リティスは深呼吸をして、怒りに煮えたぎる頭を冷やす。
――駄目……冷静さを失っては、あの男と渡り合えないわ……。
おそらくボルツは、クルシュナー男爵家を監視している間に、リティスがアイザックの閨係を務めていることを知った。そして、彼がトマスと共に大麻取引について嗅ぎ回っていることも。
クルシュナー男爵家は家族仲がいい。ルシエラを人質に取れば、自分に有利な条件を引き出せると思ったのだろう。
夜会を取引の場に選んだのは、人の出入りが激しいからだ。
あちらの夫人の靴が片方なくなった、こちらの紳士が酔った勢いで取っ組み合いをはじめてしまった……といった騒ぎが起こるのは毎年のこと。
たとえボルツが、これまで交流のなかったアイザックやトマスと接触しても、祝祭の席なら無関係な貴族達の印象に残りにくかった。
どこまでも慎重で、用意周到な男。
だからこそ、父の意表を突くような作戦が必要だった。
そろそろクルシュナー男爵家も入場しなければならない刻限。
男爵家のために用意された控えの間で、リティスはエマと最終調整に入っていた。
「やっぱり、少々派手すぎる気が……」
「安心してちょうだい、これくらい着飾っている女性なんてごろごろいるから」
リティスが着ているのは、随所に銀糸の刺繍が入った翡翠色のドレス。
緑色系統のドレスは着慣れているはずなのに、銀色の存在感が強すぎてやたらと華やかな印象になっている。濃淡のある青色のビーズが散りばめられているせいもあるだろうか。
それに、襟ぐりの深さが大胆すぎた。
胸側は鎖骨が覗く程度で貞淑な雰囲気なのに、背中はほとんど半ばまで露出している。
そして胸元に燦然と輝くのは、アイザックの瞳の色に似たブルートルマリン。これもまた大振りで、目立つこと間違いなしだった。
リティスも今日は、夜会に出席する予定だ。
急遽用意された夜会用のドレスだが、寸法はぴったり。一体誰が、どこから調達してきたのだろうか。
緩く波打つ髪は、まとまりのなさを生かしたルーズなアップで。化粧も、リティスの清楚さが際立つよう最低限で。
王宮の侍女に細かく注文を付けたエマは、その仕上がりに満足して頷いた。
「いいわね。きっと、品のない噂なんてあっという間に吹き飛ばしてしまうわ」
「貴族達のいい笑い種になる未来しか見えませんが……」
『スキモノ未亡人』と囁かれるようになってからは、長く社交界から遠ざかっていた。できることならこれからもひっそりと生きていたい。
だが、今回ばかりは事情が違う。
保身のために隠れているつもりはなかった。
ルシエラが人質にとられた日から、既に三日が経過している。ボルツが考えなしに貴族の令嬢を害することはないだろうが、それでも心配だった。
「会場中からどう見られるかなんて、今は考えないことにします。目的を達成するための小さな犠牲だと思えば、怖くありません」
リティスは緊張を宥め、無理やり笑顔を作る。
多くの不安要素が重なっているけれど、必ずやり遂げねばならなかった。
心の奥底に押し込めた弱さを感じ取ったのか、エマはふと快活な笑みを消した。
「……ありがとう、リティス。久しぶりの夜会なんて不安でしょうに、ルシエラのために決断してくれて」
彼女は、そっとリティスを抱き締める。
ドレスがシワにならないよう配慮した、まるで母親のように温かな抱擁。
エマの腕の中、リティスは今度こそ笑うことができた。
「作戦を決めたのは私です。成功のために頑張るのは当然じゃないですか。何より、私にとってもルシエラは大切な家族ですから」
彼女は肩口で笑い声をこぼすと、少し体を離してリティスを見つめる。
「あなた、変わったわね。うちにいた頃よりずっと強くなった」
強くなりたいと思っているので、その褒め言葉はどんなものより嬉しかった。
リティスは誇らしいような、照れくさいような気持になってはにかむ。
「変われたのだとしたら、アイザック様のおかげです。この騒ぎが落ち着いたら、エマさんに話したいことがたくさんあるんですよ」
「あら、それは楽しみだわ。……王宮での経験が、あなたをより大きく成長させたのね」
リティスとエマは、互いに顔を見合わせて笑みを深める。
ここ最近は常に緊張状態にあって慌ただしかったため、ゆっくり挨拶もできていないし、久しぶりに会えた喜びも伝えていない。
けれどこうして抱き締め合っていれば、気持ちは通じるような気がした。
エマは体を離すと、リティスの背中を軽く叩いた。
そうして、扉に向かって歩き出す。
