「本当にすまなかった。余裕がなくて、がっつきすぎた……」
アイザックは、どこか自嘲めいた笑みを浮かべた。
そうして、リティスの手をそっと包み込む。 誤魔化そうと必死だったせいで、握り締めすぎたこぶしは強ばって震えている。
彼は労わるように、親指でそっと手の甲をなぞった。
「だが、もう他の相手なんて言わないでくれ。……俺も一緒だ。子どもの頃からずっと、お前だけが好きだった。リティス以外なんて考えられないほどに。俺の人生の全てを懸けて、お前を愛し、守り、幸せにしたい。生涯を共にしたいと思うのは、この世でリティスただ一人だ」
リティスの指先に、彼の唇が落とされる。
穏やかに、真摯に、愛を誓うように。
信じられなくて、呆然と見開いた瞳から涙がぽろぽろと転がり落ちる。
それらを再び丁寧に拭いながら、アイザックは少しいたずらっぽく笑った。
「俺には、お前だけ。お前にも俺だけ。なら、他の相手は必要ないだろう? ――虜にしたいのは、リティスだけなのだから」
「……っ」
耳に息を吹き込むように囁かれ、リティスは真っ赤になった。
色々混乱して、頭が回らない。
アイザックと結ばれることは永遠にない。その大前提が覆され、リティスは大いに戸惑っていた。
――嬉しい……嬉しいけど、あれ? 未亡人と王族は結婚できるのかしら? というかそもそも、私は閨係で、だからアイザック様と結ばれるはずがなくて……あれ? 閨係と王族は結婚できるのかしら……?
同じ疑問で、何度もぐるぐる行き止まりになってしまう。しかも、結婚しようとはっきり言われたわけでもないのに先走りすぎだ。
リティスは落ち着くために深呼吸をする。
「えぇと……これは、夢? でしょうか……」
「夢じゃない。リティスと思いが通じ合うなんて、俺にとっても夢みたいなことだが」
「思いが通じ合う……といっても、私は、閨係ですし……」
手放しに喜んでいいものだろうか。
未だ結論を出せずにいると、隣でアイザックがおもむろに咳払いをした。
「その……実を言うとだな。リティスを閨係に指名したのは――俺だ」
彼は、何とも複雑な表情で白状した。
恥ずかしそうな、居心地が悪そうな。まるで悪戯を告白する子どものようだ。
それからアイザックは、幼い頃までさかのぼって語り出す。
少年だった彼は、三つ年上のリティスを姉のように慕っていた。
けれどそれが恋情に変化するのに、そう時間はかからなかった。
初めて甘いお菓子を食べたようなあどけない反応や、肩の力を抜いて笑う無垢な愛らしさ。ただの憧れではなく、少女の柔らかな心を守りたいと思うようになった。
アイザックは自分の思いを、すぐに両親に打ち明けた。
彼らもまた互いに惹かれ合っての結婚だったため、幼い恋を微笑ましく応援した。
だが、着実に実りはじめていたはずの思いは、政略結婚によって残酷に摘み取られてしまう。アイザックは失意に沈んだ。
国王夫妻も、これには困っていたらしい。
息子の恋路を見守っていたため、婚約者を決めていなかった。
貴族達は、以前から婚約者を作るべきだと声を上げていた。リティスとの結婚が叶わないなら、早急に相手候補を見繕うべきだ。だが、傷付き苦しんでいる息子に追い打ちをかけるのも気が引ける。
そうして膠着状態が続いて二年――前クルシュナー男爵が亡くなった。
アイザックは、即座に動き出したという。
両親や兄を説得し、貴族からの反発をねじ伏せるだけの実力を身に着けていく。
けれどそんなことをしている間にも、リティスは再婚してしまうかもしれない。気が気ではなかった。
そうしてアイザックは、焦るあまり暴挙に出た。
それが、リティスを自身の閨係にする――というものだった。
「……兄上や両親には、散々反対された。絶対に誤解を生むし、好きな相手に対しあまりに不誠実だと。今思い返せばその通りだと分かるのに、あの時は余計な横やりを排除することで頭がいっぱいだった。また突然リティスを奪われるような事態は避けねばと……」
十三歳当時の失恋が、アイザックの視野を狭めた。
また、初恋をおおいに拗らせてもいた。
「すまなかった。全てはリティスのためと思い込んでいたが、結局は自分のためだった。お前を傷付けて、泣かせてしまうなんて……本当に、すまない」
「そんな、アイザック様が謝ることでは……」
リティスは、繰り返し謝罪するアイザックを押し止めつつ、混乱する頭の中を整理していた。
今、泣いたことは事実だ。
だがそれは、彼との別れを惜しんでのものであって、閨を拒んだわけではない。むしろ、一夜だけでもと前のめりの姿勢で王宮に乗り込んできたのはリティスだ。
――アイザック様にはその辺りの気持ちをお伝えしていないから、誤解されて当然なのだけれど……それなら、何が原因で泣いたと勘違いを?
