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第20話 四度目、これでおしまい

 一針一針、心を込めて。

 最近のリティスはバルコニーで庭園を眺めつつ、刺繍やレース編みをして午後のひと時を過ごしていた。季節が移ろいはじめ肌寒くなってきたけれど、昼間は太陽の日差しのおかげでまだまだ温かい。

 手仕事には、以前にも増して力を入れていた。

 コースターやリボン、刺繍の入った手巾。

 これらは、宮で働いていると思われる使用人達に贈るために制作している。

 結局最後まで姿を見ることは叶わなかったけれど、彼らにもとてもお世話になった。

 王宮を出て行く前に何かお礼をしたいと考え、レース編みの贈りものという結論に行きついた。変化もひねりもないけれど、リティスの得意なことといえば、これしか思いつかなかったのだ。

 人数も性別も不明なのでとにかく量産を続け、いつかのように作品がこんもりと山を作っている。けれどそれ自体は前科があるので、誰にも怪しまれていない。スズネにも。

 というより、彼女は不在なのだ。

 あの日、レイゼンブルグ侯爵家から帰ったリティスに、スズネは一時側を離れることになると告げた。

 戸惑ったけれど、そもそも彼女が仕えているのは王家だ。アイザックから別の用事を任されたのだろうと思えば、了承して送り出すしかない。

 それ以降、リティスの世話係は別の者になったのだが、ほぼ顔を合わせたことがない。

 かといって、放置されているというわけではなかった。

 朝起きれば洗面台や着替えが準備されているし、少し喉が渇いたなと思った次の瞬間にはどこからともなく飲みものが出現する。しかも心が読めるのかというほどリティスの気分にぴったりのものを。

