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第31話 決別

 あの日、アイザックに決別を告げたこと、本当に後悔しなかった?

 父に黙って従うのではなく、抗う道もあったのではないかと……己の選択を顧みたことは一度もなかった?

 アイザックは、偽らないでほしいと言ってくれた。

 ひたすら自分を押し殺して生きてきたリティスにとって、それがどれほどの救いだったか。

 子どもの頃からそう。

 彼がくれた言葉は全部、胸に息づいている。確かにリティスを強くしてくれる。

 ――強く……なったんじゃなかったの?

 悔しい。情けない。恥ずかしい。

 弱い自分に吐き気がした。

 何度も何度も立ち止まって、過去に囚われて、同じことの繰り返し。

 憐れな自分に酔っているだけ。

 それでどうして彼の隣に立とうなんて言えるだろう?

 馬鹿みたい。いいや、間違いなく大馬鹿者だ。

 大切な人達の顔が次々に脳裏をよぎった。

 何のためにここまで来たのか。

 たった一つの願いを握り締めて、必ず離すまいと――そう決めたから、閨係を引き受けたのだ。どれほど傷付こうと思いを遂げたくて、自分自身だけのために、王宮に足を踏み入れたのだ。

 それは、ボルツにあっさり屈する程度の欲だったのか。

 ――そんなわけ、ない。

 ジワリと目頭が熱くなった。

 王宮でたくさんの人に出会い、優しさに触れ、リティスは知ったのだ。

 この先だけでなく、今までだって。リティスはボルツにただ従う必要などなかった。

 安易に思考を停止させて、自分の人生を他人に預けていいはずがなかったのだ。

 それが、本当に自分を大切にする、ということ。

 ぎゅうと、爪が手の平に食い込むほどの力でこぶしを握る。

 痛みのおかげで頭が冴え渡っていく。

 リティスは震えそうになる喉から、懸命に声を絞り出した。

「…………や、です」

「……うん? 聞こえんぞ、リティス?」

 自身を叱咤し、ゆっくりと顔を上げる。

 真っ向から父と睨み合うことになっても、リティスはもう目を背けなかった。

 燃え上がる深緑色の瞳で、叩きつけるように言い放つ。

「あなたのような育児放棄の最低人間の命令に従うことは、金輪際ありません! 愛情を知らず、損得でしか物事を判断できない上に、自分の望みは何でも叶えることができると勘違いしている、憐れで傲慢なお父様!」

 ……リティスの叫びが残響となり、薄暗い空間を占拠する。余韻がいつまで経っても去らない。

 理解が追いつかないか、父は固まっている。

 ついでに騎士団長も固まっていた。

 対して、リティスの心はかつてなく軽かった。積年の恨み言を洗いざらいぶち撒けたからだろうか。

「ずっと感じておりましたが、お父様は若干独りよがりな部分があるかと思います。それも体外的には意志の強さに映っていたかもしれませんが、家庭内に持ち込むのは果たしてどうなのでしょう。義母だって打算ありきで傲慢な面に目をつむっていた可能性がありますし、ユリア達が本心からお父様を慕っていると自信をもって断言できますか?」

