そそくさと逃げていく背中に、リティスはようやく緊張を緩める。
余裕に満ちた態度に徹していられただろうか。
彼らが想像するような女性を演じられればよかったのだが、生憎リティスには難しい。
妖艶という言葉で思い浮かぶのは、たとえばエマ。
彼女は弱いのに酒が好きで、酔うと子ども達の前であろうとトマスに迫るという悪癖があった。
そういった時、ルシエラ達に目隠しをして寝室まで送るのは、クルシュナー家ではリティスの役目だった。その際、色気に全く動じないトマスには驚愕したものだ。
――ああいう演技ができていれば、アイザック様の閨係も、はじめからうまくいっていたでしょうね……。
思いを伝え合った今となっては無意味なことだが。
まだ、心臓がドキドキしている。
何とか無事に切り抜けることができた。
不安はあったけれど、頑張ってよかった。一人で対処できたという事実は、今後の自信にも繋がるだろう。
胸を撫で下ろしていると、静観していたエルティアから声をかけられる。
「……甥から聞いていた印象とはずいぶん違うのね。あの子はあなたを、か弱く可憐だと評していたけれど、ただ守られてばかりの女性ではないのね」
過分な称賛に、リティスは内心で身を縮めた。
アイザックからの評価というのも、さすがに欲目を感じざるを得ない。か弱く可憐というより、内向的で臆病というのが事実だ。
けれど、少しずつでも努力して、変わっていくと決めたばかり。
リティスは公爵夫人に、晴れやかな笑みを返した。
「これくらい自力で撃退できなくては、本命に挑めませんから」
このあと、もっと手強い敵が控えている。
ルシエラを無事救出するためにも、リティスは負けるつもりなど毛頭なかった。
「――レイゼンブルグ侯爵、ご入場です!」
その時会場中に、ボルツの到着を報せる声が響く。
……本命が、ついにやって来た。
「お父様、お久しぶりです。お会いしたかったですわ」
にこやかに声をかけるリティスを、ボルツは食い入るように凝視していた。
予想通り、疎んじていた娘が登場するとは夢にも思っていなかったようだ。
この場でリティスを無視することなどできないだろう。
彼は社交界で、これまで散々子煩悩な父を演じてきた。
若くして未亡人となったリティスを憂える、温厚で家族思いの侯爵。
普段通りの態度をとれば、それが嘘だとたちまち露見してしまう。
しかもリティスは、じっと身を潜めていたわけではない。
苦手な社交も前向きにこなしたおかげで、注目が集まっているのだ。今や会場のそこかしこから視線を集めていた。
この機を利用しない手はない。
リティスは、堂々たる振る舞いでボルツに歩み寄る。
そこには、嵐が過ぎ去るのを待つように委縮して、背中を丸めていた面影などない。
「お父様、お元気そうで何よりです。今日は、お義母様はご一緒ではないのでしょうか? ユリアももうすぐ成人を迎えるので、夜会に慣れさせるためにもお連れになると思っていたのですが……」
ボルツは瞬時に驚愕を隠すと、リティスの問いに答えた。
「……あぁ。生憎、ユリアは体調を崩していてね。妻には子ども達のことを頼んだから、今日は急遽欠席となってしまったのだよ」
白々しい。
はじめから、ボルツは一人で収穫祭に出席する予定だったのだろう。
ルシエラを誘拐したことを、家族に知られたくなかったから。
――お父様が大罪を犯していることは、お義母様も知らないのかもしれない……。
今回の誘拐事件だけでなく、大麻取引についても。
リティスは冷静に思考しつつ、父の白々しい演技に付き合う。
「まぁ、そうだったのですね。ユリアにも会いたかったから、とても残念です」
「会いたいならば、いつでも邸宅へ遊びに来るといい。他家に嫁いだとしても、お前は私の大切な娘なのだから」
「そうなのですか? ――『遺産目当てで後妻となった毒婦』とまで言われているのに?」
切り込むように問いかけると、ボルツの微笑が強ばった。
夜会でのリティスの役割。
それは、場を撹乱すること。
冷徹で抜け目のない父を、とことんまで揺さぶることだ。
ルシエラの誘拐に関しては、悔しいけれど向こうの動きが早かった。こちらは後手に回らざるを得なかった。
だが、まだ盤上をひっくり返す手はある。
それが今回の作戦だった。
心なし、周囲の空気まで張り詰めているような気がする。
誰もがさりげなさを装って、こちらに注目しているのだろう。上流階級の者達は醜聞を何より嫌うくせに、他人の不幸話が大好きなのだ。
ますますリティスに都合のいい展開だった。
「とても悲しかったです。社交界から距離を取れば、少しは噂も落ち着くだろうと思っておりましたのに……お父様もご存じでしょう?」
老男爵の死から数年経っても、その間リティスが社交を控えていても、噂が色褪せることはなかった。
それは、定期的に話題に挙げる人物がいたからだ。
ボルツの口から『スキモノ未亡人』や『遺産目当てで後妻となった毒婦』といった侮蔑を聞いた者は、この場にも数多くいるだろう。心配の体だったとはいえ、そこは言い逃れできない。
「あ、あぁ……私も、あの噂には胸を痛めていた」
「お父様にまでご迷惑をおかけして、たいへん申し訳ございません……」
「いいや、私の方こそ。いくらクルシュナー男爵に熱心に請われたからといって、あそこまで年の離れた者に大事な娘を任せるべきではなかった」
リティスは儚げな表情の下で、会心の笑みを浮かべる。
想定通り……いや、期待以上の台詞を引き出せた。
しおらしく謝れば、よい父親を演じているボルツは謝罪を受け入れ、しかも自身にも非があったことを認めるしかない。
この展開を待っていたのだ。
すると、図ったかのような頃合いで楽器が吹き鳴らされる。
高らかに告げるその意味は――王族の入場だ。
アイザックと王太子夫妻、そしてその後ろから国王夫妻が姿を現す。
王族一家は湧き起こる拍手に鷹揚に手を振り返し、壇上に着座する。
その中から滑るように抜け出したのはアイザックだ。
彼は、脇目も振らずこちらに向かっていた。颯爽とした足取りに、人垣が自然と割れていく。
アイザックも、今夜は眩しいほど着飾っていた。
光沢のある純白のジャケットとスラックス、ウェストコートもやや緑を帯びた白色で統一している。袖口や後身頃の切り返し部分までを銀糸の刺繍で大胆に飾っているので、簡素な印象は一切ない。
タイを留めるピンは薔薇をかたどったもの。神秘的な緑色が美しいエメラルドが、中央に一粒輝いている。
「――今宵はまるで月の女神のような麗しさだな、クルシュナー夫人」
「身に余るお言葉です、殿下」
夜会の場では一般的な、ごく何気ない会話。
だがそれだけでないことは、否応なく分かる。
これにはボルツだけでなく、面白おかしく見物を決め込んでいた周囲の貴族達も息を呑んだ。
両者の装いは、一見するとただ洗練されたものだが、並び立てば対を成していることが顕著に分かるもの。
婚約宣言は成されていないが、ここまであからさまに主張していれば誰でも分かる。
アイザックとリティスが親密な仲だということ。貴族が一堂に会する収穫祭の場でそれを隠しもせず、むしろ一家で入場したからには、王族全員から認められているということ――……。
リティスは周囲のざわめきを聞きながら、今のところ未亡人であることをあてこする意見が出ていないようで安堵する。同時に、一瞬で二人の仲を周知させるアイザックの作戦が、成功したことを理解した。
公爵夫人に指摘されるまでは気付かなかったが、このためなのだと分かったから羞恥心をこらえることができたのだ。