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第26話 ディミトリ公爵夫人

 扉が開け放たれ、クルシュナー男爵夫妻とリティスの到着が高らかに告げられる。

 大広間に集まる貴族達の興味が、全て向けられたのが分かる。

 滅多に姿を現さない『スキモノ未亡人』がやって来たと、面白おかしく騒ぎ立てようとしているのだ。

 好奇、嘲笑、侮蔑。上辺だけの笑みの下に獣のような本性を隠した者達が、一斉に牙を剥こうとしていた。

 けれどそれらは、リティスを目にした瞬間勢いを失う。

 柔らかそうな栗色の髪は緩やかにまとめられ、生花と見紛うような白薔薇の髪飾りや真珠で彩られている。

 ブルートルマリンのネックレスは露出した胸元を覆い尽くさんばかりに豪奢で、それが首や肩の細さをより一層引き立てていた。

 肘上まである絹のグローブは、目を凝らしてみると精巧なレースでできている。グローブを留めるボタンは白蝶貝で、幻想的なまでに美しい。

 既婚女性と未婚女性では、ドレスコードも異なるもの。

 夫人が華やかな色のドレスをまとっていれば、考えなしの若作りだと失笑を買う。

 クルシュナー夫人は、決して華美に装っているわけではない。むしろ、けぶる森のような瞳の緑色と相まって、深い知性すら感じるほどだ。

 社交界にデビューしたばかりの頃、彼女はいつもどこか自信がなさそうにおどおどしていた。それが今や穏やかな気品と、培ってきた教養を兼ね揃え、若いだけの令嬢にはない奥行きが備わっていた。

 それでいて儚げな風情から連想するのは、清廉な花のような佇まい。

 貴族達は知らなかった。

 社交から遠ざかっていたリティスが、いつの間にか美しく咲き誇っていたことを。

 生命力に満ちた若々しさと、成熟した大人の色香。

 そのどちらでもないし、どちらも併せ持っているとも言える。

 そんな危うい均衡の上に成り立つ揺らぎが、惹き込まれるような魅力を放つなんて――彼らは夢にも思っていなかったのだ。


   ◇  ◆ ◇


 静まり返ってしまった会場内。

 リティスは内心の動揺を押し殺しながらも、優雅に微笑んで進む。

 集まった貴族達からの、痛いほどの注目にさらされている。

 今度は一体どのような噂をされるのか、胸の内では気になって仕方がない。

 けれど今は一先ず、作戦の成功を喜ばねばならないだろう。

 そう。なるべく多くの人目を集めるのが、今回のリティスの役割なのだ。

 そのためには多くの者達と交流を持たねばならない。

 まずはクルシュナー男爵夫妻と歓談し、良好な関係を十分に見せつけてから、社交を開始する。

 リティスが一人になった途端に近付いてきたのは、微笑を携えた夫人達だった。

「初めまして、クルシュナー夫人」

「とても素敵なドレスですわね」

 一見すると敵意などなさそうな素振りだが、腹の底では何を考えているか分からない。リティスの失敗を、手ぐすね引いて待っているかもしれないのだ。

 おどおどしていれば弱い心を見透かされ、たちまちそこを突かれるだろう。

 リティスは自身に関する噂などさも知らぬげに、自信に満ちた笑みを浮かべた。

「みなさま、初めまして。お褒めいただき光栄にございます」

 準備期間には上流階級の家名と称号を、できる限り頭に叩き込んできた。

 見たところどの夫人も、男爵位のクルシュナー家より家格が高い。当たり障りのないよう丁寧に感謝を伝える。

 彼女達はゆったりと頷き、リティスが身に着けているネックレスに興味を移した。

「見事なペアシェイプのネックレスね。アクアマリンか、ブルートルマリンかしら?」

「これほど大粒のものは、なかなかお目にかかれないわ。どのようにして得たのか、ぜひお訊きしたいわね」

 ドレスやネックレスに興味を示す者は多いと予想していたので、どのように対応するかはあらかじめ考えてあった。というか、そう答えるようにとアイザックから言い聞かせられていたのだ。

「ありがたく存じますが、こちらはいただいた品なので私にも分かりかねます」

「ではその、美しいドレスもでしょうか?」

「はい。とある方より、今宵のためにと」

「まぁ、それって……」

 どちらの紳士からいただいたものなのかしら?

