――私は、『遺産目当てで後妻となった毒婦』や、『スキモノ未亡人』と噂されているのに……アイザック様は、噂ではなく私自身を見てくださったのだわ……。
そうでなければ未亡人なのに経験皆無などと、考えも及ばないはずだ。
羞恥を通り過ぎ、冷静になってみると分かる。
それは丸ごと、リティスへの信頼の表れではないだろうか。
思えば少年の頃から彼はそうだった。
真っ直ぐ、曇りなくリティスを見てくれる。
じんと胸が熱くなった。
感動のようなものを味わっていると、アイザックは不意に表情を引き締めた。
「だからこそ、改めて謝らせてほしい。無体を強いて、お前を怖がらせてしまった。本当に申し訳なかった」
そうだった。
まだ彼は、リティスが恐怖で泣き出したと思っているのだ。
「ちが、違うんです。私は……」
誤解を解こうとして、恐怖で声が詰まった。
父の仕打ちを暴かれること自体が恐ろしいのではない。
そこに囚われ続け、逃げ出すことすらできない自分の弱さを、アイザックの前にさらけ出すのが怖い。
卑怯で、卑屈で、みっともなくて。
彼に軽蔑されるのではないかと思うと身がすくむ。
――それでも……私はこれ以上、この人に嘘をつきたくない。
過去、父に唯々諾々と従って政略結婚した時のように、アイザックを傷付けたくない。彼の強さに甘えてばかりいたくなかった。
リティスは、食い縛った唇から絞り出すように告げる。
「私の過去についても……聞いてくださいますか?」
家族について話したことはあっても、レイゼンブルグ侯爵家でどのような扱いを受けてきたのか、詳細を打ち明けるのは初めてだった。
後妻や、それに従う使用人達の仕打ち。見て見ぬふりをする父。
いつもお腹が空いていたこと。身の回りを清潔に保つことすらできなかったこと。汚物を見るような視線が怖くて、狭い屋根裏部屋で息を潜めていたこと。目障りだと言って、父にステッキで打たれたこと。傷口から血がにじんでいても、誰も手当てをしてくれなかったこと……。
生家に帰った時、父から下された命令についても話した。
ボルツは義妹とアイザックの結婚を画策しており、リティスもそれに協力するよう厳命されたこと。だから閨係としての役割を全うしたのち、ユリアを紹介し、あとは王宮を辞すつもりだったことまで、洗いざらい。
「私と老男爵の関係は破綻しておりました。けれどだからといって、『遺産目当てで後妻となった毒婦』と嘲られている事実は変わりません。閨係であることも」
そんな人間がアイザック様に相応しいとも思えない。
「そのため、せめて今夜、あなたへの思いに区切りをつけることができるのなら……と考えました。父に逆らおうという発想も、勇気もなく……私の方こそ謝らねばなりません」
アイザックと離れたくないと泣きながら、身勝手にも一夜の関係を望んだ。彼がどう思うかなんて考えもせずに。
『リティスはいつもそうやって、思い出したように壁を作ろうとする』
以前アイザックにそう言われた時、反省したはずなのに。
過度な遠慮をせず、自分の気持ちを伝えること。
それも大事だが、それだけでは駄目だったのだ。
自分の言動が相手を喜ばせ、また傷付けもする。
リティスは、そんな当たり前のことが分かっていなかった。
――変わりたい。
今、痛いくらいに思う。
父の影から抜け出してアイザックの手を取れたら、どんなに素晴らしいだろう。きっと彼と一緒にどこまでだって行ける。
理想的な強い自分。
そう在れたら。そう、在りたい。心から。
リティスは、毅然と顔を上げた。
深い森を思わせる緑の瞳に、小さくも目映い光が灯る。
控えめで、それゆえ常に弱々しく儚げだったリティスが――願いを握り締め、今まさに立ち上がろうとしていた。
「私は、アイザック様が好きです。絶対に誰にも渡したくない……たとえ父の命令でも。たいへん申し訳ございませんが、今後あなたからは離れないものと思ってください」
凛とした表情でアイザックを見据え、ふてぶてしく宣言する。
