リティスは誇示するような笑顔を作って、ボルツを振り返った。
「――あぁ、お父様。苦しい時期もございましたが、私もこの通り、ようやく前に踏み出せそうですわ。ねぇ、アイザック様?」
「すまない、そうだったな。お前の親に挨拶すらできないようでは、こちらの誠意も伝わるまい」
リティスがやんわり促すと、アイザックが頷いて父に歩み寄った。
両者が、形式に則った挨拶を交わす。
上位の者に対し深く頭を下げていたボルツが、ゆっくりと顔を上げる。
「とても驚いたよ。まさか、リティスが殿下と懇意にしていたとは……もっと早くに教えてくれてもよかったのに。この父の心臓を止める気かい?」
それとなく義妹のユリアを紹介し、婚約者となれるよう計らえ。
リティスに下したそんな命令などなかったことにして、ボルツはよき父の笑顔を保っている。
これに応じたのはアイザックだ。
「実は、貴殿の娘とは幼い頃から親交があったのだ。もちろんよき友人の間柄だったが……当時からずっと、私にとって彼女は大切な人だった」
台詞の後半から、彼の視線はリティスに注がれていた。
まるで世界に二人きりかのように、熱心に見つめられる。リティスはなるべく愛らしく見えるよう、小さく頷きつつはにかんだ。
「社交界に不慣れな私が心ない噂に傷付いていた時も、殿下は何くれとなく気にかけてくださいました。そのおかげで今があるのです」
アイザックとの馴れ初めを語りつつ、リティスは視界の隅でボルツを観察する。
さすがに侯爵位ともなれば、平静を装うことにも長けている。
けれど、こちらを見据える瞳の奥の苛立ちは、隠しきれるものではなかった。綺麗に整えられた口髭を撫でる癖も出ている。
当然だ。閨係を務めるリティスを利用して、アイザックと繋がりを持つというのが父の思惑だった。
おそらくユリアとの結婚だけにとどまらず、第二王子の義父となり、さらなる権勢を振るうところまで視野に入れていたはず。
だがもう、アイザックがここまで明確な態度をとってしまえば、今さら義妹との縁組を持ち出すことなどできないだろう。ましてやボルツは周囲に対し、姉妹を平等に愛する父親を演じてきたのだから。
リティスは、花が綻ぶような笑みを浮かべてみせる。
「私、今度こそ幸せになります。もちろん祝福してくださいますわよね、お父様?」
先ほどボルツは、大事な娘の初婚に後悔があったことを匂わせた。
その発言は覆せない。身内での会話とはいえ、複数の者が聞き耳を立てていたことは間違いないのだ。
人の口に戸は立てられない。
たとえこの場面を見逃した者がいたとしても、第二王子アイザックとただならぬ仲の女性について、噂が広まるのはあっという間だ。
しかもその噂の相手が、今まで一度も逆らったことのない……取るに足らないと思っていた、先妻との間にできた子。
自身の野望を粉々に打ち砕かれた上にこの屈辱、ボルツの怒りは到底計り知れない。
これがリティスの考えた、作戦の第一段階だった。
ボルツの思惑を潰すと同時に、彼の怒りを煽る。怒りは、普段冷静なボルツの思考力さえ鈍らせるから。
そこに、慌ただしく登場したのが、クルシュナー男爵夫妻だった。
「――リティス! たいへんよ、私達の娘が……!」
貴婦人の作法などかなぐり捨てて駆け寄るエマは、顔面蒼白でかなり真に迫っている。
リティスはこの先の脚本を知っているので、すぐに真剣な表情を作ることができた。
「落ち着いてください。一体どうなさったのですか、お二人共?」
「あぁ、リティス……まずはこれを見てくれないか?」
一度握り潰した痕跡のある紙を差し出すトマスの手も、胡散臭くならない程度に震えている。夫婦揃って見事な演技力だ。
リティスに手渡されたのは、実際にクルシュナー邸に届けられた脅迫文。
収穫祭でルシエラの身柄を引き渡す代わりに、大麻取引に関するこれまでの捜査で得た証拠の一切を破棄せよ、というもの。
これをわざわざ夜会の場に持参したのは、もちろん意図的なことだ。
「どういうことですか……これは、つまり……ルシエラが何者かに誘拐されたということ?」
恐るおそる口にしたリティスの台詞に、成り行きを見守っていた貴族達がどよめく。
既に注目は十分に集まっていたので、効果は抜群だった。
エマは嘆き悲しむ母親の顔で、首を振りたくるようにして頷く。
「そうなのよ! あぁ、リティス……私達の大切な娘が……一体どうすればいいの……⁉」