 彼女達が濁した語尾に隠れているのは、そのような言葉だろう。

 おそらく、『スキモノ未亡人』という噂を裏付ける格好の話題を得られたとでも思っている。夫人達の目付きには明らかに嘲りが混じっていた。

 どうしてこう受け答えるべきだったのか。贈られた品だと言えば、邪推されることは分かりきっているのに。

 アイザックの意図は、リティスも計りかねていた。

 ――それでも側にいると決めたからには……心の底から信じ抜く。

 王族である彼には、様々な重責が付きまとう。

 国政が関わってくるからには、今後もリティスには打ち明けづらいことだってあるだろう。

 それを、信頼が足りないせいだとは思わない。

 彼を支えていくなら、今までよりもっと大きな視野が必要になる。思いを告げた時から、アイザックが抱えるものを丸ごと受け入れる覚悟はできていた。

 だからリティスは、あくまで毅然とした笑みを維持し続ける。

 すると、穏やかな声音が両者の間を割って入った。

「――あらあら、邪推も過ぎれば無粋となりますよ」

 リティス達のやり取りに介入したのは、ややふっくらとした金髪の女性。ただ微笑んでいるだけなのに、自然と背筋が伸びるような存在感がある。

 ディミトリ公爵夫人は、現在この場にいる誰よりも高貴な女性だった。

 もっと遅い登場でもいいはずなのに、彼女はゆったりとした足取りでリティスに歩み寄る。

「あまり騒ぎ立てるものではございませんわ。これらの色を贈る人となれば、自ずと限られてきますもの」

 これらの色という言葉を受け、窘められた夫人達は改めてネックレスやドレスを観察する。リティスも一緒になって自身を見下ろした。

 とはいえ、緑色の瞳に合わせた何の変哲もないドレスだ。

 ディミトリ公爵夫人の発言の意味を理解するのは、夫人達の方が早かった。あっという間に顔色を失くすと、挨拶もそこそこに離れていってしまった。

「……?」

 リティスは、無意識にディミトリ公爵夫人を見つめていた。彼女の方から意味深な流し目を寄越され、僅かに既視感を覚える。

 ディミトリ公爵夫人は優雅に微笑んだ。

「初めまして、クルシュナー夫人」

「お初にお目にかかります、公爵夫人。リティス・クルシュナーと申します」

「丁寧にありがとう。わたくしのことは、どうぞエルティアと呼んでちょうだい」

 公爵夫人の言葉には、表面的ではない親しみが込められている気がした。それに、どこかで似たような会話をした覚えがある。

 考えている内に気付いた。

 澄んだ青い瞳はアイザック――そして王妃ユレイナと同じ色。

 リティスはこっそり目を見開いた。

 公爵夫人であるエルティアは、悪戯が成功したかのように笑みをこぼす。そして、扇で隠した口をリティスの耳元に寄せた。

「――実はね、こっそり姉から頼まれていたのよ」

 王妃ユレイナは、ディミトリ公爵家の出身だった。

 公爵家の直系には元々姉妹しかおらず、現在はエルティアの夫が中継ぎというかたちで爵位を継いでいる。いずれは彼らの長男が公爵となる予定だ。

 つまり、ディミトリ公爵夫人エルティアは、アイザックの母ユレイナの妹にあたった。

 なるほど。

 ユレイナ経由で彼女に頼みごとをしたのは、十中八九アイザックだ。

 よく考えればブルートルマリンも銀糸の刺繍も、彼を象徴する色合い。正式な発表予定が決まっていないため控えめだが、アイザックは全力で自身の存在を匂わせていた。

 おそらく暗に周知させるためと、ものすごくあからさまな牽制。リティスを不当に貶める者も、下心をもって近付く男性も許さないという。

 ――き、気付かなかった……。

 過保護なほど守られていたことを今さら思い知り、顔から火が出そうだった。

 脱力しそうになるのを堪えていると、エルティアが忍び笑いを漏らした。

「事前に意図を教えていなかったのだとしたら、殿下もずいぶんと余裕がないこと」

「いえ。かの方を煩わせてしまう前に、私が察するべきでした……」

「気遣いは大切だけれど、殿方を甘やかしすぎてもいけないわ。すぐに図に乗ってしまうから、多少の危機感があるくらいでちょうどいいの」

 公爵夫人という立場にありながら、エルティアは堅苦しさを感じない人柄だった。

 ディミトリ公爵家の姉妹は、揃って飾らない性質らしい。



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