王族に対して不敬極まりないとか、考えていられなかった。
自分の気持ちも、相手の気持ちも蔑ろにしてはいけない。
だからこれは、二人のための最適解だという自信があった。
惜しみない愛を伝えてくれたアイザックのために、今のリティスができること――彼の思いに、全身全霊で応えることだ。
アイザックはしばらく、目を見開いたまま呆然としていた。
それから、堪えきれないとばかりに笑いだす。
「謝るところはそこなのか。ずっと側にいれくれるなら、俺としては嬉しい限りだが……リティスはとても愛らしいだけでなく、格好よくもあるんだな」
彼は屈託なく、心から楽しそうに笑っている。
アイザックは喜びを分かち合うように、ぎゅっとリティスを抱き締めた。
「愛している。弱くても強くても、どんなお前だって構わないんだ。リティスがリティスである限り、この気持ちは変わらない。リティス――俺と結婚してくれ」
無邪気な抱擁かと思いきや、彼の囁きは全身に染み入るような真摯さで。
リティスは自然と頷いていた。
「アイザック様……嬉しい」
「リティス……」
顎の下に手を添えられ、そっと顔を上げられる。
間近にある青い瞳は溶けそうなほど甘やかで、直視していられない。リティスが目を閉じると、唇に柔らかな感触が降ってくる。
先ほどまで熱に浮かされていた体は、再び火が点くのも簡単だった。
心がアイザックを求めている。
狂おしいほどの熱を押し付けるように、初めてリティスの方から唇を重ねた。
そっと唇を離し、切なく彼を見上げる。
リティスはもう、アイザックにも同じ熱が宿っていることを知っていた。
二人の顔がゆっくりと近付く。
その時……他の誰もいないはずの寝室に、突如現れる影があった。
「――お取り込み中のところ、たいへん申し訳ございません」
凛とした声音はごく聞き慣れたもので、リティスは慌てて声のした方へ顔を向ける。
「スッ……スズネ⁉」
ベッドサイドに音もなく立っていたのは、しばらく側を離れていたスズネだった。
リティスは、久しぶりに彼女に会えた喜びと、恥ずかしいところを見られた動揺とで混乱した。とりあえずアイザックからは即座に距離をとる。
彼から非難がましい視線を感じながらも、リティスはスズネに声をかけた。
「こ、こんな時間にどうしたの? 何かあったのでしょう?」
スズネは完璧な侍女だ。
主人の寝室に、無闇に押し入るような真似はしない。となると、緊急事態が起こったとしか考えられなかった。
彼女はいつもの無表情だが、どこか疲弊しているようでもあった。それに、ひどく張り詰めてもいる。
リティスは黒い装束に身を包むスズネの全身を眺め、いつもと異なる点に気付き息を呑んだ。
「あなた……怪我を……⁉」
肩口の肌が僅かに露出し、そこにうっすらと血がにじんでいる。
傷自体は深くないようだが、かなり大きい。侍女の仕事をしていてできるようなものではなかった。
「消毒を……いいえ、ここは宮廷医を呼んだ方が……!」
「……まずそこですか。侍女のお仕着せでないことを問われるかと思いましたが」
スズネは小さく息をついたあと、アイザックに視線を移した。
「捜査に気取られることのないようとのご命令でしたが、既にこちらの動きは把握されていたようです。クルシュナー男爵から連絡があり――かの家のご長子・ルシエラ嬢が、レイゼンブルグ侯爵に誘拐されたとのことです」
「――――⁉」
クルシュナー男爵家の長女であるルシエラが誘拐された?
しかも犯人は父であるボルツ?
許容量を超えた内容に、リティスはただ呆然とする。
対照的に、報告を受けたアイザックはいたって冷静だ。
リティスは唐突に理解した。
――知らないところで、何かが動いていたんだわ……私が知らない、ずっと前から……。
閉ざされた宮で安穏と過ごしている間、多くの情報が規制されていたのだろう。
……知らぬ内に手が震えていた。
こぶしの内側は、じっとりとした汗をかいている。