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第23話 向き合う時

 ――私は、『遺産目当てで後妻となった毒婦』や、『スキモノ未亡人』と噂されているのに……アイザック様は、噂ではなく私自身を見てくださったのだわ……。

 そうでなければ未亡人なのに経験皆無などと、考えも及ばないはずだ。

 羞恥を通り過ぎ、冷静になってみると分かる。

 それは丸ごと、リティスへの信頼の表れではないだろうか。

 思えば少年の頃から彼はそうだった。

 真っ直ぐ、曇りなくリティスを見てくれる。

 じんと胸が熱くなった。

 感動のようなものを味わっていると、アイザックは不意に表情を引き締めた。

「だからこそ、改めて謝らせてほしい。無体を強いて、お前を怖がらせてしまった。本当に申し訳なかった」

 そうだった。

 まだ彼は、リティスが恐怖で泣き出したと思っているのだ。

「ちが、違うんです。私は……」

 誤解を解こうとして、恐怖で声が詰まった。

 父の仕打ちを暴かれること自体が恐ろしいのではない。

 そこに囚われ続け、逃げ出すことすらできない自分の弱さを、アイザックの前にさらけ出すのが怖い。

 卑怯で、卑屈で、みっともなくて。

 彼に軽蔑されるのではないかと思うと身がすくむ。

 ――それでも……私はこれ以上、この人に嘘をつきたくない。

 過去、父に唯々諾々と従って政略結婚した時のように、アイザックを傷付けたくない。彼の強さに甘えてばかりいたくなかった。

 リティスは、食い縛った唇から絞り出すように告げる。

「私の過去についても……聞いてくださいますか?」

 家族について話したことはあっても、レイゼンブルグ侯爵家でどのような扱いを受けてきたのか、詳細を打ち明けるのは初めてだった。

 後妻や、それに従う使用人達の仕打ち。見て見ぬふりをする父。

 いつもお腹が空いていたこと。身の回りを清潔に保つことすらできなかったこと。汚物を見るような視線が怖くて、狭い屋根裏部屋で息を潜めていたこと。目障りだと言って、父にステッキで打たれたこと。傷口から血がにじんでいても、誰も手当てをしてくれなかったこと……。

 生家に帰った時、父から下された命令についても話した。

 ボルツは義妹とアイザックの結婚を画策しており、リティスもそれに協力するよう厳命されたこと。だから閨係としての役割を全うしたのち、ユリアを紹介し、あとは王宮を辞すつもりだったことまで、洗いざらい。

