柔らかい枕の感触を味わう間もなく、キスが降ってくる。
額に、頬に、鼻に、首筋に。
そして……唇に。
一度優しく触れた唇が離れていく。
間近で交わった青い瞳の奥に、はっきりと熱情が見て取れる。
そこからのアイザックは性急だった。
激しく、けれど柔らかく唇を食まれる。
甘く吸われる。
腫れてしまいそうなほど何度も、溺れるほど執拗に。
「ん……」
キスの合間に声が漏れて、リティスは唇を引き結んだ。
鼻にかかったような甘い声は自分のものではないようで、カッと頬が熱くなる。
リティスの体が強ばったことに気付いて、アイザックがほんの少しだけ顔を離す。
吐息を感じられる距離で、青い瞳が愛おしげに細められた。
「――リティス、可愛い」
宥めるように頬を撫でられながら、額にキスを落とされる。リティスはますます赤くなった。
アイザックの笑みが、信じられないくらいに甘い。こんなに甘いことがあっていいのだろうか。
彼の吐息が熱い。それが情熱の表れのようでひどく嬉しかった。
アイザックが、リティスで興奮している。
焦げ付くような眼差しでリティスを見つめ、一心にリティスだけを求めている。
どうしたって頬が緩んだ。
きっと今のリティスは、とびきり締まりのない顔をしているだろう。
見られたくなくて顎を反らすと、その顎先やさらけ出された喉までついばまれる。
完全に翻弄されている。それなのに心が満たされるなんて、不思議な感覚だった。
愛おしすぎて息が詰まりそうだ。
リティスはうっとりと、あえかな息をこぼした。
アイザックの手が、リティスの緊張をほぐすように体中を撫でていく。シュミーズ越しにわき腹に触れられた時、くすぐったくて思わず声を上げた。
「あっ、アイザック様、そんなところ……」
「怖いか?」
リティスは問われた意味を、ぼんやり回らない頭で考える。
アイザックは怖くないが、自分の中で何かが変わってしまいそうで怖い。これはそういう類いの不安だろう。
だから横に首を振ると、彼は安心したように頬を緩めた。
アイザックの熱い手が、無防備な足に触れる。
太ももから、少しずつ慎重に、付け根の方へと進んでいく。
――怖くはないけれど……溶けてしまいそう……。
確かなものにすがりたくなって、アイザックの背中に腕を回す。
求めていた心地よい体温。
リティスは安心して目を閉じた。
そうしていると、アイザックと過ごした日々が星屑のようにきらめいて見える。
初めての閨で対峙した時の、親しみの消えた冷たい瞳。
二度目の夜。過去の行いを話して、恥ずかしそうに赤くなる姿。
三度目の夜。初めてしっかり互いと向き合った。彼は真摯な表情で、心を偽らないでくれと言った。だから新たな関係を築いていこうと思えたのだ。
国王夫妻に呼び出されて不安だった時、急いで駆けつけてくれたのも嬉しかった。
青い瞳には心から案ずる色が浮かんでいて、そんなところは少年時代を彷彿とさせた。一方で、新しい彼を見つけるたび、新鮮に恋に落ちてもいた。
今リティスを見下ろしているのも、また新しい彼だ。
汗ばむ肌も、色気の滴るような眼差しも、まるでアイザックに心から求められているかのようだった。
――何だか、本当に愛されているみたい……。
だからこそ、胸がひどく痛む。
これでリティスの閨係としての役目はおしまい。
務めを果たしたからには、宮も出て行かなければならないだろう。
それが閨係なのだから、仕方がない。
この触れ合いが終わったら、ユリアについて話すのだ。
リティスに残された時間は少ない。ボルツの命令に従う機会は、おそらくこの一度きりになる。
きっとアイザックは、ユリアを受け入れるはずだ。
そうしていつか二人は結ばれる。
リティスは、それをひっそりと見守りながら生きよう。
叶わぬ思いを封じて、幸せそうに笑い合う彼らを。
そう……決めていたのに。
「――――リティス⁉」
胸元から顔を上げたアイザックが、ぎょっと目を見開いた。
彼は一気に青ざめると、リティスの上から素早く退く。
「アイザック様……どうかされました?」
リティスは不思議に思って体を起こした。
アイザックはこれでもかと目を見開き、ベッドの端で狼狽えている。
「す、すまない。やはり怖かったんだな? 無理強いをするつもりはなかったのに……俺の理性が足りなかった」
「あ、え、えぇと……?」
「それとも、何かリティスが不快になるようなことを仕出かしてしまっただろうか? こういったことに慣れていないから……勉強が足りなかったのかもしれない……」
アイザックは苦悶の表情を浮かべながら、何やら己の行状を顧みているようだった。これも見苦しかったかと、はだけていたシャツのボタンをせかせかと留め直している。
シュミーズを乱したリティスにも、彼は自身のジャケットをかけた。そうして前ボタンをきっちり上まで止めていく。目を逸らし、肌に触れないようにしながら。
甲斐甲斐しく身嗜みを整えられている内に、リティスはようやく気付いた。
視界がぼやけて歪んでいる。
リティスは、いつの間にか泣いていた。
気付いてしまうともうどうしようもなく、涙はあとからあとからこぼれ落ちていく。
「うぅ……すみませ、私、こんな……」
涙腺が壊れたみたいだった。
愛されているような気がして、悲しくなんてなかったはずなのに。
アイザックは、壊れものを扱うような手付きで、そっとリティスの頬を拭う。
「本当に悪かった。リティス、どうか泣き止んでくれ……」
謝罪を繰り返す声音は弱りきっている。
今や甘い雰囲気は吹き飛び、ベッドの上はすっかり愁嘆場の様相だった。
リティスは首を振って、懸命に涙をこらえる。
なぜ、謝るのだろう。
好きにしていいのに。
アイザックだから、何をされても怖くないと思ったのに。
――あれ? 怖い……?
冷静になって考えてみれば、先ほどの質問は奇妙なものだ。
どちらかといえばリティスの方こそ、彼の不安を拭い去りつつ、閨の指南をすべきだったのではないだろうか。
無理強いも何もないのだ。
リティスは、アイザックの閨係なのだから。
――そうだわ……私、閨係なのに……。
思いを遂げることに躍起になっていた。
感傷的になってもいた。
そのせいで、閨係の本来の職務内容を完全に放棄していた。
閨係は、あくまで性的な手解きをするだけ。
経験を積ませるためだけに存在しており、そこに感情は必要ない。だから、既婚者の中でも後腐れのない者が選ばれやすいのだ。
己の失態に気付きはじめたリティスの顔から、どんどんと血の気が引いていく。
経験豊富な閨係が、閨で不安そうに泣いていたら、誰だって困惑するに決まっている。
そもそも思いを打ち明けた時点で失格だ。
――ど、どどどどうしよう……!?
リティスは何とか挽回しようと、今さら笑顔を取り繕った。
「し、心配なさらないでください、アイザック様。これは悲しいからではなく、単に欠伸をしてしまったがゆえの生理的なものなので……あ、と、とは言っても退屈だったわけでは決してなく……」
どう弁解すればこの場を収められるのか。
混乱の極みにあったリティスは、もはや破れかぶれで続けた。
「えぇ、何も問題ありません。私が経験豊富な閨係としてアイザック様にあらゆることを手取り足取り教えて差し上げれば他のどのような相手だってあなたの虜に……」
その時、アイザックが痛そうに表情を歪める。
リティスは反射的に口を噤んだ。
彼はこちらの反応にすぐに気付き、ばつが悪そうに眉尻を下げた。
「すまない。俺の言葉が足りなかったせいだな……」