「さぁ、行きましょうか。今のリティスならレイゼンブルグ侯爵の思惑なんて蹴散らしてしまえるわ。それに――あなたは他者からの視線が気になるようだけれど、そんなに不安がることないわよ」
彼女はいたずらっぽい笑みと共に振り返る。
「心配しなくても、あなたは会場にいる誰よりも人目を惹くもの」
先に控えの間を出て行くエマを、リティスは呆然と見送った。
片目をつむって小首を傾げる彼女の方が、よほど魅力的に見えるのだが。
とはいえ、そんな女性が太鼓判を押してくれたのだから、少しくらい自信を持っていいだろうか。
エマはリティスに、堂々と顔を上げて進むための勇気をくれたのだ。
遅れて歩き出したリティスを、部屋の隅で待機しているスズネが見守っていた。
彼女は肩を負傷しているため、着付け作業には参加していなかった。休んでいてほしいのに、むしろきっちりリティスから離れない。
その謎も、今回の件で明らかになった。
スズネは、王家が擁する隠密行動を得意とした特殊部隊・諜報部の一員だったのだ。リティスの側をしばらく離れていたのも、レイゼンブルグ領の調査に行っていたためだという。
……王都郊外の屋敷から駆け付けたクルシュナー男爵夫妻より、レイゼンブルグ領から戻ってきた彼女の到着の方が早かったことに対して色々と疑問はあるが、今は深く考えず目をつむるとして。
諜報部は危険を伴う仕事だ。
肩の傷も、その過程で負ったもの。
レイゼンブルグ領を見張っていたスズネは、ルシエラが邸宅に運び込まれるのを目撃し、その場で交戦となったという。
残念ながら多勢に無勢。ルシエラを奪還することは叶わず、スズネも負傷した。
だがその際、彼女は犯人の内の一人を拘束している。
それはこちらにとって、とても大きな収穫だ。
おかげでボルツの圧倒的優位を回避できた。
けれど、リティスは怖くなった。
彼女を大切に思うからこそ、危険なことから遠ざかってほしいと願ってしまう。
スズネは自身の生き方を既に選んでいるのだから、口出しをする権限などない。ましてや、彼女の怪我の原因はリティスの生家にあるのだ。
そうしてもやもやと考えている内に、二人の関係はぎこちなくなっていた。
今も、じっとリティスを注視しているスズネに、何と声をかければいいのか分からない。彼女が側を離れようとしないから、ますます気まずくなっていく。
「……リティス様が不安そうになさる理由が、私にも分かった気がいたします」
彼女の方から言葉を発するのは珍しく、リティスは目を瞬かせた。
スズネは淡々とした表情で続ける。
「あなた様は今まさに、自ら危険に飛び込もうとなさっている。けれど私には止めるどころか、側でお手伝いすることすらできない……歯痒い限りです」
「スズネ……」
不器用に思いを語る姿に、目の前の霧が晴れていくようだった。
知らない側面を見てよそよそしい態度をとってしまったけれど、スズネはリティスの専属侍女だ。
諜報部の凄腕でも、赤の他人でもない。
王宮にいる間はそれでいいのだ。
リティスはゆるゆると笑みを綻ばせた。
決して喜びばかりじゃない。整理しきれない思いがない交ぜになった、不器用な笑顔だった。
「……心配してくれてありがとう。だから怪我をしているのに、いつも側にいてくれたのね」
「それは、単純に仕事ですので」
「私も、いつだってあなたを心配しているわ。あなたはすごい。けれど、あなたが何でもできるからといって、心配しない理由にはならないの。危ないことをしているんじゃないか、怪我をしているんじゃないか、不安でたまらなくなる」
スズネからすれば、理解し難い感情かもしれない。
彼女は捕らえたボルツの部下から、様々な証言も引き出している。
リティスとは同い年のはずなのに、歩んできた道の違いをまざまざと見せつけられているようだ。
強く有能で……危うい。
リティスは、彼女の両手をそっとすくい取った
「諜報部の仕事を辞めてほしいだなんて言えないけれど、私が気にかけていることを……どうか、忘れないで」
スズネはじっとリティスを見つめ、こくりと頷いた。そうして今度は、繋がれた両手に視線を落とす。
静謐な黒い瞳からはどのような感情も読み取れない。
けれど、少しでも思いが伝わればいい。
「――とはいえ、次は私が頑張る番ね」
リティスは今度こそ、力強く微笑んでみせる。
「無茶はしないと約束するわ。絶対に作戦を成功させてみせるから、見ていてね」
父から余裕をはぎ取り、ルシエラを奪還する。
決然と微笑むリティスに、スズネもほんの僅かながら、口端をゆるめて応えてくれた気がした。