「私と老男爵の関係は破綻しておりました。けれどだからといって、『遺産目当てで後妻となった毒婦』と嘲られている事実は変わりません。閨係であることも」

 そんな人間がアイザック様に相応しいとも思えない。

「そのため、せめて今夜、あなたへの思いに区切りをつけることができるのなら……と考えました。父に逆らおうという発想も、勇気もなく……私の方こそ謝らねばなりません」

 アイザックと離れたくないと泣きながら、身勝手にも一夜の関係を望んだ。彼がどう思うかなんて考えもせずに。

『リティスはいつもそうやって、思い出したように壁を作ろうとする』

 以前アイザックにそう言われた時、反省したはずなのに。

 過度な遠慮をせず、自分の気持ちを伝えること。

 それも大事だが、それだけでは駄目だったのだ。

 自分の言動が相手を喜ばせ、また傷付けもする。

 リティスは、そんな当たり前のことが分かっていなかった。

 ――変わりたい。

 今、痛いくらいに思う。

 父の影から抜け出してアイザックの手を取れたら、どんなに素晴らしいだろう。きっと彼と一緒にどこまでだって行ける。

 理想的な強い自分。

 そう在れたら。そう、在りたい。心から。

 リティスは、毅然と顔を上げた。

 深い森を思わせる緑の瞳に、小さくも目映い光が灯る。

 控えめで、それゆえ常に弱々しく儚げだったリティスが――願いを握り締め、今まさに立ち上がろうとしていた。

「私は、アイザック様が好きです。絶対に誰にも渡したくない……たとえ父の命令でも。たいへん申し訳ございませんが、今後あなたからは離れないものと思ってください」

 凛とした表情でアイザックを見据え、ふてぶてしく宣言する。

 王族に対して不敬極まりないとか、考えていられなかった。

 自分の気持ちも、相手の気持ちも蔑ろにしてはいけない。

 だからこれは、二人のための最適解だという自信があった。

 惜しみない愛を伝えてくれたアイザックのために、今のリティスができること――彼の思いに、全身全霊で応えることだ。

 アイザックはしばらく、目を見開いたまま呆然としていた。

 それから、堪えきれないとばかりに笑いだす。

「謝るところはそこなのか。ずっと側にいれくれるなら、俺としては嬉しい限りだが……リティスはとても愛らしいだけでなく、格好よくもあるんだな」

 彼は屈託なく、心から楽しそうに笑っている。

 アイザックは喜びを分かち合うように、ぎゅっとリティスを抱き締めた。

「愛している。弱くても強くても、どんなお前だって構わないんだ。リティスがリティスである限り、この気持ちは変わらない。リティス――俺と結婚してくれ」

 無邪気な抱擁かと思いきや、彼の囁きは全身に染み入るような真摯さで。

 リティスは自然と頷いていた。

「アイザック様……嬉しい」

「リティス……」

 顎の下に手を添えられ、そっと顔を上げられる。

 間近にある青い瞳は溶けそうなほど甘やかで、直視していられない。リティスが目を閉じると、唇に柔らかな感触が降ってくる。

 先ほどまで熱に浮かされていた体は、再び火が点くのも簡単だった。

 心がアイザックを求めている。

 狂おしいほどの熱を押し付けるように、初めてリティスの方から唇を重ねた。

 そっと唇を離し、切なく彼を見上げる。

 リティスはもう、アイザックにも同じ熱が宿っていることを知っていた。

 二人の顔がゆっくりと近付く。

 その時……他の誰もいないはずの寝室に、突如現れる影があった。

「――お取り込み中のところ、たいへん申し訳ございません」

 凛とした声音はごく聞き慣れたもので、リティスは慌てて声のした方へ顔を向ける。

「スッ……スズネ⁉」

 ベッドサイドに音もなく立っていたのは、しばらく側を離れていたスズネだった。

 リティスは、久しぶりに彼女に会えた喜びと、恥ずかしいところを見られた動揺とで混乱した。とりあえずアイザックからは即座に距離をとる。

 彼から非難がましい視線を感じながらも、リティスはスズネに声をかけた。

「こ、こんな時間にどうしたの? 何かあったのでしょう?」

 スズネは完璧な侍女だ。

 主人の寝室に、無闇に押し入るような真似はしない。となると、緊急事態が起こったとしか考えられなかった。

 彼女はいつもの無表情だが、どこか疲弊しているようでもあった。それに、ひどく張り詰めてもいる。

 リティスは黒い装束に身を包むスズネの全身を眺め、いつもと異なる点に気付き息を呑んだ。

「あなた……怪我を……⁉」

 肩口の肌が僅かに露出し、そこにうっすらと血がにじんでいる。

 傷自体は深くないようだが、かなり大きい。侍女の仕事をしていてできるようなものではなかった。

「消毒を……いいえ、ここは宮廷医を呼んだ方が……!」

「……まずそこですか。侍女のお仕着せでないことを問われるかと思いましたが」

 スズネは小さく息をついたあと、アイザックに視線を移した。

「捜査に気取られることのないようとのご命令でしたが、既にこちらの動きは把握されていたようです。クルシュナー男爵から連絡があり――かの家のご長子・ルシエラ嬢が、レイゼンブルグ侯爵に誘拐されたとのことです」

「――――⁉」

 クルシュナー男爵家の長女であるルシエラが誘拐された?

 しかも犯人は父であるボルツ?

 許容量を超えた内容に、リティスはただ呆然とする。

 対照的に、報告を受けたアイザックはいたって冷静だ。

 リティスは唐突に理解した。

 ――知らないところで、何かが動いていたんだわ……私が知らない、ずっと前から……。

 閉ざされた宮で安穏と過ごしている間、多くの情報が規制されていたのだろう。


 ……知らぬ内に手が震えていた。

 こぶしの内側は、じっとりとした汗をかいている。



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