 ずっと我慢していた分、たくさん出てくる。

 父はまだ固まっている。

「この場合、お父様の主観的な意見は考慮すべきではありません。何しろ本質が独善的なので」

「な……」

「幸せな家庭だと思っているのは、案外本人だけかもしれませんね。だとすれば、お父様に残っているのはレイゼンブルグ侯爵という肩書きだけになります」

「な……」

「お父様が一刻も早く本当の幸せに気付ける日が来ることを、願ってやみません」

 思いもよらない反撃を、ボルツは可哀想なほど無抵抗なまま全身で浴び続けていた。一つ一つが致命傷になり得る殺傷性の高さだ。

 リティスはすっきりした心地で顔を上げる。

 先ほどまでの緊迫感から一転、辺りには何とも残念な空気が漂っていた。

 そこに、空気を震わす忍び笑いが響く。

「――ククッ……よく言った、リティス」

 苦しそうな声音は第三者のもの。

 一拍の間のあと、それぞれが弾かれたように振り返った。

 松明の火が届かない通路の奥から、ゆっくりと近付いて来る人影が一つ。

 それが一体誰なのか、この場にいる全員が理解していた。

「アイザック様……!」

 リティスを助けに来てくれたのだろう。

 だが、供を一人も連れていない。

 咄嗟にアイザックの元へ駆け出そうとするも、騎士団長に肩をやんわりと押さえ込まれて阻まれる。その強さが、『動いたら殺す』と言外に匂わせていた。

 リティスは焦燥を募らせる。

 状況を巧みに利用し、自身の有利に動く。ボルツの得意技だ。

 このまま言い逃れをされるわけにはいかない。ルシエラを安全に救い出すためにも、ボルツを完全に追い込まねば――……。

 視線の先で、アイザックが悠然と微笑んだ。

 陰気な空間も、切迫した状況も忘れさせる余裕の笑み。

 それだけで、リティスは肩の力を抜くことができた。

 ――大丈夫。アイザック様は信じられる。

 どこか超越したような、慧眼と辣腕の第二王子。

 畏怖を込められた通称は、まさに今の彼に相応しかった。リティスにも大きな安堵をもたらす。

 アイザックは、常と変わらぬ優雅な足取りでボルツに歩み寄った。

「レイゼンブルグ侯爵……いいや、ボルツ・レイゼンブルグ。貴様が使用している控えの間を検分した騎士が、ルシエラ嬢を発見した。そろそろ悪あがきも諦めることだな」

 ルシエラが、既に保護されている。

 その吉報にリティスは声なく安堵を漏らした。

 だが、ボルツの方はそれすら想定済みだったようだ。致死量に近い罵詈雑言を浴びたことなど全てなかったことにして、喜びに手を叩いてさえ見せる。

「クルシュナー男爵家のご息女が見つかったのなら、それは幸いなことです。ですが、我が侯爵家の控えの間で発見されるとは、奇妙なことでございますな」

「貴様が誘拐の主犯だったからではないか?」

 アイザックがぞんざいに罪を暴くと、ボルツは大げさに狼狽する。

「私を犯人と決めつけるのは、いささか早計では? 何者かが私に罪をなすり付けようと画策したのかもしれません」

「そうだな。誘拐の実行犯を確保しているからといって、その者の証言だけでは根拠が弱い。そちらに関しては追って捜査しよう」

 ボルツの小賢しい主張に、アイザックもいったんは矛を収める。

 けれど、間髪を容れず次なる矛を突き付けた。

「だが、乾燥大麻の取引に関しては、もはや言い逃れはできまい?」

 切りかかられたボルツは、むしろ苦笑ぎみに返した。

「ハハァ……何の話か、皆目見当つきませんな。それこそ、どのような根拠が……」

「根拠ならば見つかっている。王家の抱える特殊部隊がレイゼンブルグ領にて――医療用大麻が大量に栽培されているのを発見した」

 父の顔が初めて強ばった。

 ルードベルグ王国内では、医療用以外での使用を認められていない大麻。

 生産も、個人での輸入も法で禁じられている。

 アイザックは、しかつめらしく続けた。

「乾燥大麻を取引している可能性が浮上した時、我々も頭を抱えた。大量輸入をするにしても、貴様の領地は立地的に交易自体が不向き。そこで、何か法の目を掻い潜る方法があるのではないかと考えた。それがまさか、密輸ではなく違法栽培とは……手口が大胆すぎて兄上も驚かれていたぞ」

 ボルツは、レイゼンブルグ侯爵領内にて、堂々と大麻を栽培していた。

 先代クルシュナー男爵と秘密裏に手を組んでいたのは、製造した乾燥大麻を闇で売りさばくためだ。

 また、男爵家が持つ交易網は、目くらましとしても役に立っていた。

 国内でも膨大な取引を担うクルシュナー男爵家が関わっているとすれば、どうしたって栽培より輸出入の方に疑いが向きやすい。

 乾燥大麻は、既に証拠として陛下に提出している。

 大麻栽培に加担しているとも知らず低賃金で働かされていた労働者達も、保護した上で供述をとりはじめている。

 アイザックが丁寧に列挙していくと、ボルツの顔はみるみる青ざめていく。

 彼は、駄目押しとばかりに優雅に微笑んだ。

「貴様は露見した時のために、証拠となる大麻を焼き尽くす準備をしていたようだが……残念だったな。我が王家が擁する諜報部隊の方が、一枚上手だったようだ。誘拐の証人の確保も、彼らの手柄だしな」