 彼女は、極度の人見知りなのだという。

 スズネを介して挨拶をする際には、何と仮面をつけており、リティスもさすがに度肝を抜かれた。

 それが、見せしめのための刑罰道具として使われる『お喋り女の仮面』だったからだ。

 恥ずかしいにしても、なぜその仮面を愛用しているのか。ここに来て強烈な個性の使用人が登場してしまった。

 とはいえ、わざわざ無理をする必要はないので、リティスはこの距離感で構わないと思っている。何だか妖精を相手にしているようで微笑ましくもあるし。

 スズネの不在は寂しいけれど、だからといって彼女の代わりはいないのだ。せめて、王宮に滞在している間に戻ってきてくれればいいのだが。

 頬を撫でる風に、リティスは顔を上げる。

 思い返してみても、住み心地のいい宮だった。

 人に傅かれる生活には慣れていないから、使用人がたくさんいれば委縮してしまっていたかもしれない。にもかかわらず、ただのんびり穏やかに過ごすことができた。

 それは、クルシュナー男爵家でも、ましてや生家のレイゼンブルグ侯爵家でも得られなかった感覚だった。

 いつでも何かに急き立てられるように、必死で生きていた。

 役立たずだと罵られ続けてきたから、何かをしていないと不安で仕方がなかったのだ。

 誰かの役に立てないと捨てられる。

 そんな強迫観念じみた思いに、リティスは囚われ続けていた。

 けれどここでは、誰も何も強要しない。

 紅茶を飲んで、レース編みをして。庭園を散歩して、読書をして。スズネと恋愛小説の感想を言い合う時間は、とても楽しかった。

 リティスはただ、ここにいるだけでよかった。

 そもそも人が存在することに、理由などいらなかったのだ。

 ――それに何より、この宮にいれば、アイザック様に会えた……。

 何て幸せなことだっただろう。

 色鮮やかで目まぐるしく、愛おしい日々。

 こんな気持ちを抱けただけで、もう十分だった。

 リティスは美しい景色を目に焼き付けると、再び棒針を動かしはじめた。



 夜のとばりが落ち、軽やかな鈴の音がアイザックの来訪を告げる。

 今回、どのように彼の興奮を煽ればいいのか、かなり悩んだ。

 今は相談相手のスズネがいない。彼女には、恋愛小説は参考にしない方がいいと断じられている。

 どうすればいいのか分からないが、今晩が最後の機会だと考えた方がいいだろう。

 作戦などほとんどないようなもので、リティスは代わり映えのしない夜着をまとっていつもの部屋へと向かった。

 これまで、ことごとく失敗してきた。

 けれど今日だけは失敗は許されない。

 リティスは決死の覚悟でアイザックと向き合った。

「今日は大切な話があってきたのだが……リティス? どうかしたか?」

 何かいつもと違う気迫を感じ取っているのか、彼は不思議そうに首を傾げている。

 今夜のアイザックも、本当に格好いい。

 触れれば切れそうなほど危うげに輝く銀髪、薄暗がりに冴え渡る青い瞳。

 目鼻立ちは完璧に神の配剤で、彼の瞳に自分が映っているだけで申し訳なくなるほど。

 すらりとした長身だが、細身に見えてかなりたくましいことも、抱き締める腕の強さも知っている。その熱さも。

 もう一度あの心地よさを味わいたくて、リティスは大胆に一歩進み出た。

「アイザック様……」

 腰紐を緩めると、夜着が肩からはらりとすべり落ちる。

「リッ……リティス⁉」

 アイザックが、困惑と驚きが入り混じった声で叫んだ。

 夜着の下には、キャミソール型のシュミーズ一枚をまとっているだけ。

 リティスの肩が震える。

 それは肌寒さからか、心許ない姿でアイザックの前に立っているからか。

 さらに足を踏み出すと、彼は飛ぶように後ずさった。

 夜着を脱ぐのは間違っていたのだろうか。最終的にはどの恋愛小説も、生まれたままの姿になっていたのに。

 ――スズネが言っていた通りね……。

 やはり恋愛小説の描写はあてにならない。

 それとも、リティスの体に魅力がないせいだろうか。

 最低限の食事しかとれなかったせいで、お世辞にも魅惑的な肉体とは言えない。鎖骨が浮き出て、痩せっぽちで、胸の谷間も頼りない。

 アイザックは全力で顔を背け、目すら合わせてくれなかった。

 けれど、落ち込んでいる暇はない。

 とにかくアイザックを興奮させて、閨を共にしなければ。

「アイザック様」

「いや、そ、そうだ。お前に大切な話があると言っただろう。一体何だったか……ほら、冷静になれば思い出すはずだ。ここはいったん落ち着こう」

「こちらを……私を見て」

「そうだ。スズネのことを話さねばならなかったな。それに、クルシュナー男爵の近況なんかも知りたくないか? 何度か顔を合わせる内に親しくなって、トマスの奥方や三人の子ども達についてもよく聞いている。長女のルシエラ嬢が八歳で、読書が趣味でやや内向的なのが心配だとか……」

「アイザック様――お慕いしております」

 思いを告げた瞬間、焦ったように早口でまくし立てていたアイザックが動きを止める。

 全ての時が止まったような気がした。

 痛いほどの静寂の中、虫達さえ息を殺している。

 動いているのは早鐘を打つ心臓だけ。

 リティスはシュミーズの胸元を、ぎゅっと握り締めた。

「……好き。大好きなんです。私、もうずっと前から、あなたが好き。アイザック様のことを思い浮かべると幸せで、あなただけが私の特別なんです」

 アイザックと出会えたから、どれほど辛い目に遭っても歩き続けることができた。

 誰にも必要とされないなら生きていても仕方ないと思っていたけれど、彼が存在する世界なら意味を見出すことができた。

 そんな言葉を伝えたら、さすがに重いだろうか。

 黙り込んで俯くアイザックの胸元に、そっと手を添えてみる。

 彼の体はかすかに震えていた。

 熱い。それに鼓動も、リティスと同じくらいに早かった。

「アイザック様、好き……大好き……」

 それしか言葉を知らないみたいに繰り返す。

 突然、アイザックが動いた。

 彼に触れていた手を乱暴に掴まれる。

 手首をすっぽりと覆う手の強さは、もはや痛いくらいだった。

「何とか理性を繋ぎとめようとしていたのに……」

 荒い息を吐き出す彼は、獣のように目をぎらつかせていた。

 暗闇に灯る青い眼光の鋭さは、まるで夜行性の肉食獣のようだ。喉笛を噛み千切って、今にも獲物を食べ尽くそうとしている。

 それでも不思議と恐ろしさを感じないのは、彼の震える手が、懸命に力を抜こうとしているのが伝わってくるからだろうか。

 アイザックは必死に逃がそうとしている。

 目の前にぶら下がる獲物を、リティスを思い遣って。

 こんな状況なのに笑ってしまった。

 優しくなんて――加減なんて、しなくていい。

 アイザックに全てを捧げたい。

 この思いに殉じたい。

 リティスは掴まれていない方の手で、彼の頬に触れた。

「ぜんぶ……たべて、ください」


 ……二人は、もつれ合うようにベッドに倒れ込んだ。


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