得だと思って」

「――――」

 ……どちらに比重が置かれているかは、あえて聞くまい。

 リティスは、つられて赤くなりそうな頬を隠すために俯いた。

 牽制。

 今すぐ婚約することができないなら、その間に言い寄って来る者が出てこないようにという、独占欲を剥き出しにした行為。

『スキモノ未亡人』といった悪い噂が完全に払拭されたわけではないのだから、わざわざリティスに近付いて来る奇特な男性などいない。

 そんなことは当人ですら分かるのに。

 ――どうしよう……恐れ多いって、頭では分かっているのに……。

 リティスが想像するよりずっと、アイザックは全力で愛してくれている。

 それが、嬉しくないわけがない。

 もっと体温を感じたくなって、リティスは彼の胸に頬を寄せる。

 この先もアイザックに寄り添っていたいなら、覚悟を決めねばならないのだろう。


『たまたま色が揃って見えただけ』と、『婚約などしていない』と――しらを切らなくても済むように。


   ◇  ◆ ◇


 さらに冷え込んできたこの頃は、長時間をバルコニーで過ごすのも難しくなってきた。

 最近は日当たりのいい窓辺から、枯れゆく庭園を眺めながら温かな紅茶を飲んでいる。花弁の先からゆっくり色褪せていく花と、赤色や黄色と鮮やかに染まっていく木々の葉。正反対に移ろっているはずなのに、どちらも等しく趣がある。

「窓辺では、肌寒くございませんか?」

 声をかけられ振り向くと、傍らにはスズネが立っていた。

 彼女の腕にはしっかりとストールが用意されている。

「大丈夫よ。紅茶のおかげで、むしろポカポカしてきたわ」

「リティス様はすぐにご無理をなさるので、信用できません」

「スズネ……」

 結局ストールだけでなく、ひざ掛け、裏地が羊毛でできた室内履きまで、防寒対策を万端整えられてしまった。朝から暖炉も焚かれているためちょっと暑い。

 収穫祭の夜会以降、スズネはすっかり過保護になってしまった。

 リティスがさらわれたのは、王宮の地下にある犯罪者を収監するための牢屋だった。ボルツに加担していた騎士団長が手引きをしたらしい。

 守るべき対象が一瞬でもさらわれ、姿を消したことに、スズネは重い責任を感じているようだ。大切な時に側にいられなかったことを、今も後悔し続けている。

 せっかく利き腕を動かせるようになり、職務に復帰したというのに、彼女はいつにもまして無表情だ。

 リティスは気まずさを払い、何とか明るく振る舞ってみる。

「その、紅茶に蜂蜜と生姜を入れるのは、スズネにとって当たり前なのかしら? とても体が温まるし、おいしいわ」

「故郷の方で親しまれていた飲み方です。紅茶ではなく温かいお湯で嗜むものでしたが、お気に召したようで何よりです」

「スズネの故郷はどんなところだったのかしら? いつか行ってみたいわ」

「遠く険しい山を越えた先にありますので、リティス様には難しいかと思われます。無茶はしないと、あの日もおっしゃっていたではありませんか」

「あ、うぅ、そうね……」

 ちくちくと嫌みを言われるのも毎度のこと。

 リティス自ら危険に飛び込んだわけではないものの、確かに際どい場面もあったので、返す言葉もない。リティスは弱りきって黙り込む。

 静まり返った室内に、暖炉の薪がぱちぱちと爆ぜる音がやけに響く。

 手持ち無沙汰にティーカップの縁をなぞっていると、スズネがおもむろに頭を下げた。

「……ご無礼の数々、たいへん申し訳ございません」

 咄嗟のことに、言葉が出てこない。

 リティスは呆然と、きっちり直角に体を折り曲げている彼女を見下ろした。

「使用人としてあるまじき態度であることは、承知しております。言いわけをするつもりはございませんので、いかようにも処罰を与えてくだされば――……」

「おおお、落ち着いて、スズネ! あなたへの処罰なんて考えてもいないわ!」

 ようやく思考が回りだし、慌てて頭を上げさせる。

 顔を上げたスズネは、どこか思い詰めた表情をしていた。

「私は、侍女失格です。……感情の制御がままならないのです。危急時にお側にいられなかったことは、私自身の失態が招いたこと。それなのに、まるでリティス様に責があるかのように……」

 スズネの感情の吐露に、リティスは気付いた。

 きっと彼女は、戸惑っているのだ。

 できなかったことを悔やんでも仕方がない。守れなかったことも、今後の反省として生かすしかない。

 そう切り替えるしかないと頭では理解しているのに、感情が追いつかないのだろう。

 そんなことは初めてで、彼女自身、どう対処すればいいのか分からないのだ。

 頑なに視線を合わせようとしないスズネに、リティスは微笑みかけた。

「……いいの。今回のことは、軽率だった私にも原因があるのだし。危ない目に遭ったのは、それこそあなたのせいじゃないわ。それに私だって……あなたに主として扱ってほしいわけじゃないもの」

 彼女がこれまで歩んできた人生を想像してみる。

 若くして諜報部隊で活躍するほどの実力があって、侍女の業務も完璧にこなし――いつも感情を押し殺してしまう、今のスズネになるまでの道のりを。

 リティスだって、ただの専属侍女と割り切るには、彼女に肩入れしすぎている自覚はあった。

「さらわれて、本当に怖かったけれど……このままじゃいけないと思った時、あなたの顔も浮かんだわ。おかげで勇気が出せたの」

 リティスは、噛んで含めるようにゆっくりと語りかける。

 とっくに大切な存在になっているのだと、彼女に言い聞かせるように。

 おずおずと、スズネがこちらを見上げる。

 彼女らしくない所在なさげな顔に、リティスは思わず笑みをこぼした。

 少しずつ彼女を知っていきたい。そして、自分のことも知ってほしい。

「私、あなたとお友達になりたい。そうなれるよう、これからたくさん努力するわ」

「と、友達……ですか?」

 スズネは、知らない単語をぶつけられたかのように目を白黒させている。

 リティスはますますおかしくなって笑った。

 我に返ったスズネが恥ずかしそうに無表情を取り繕えば、ようやく日常が戻ってきたことを実感する。

 秋晴れの温かな窓辺で、リティスは幸せを噛み締めた。





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