「……‼」

 ボルツは愕然とした表情で、その場に崩れ落ちるように膝をつく。

 こんなにもやられっぱなしの父を見るのは初めてだった。いや、もしかしたらリティスの意見を受けて瀕死の重傷を負っていたところに、アイザックがとどめを刺しただけのことかもしれない。

 彼はさらに容赦なく距離を縮めると、労わるようにボルツの肩を叩いた。

 けれど、耳元に近付けた唇から零れ落ちる言葉は、絶対零度の響きを帯びている。

「――だが、大麻栽培より誘拐事件より許しがたいのは……実の娘に対し惨い仕打ちを続けてきたことだ。貴様は、今後二度とリティスと関われないよう、徹底的に潰す」

 アイザックが、宙に向かって手をかざす。

 するとそれを皮切りに、大勢の騎士がなだれ込んでくる。

 あっという間に喧騒に包まれる空間。

 多勢に無勢。ボルツも騎士団長も抵抗する素振りは見せず、大人しく捕縛されていく。

 リティスはというと……一人、見えない天を仰いでいた。

 もう、もう、もう。

 信じられない。

 ――ルシエラ誘拐より、大麻栽培より、私への仕打ちが一番重い罪かのように……!

 アイザックは何を断言しているのだ。

 信じられないくらいに恥ずかしい。当事者のリティスですら居たたまれず、全身がプルプルと震える。

 しかもそれを、この場にいる騎士全員に聞かれていたのかもしれないのだ。みなさま真面目に仕事に取り組んでいらっしゃるが、内心どう思っているのか。

 最後の最後まで、何とも締まらない捕縛劇となってしまった。

 責任の一端はリティスにもあるが、絶対にアイザックの方がひどいと思う。慧眼と辣腕の第二王子はどこにいった。

「リティス……!」

 ある程度の情報共有が済んだのか、アイザックがこちらへ駆け寄ってくる。

 リティスは、勢い任せに抱きすくめられた。

 耳元近くに安堵の吐息を長々と漏らされ、力いっぱい抱き締められては、さすがに抗議の言葉も出てこない。

 たとえどんなやり方だろうと、彼が助けに来てくれた事実は変わらないのだから。

「アイザック様、ありがとうございました」

「いいや。すまなかった……怖かっただろう」

「そうですね……騎士団との素晴らしい連携を見るに、結構序盤に駆けつけていただろうことは容易に想像がつきますので、若干囮にされたような恨めしさはあります」

 しらっと告げれば、アイザックの体が硬直した。

 おそらく彼らは、しばらく身を潜めてリティス達親子のやり取りを静観していた。目の前で見せつけられたからこそ、アイザックもあれほど憤っていたのだろう。

 言質を取るため苦渋の選択だったと思うが、それにしてもちょっと薄情だ。

 アイザックは、先ほどボルツに向けていた冷徹さなど嘘のように、しどろもどろになって言いわけをはじめる。「た、確かに申し訳ないことをした。信頼を裏切る行為だ。だがあれは、この状況でボルツ・レイゼンブルグがお前を傷付けることはないだろうという想定の元で立てた作戦であり……」

「私に弁明など必要ございません、殿下。夜会服の色をこっそり揃える作戦といい、殿下は私などには計り知れない方ですから」

「すっ、すまなかった! 本当にすまなかった! 心から反省している!」

 一貫して微笑み続けるリティスに、彼の顔色はどんどん悪くなっていく。

 ……意地悪はこれくらいにしておこう。

 不満を吐き出し満足したリティスは、アイザックをぎゅうっと抱き締め返した。


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