「クルシュナー商会の持つ伝達網を駆使して、すぐに家の者に確認を取った。ルシエラは現在、屋敷のどこにもいないらしい。この脅迫状は、ただのいたずらではないということだ」
「今は商会で、この脅迫状の発信元の特定を急いでいるわ。とても高級な紙を使っている点から、犯人はおそらく裕福な者ではないかと……」
トマスは沈痛な面持ちで、励ますようにエマの肩を抱き寄せる。
……完璧だ。完璧すぎる、この夫妻。
娘を人質にしたボルツを窮地に追い込むために余念がない。さらに、自分達がいかに円満な夫婦であるかを周囲に見せつけつつ、要所でクルシュナー商会の優秀さや便利さまで宣伝している。
転んでもただでは起きない。
クルシュナー男爵夫妻は、どこまでいっても商人だった。
遠い目になりかけていたリティスだったが、アイザックが颯爽と進み出たことで我に返る。
「クルシュナー男爵、そして男爵夫人。話は聞かせてもらった」
彼はあくまで緊迫感を保っている。
さりげなく肩を抱かれたリティスも、慌てて表情を引き締め直した。
「貴殿らは、彼女にとって家族同然の存在だと聞いている。私に、何か力になれることはないだろうか?」
善意での申し出に、クルシュナー男爵夫妻は感極まって涙を拭った。
「あぁ、殿下……! ありがたきお言葉にございます!」
「実は犯人が、取引を行う場所として、この収穫祭の夜会を指定してきたのです。そう要求された以上、王家の方々の協力なくして解決は難しいものと思っておりました!」
トマスの説明を聞いたアイザックが気色ばむ。
「何⁉ 王家が主催する祝祭の席で狼藉を働くとは、とんだ不届き者が紛れ込んでいたものだな……」
収穫祭の夜会は王家が主催しており、招待客の手配も彼らが行っていた。
つまり、王家が認めた者の中に、犯人が潜んでいるということになる。
思いもよらぬ展開に、周囲の貴族達も騒ぎ出した。
こうして集まっている中に犯人がいるかもしれないと、互いに疑心暗鬼になりつつ顔を見合わせている。
ボルツもまた、額に冷や汗をにじませていた。
彼は秘密裏に取引を終えるつもりだったようだが、そうはいかない。
ボルツの裏をかき、誘拐事件が起きていることを貴族達に周知させる。作戦は順調に運んでいた。
アイザックは一度、視線を壇上に送る。
国王夫妻やルードルフが、彼の行いを促すように首肯するのが分かった。
家族の意向を確認したアイザックは、集まっていた貴族達をぐるりと見回す。
「それならば、こちらも全力で事にあたらねばならないようだ。 ――我が王家は、クルシュナー男爵夫妻の娘を必ず無事に保護することを、ここに宣言する!」
堂々たる態度で意思を表明する、頼もしい第二王子。
まるで、舞台でも観覧しているかのような演出。
大胆不敵な大立ち回りは主演俳優のよう。
不安を浮かべていた貴族達が、熱に浮かされた様子でこれに喝采を上げる。
リティスは内心で、してやったりと笑う。
……今、作戦は完璧に遂行された。
この夜会を取引場所に選んだからには、会場のどこかに必ずルシエラはいる。
そう考えたリティスは、ことさら派手に誘拐事件を喧伝し、ボルツの退路を奪うことにしたのだ。
万が一レイゼンブルグ侯爵の控えの間でルシエラが見つかったら、どのように言い逃れようと完全な疑惑の払拭は不可能。
そこまでの不利に陥る前に、ボルツは自ら人質を解放するしかなくなるというわけだ。
静かに激高している父に、リティスはゆったりと目を細めてみせた。
全てがこちらの掌の上だったことに、ようやく気付いたようだ。リティスがアイザックから諸々の事情を聞いていることも。
だが、もう遅い。
一発逆転を狙ったボルツの思惑は、ここで潰える。
アイザックが騎士団に命令を下した。
「王家の精鋭達よ! 会場をくまなく調べ、誘拐された令嬢を救い出せ! みだりに他者を疑うことなく、各自が為すべきことを為すように!」
「――――ハッ!」
一糸乱れぬ動きで敬礼をした騎士達が、一斉に会場に散っていく。
ここでボルツもまた声を張り上げた。
「殿下のおっしゃる通り、我々もできる限りを尽くす時だ! 改めて夜会を楽しむ前に、令嬢の保護に協力しようではないか! 弱きを助けるもまた、貴族の務めだろう!」
父はこの後、ルシエラを解放するために動かなければならない。
けれど、この状況で単独行動をすれば周囲からの不審を招く。そのため、事件に協力するという体で貴族達を煽動したのだろう。