冷静になってみればおかしな話だった。
愛のない関係を嘆いたと思われた?
未婚の令嬢のように?
考えれば考えるほど一つの結論に収束してしまう。
……これは、非常にまずい。
リティスは己の予想に震えながら、恐々と口を開いた。
「……えぇと。もしかして……私に閨係たる資格がないことは、アイザック様もご存じだったということでしょうか……?」
衝撃を受け止めきれなくて、ものすごく遠回しな聞き方になった。
経験豊富な未亡人を演じていたのに、実は経験皆無だと知られていたかもしれない。
リティスの脳裏に、これまでの失態が次々に甦る。
体を触るだけ触って添い寝。ホットチョコレートで興奮するはずが熟睡。あられもない衣装で色仕掛け。
閨の何たるかを知りもせず、それっぽく繰り返した挑発的な言動。具体的になんて思い出したくもない。
どうか、リティスの気のせいであってほしい。そんな願いも虚しく、アイザックは視線をうろうろ彷徨わせたのち……申し訳なさそうに頷いた。
――いっ、いやぁーーーー‼
リティスは顔を覆ってベッドに突っ伏した。
もう消えたい。それができないなら、彼の中にある忌まわしい記憶を消去してしまいたい。一生分の願いを今ここで使い切ってもいい。
「……その、閨を記録する者が配置されていないことに、リティスは気付かなかっただろう? それが成否の証人になるんだ。失敗した場合、本来なら別の閨係を選定し直すんだが……お前はその辺りにも、疑問すら抱いていないようだった」
「きっ、気付いておりました! 後任が選ばれるかもしれないと、常に危機感を持って取り組んでおりました……!」
「危機感があってあの仕上がりか……」
咄嗟に反論したものの、アイザックに遠い目をされてしまう。
ひどい。完全にリティスの知識不足を面白がっている。
「それに、普通なら具体的な手解きをするところだが、いつも何とか雰囲気だけで押し切ろうとしていただろう。実は初心者で、低年齢層向けの恋愛小説を参考にしているのではと思った」
「な、なぜそこまで分かるのですか……?」
「低年齢層向けの恋愛小説とは、描写がふわっとしているものらしい。そのせいで、肝心な部分が分からなかったのだろうと」
「びょ、描写がふわっと……あれで……?」
アイザックの推理は全て当たっていた。
というか、内容が刺激的すぎて、リティスは低年齢層向けの恋愛小説だと思っていなかったのだが。
ルシエラがよくない書物に手を出していることを、エマに相談すべきかとすら考えていたのに。自分の無知ぶりがますます恥ずかしい。
リティスは、先ほどまでの熱をはたと思い出す。
アイザックの眼差しの強さや、たくましい体。熱い唇や手が体に触れるたび、胸が甘く疼いた。あの、溶けてしまいそうな感覚――……。
リティスは、カッと熱くなる頬を押さえた。
――つ、つまり、あれ以上のことが起こるということなのね……。
想像すらつかない。
それなのに知りたいような、期待しているような自分の心の動きに戸惑う。
きっと、相手がアイザックだからなのだろう。試しにあれが老男爵だったらと想像しようとしてみたが、思い浮かべるのも無理だった。
無知なままでいられたリティスは、ある意味幸せだったのかもしれない。