父ボルツとリティスの実母は、完全なる政略結婚だった。
ボルツに結婚前から愛人がいたことを知ったのは、八歳の時、母が死んだ直後のこと。既に子どもが二人いたことも同時に知った。
その後愛人は侯爵家の後妻に収まり、思う存分権力をふるった。
……そこから王家主催のお茶会へ出かけるようになるまで、リティスはほとんど人として暮らしていない。
父もリティスには興味がないのか、一度として庇ってくれなかった。
いないものとして扱われている横で、幸せそうに暮らす家族。
義弟にも義妹にも罪はない。
分かっていても、幼心に辛かった。
両親に愛されて育った、美しいユリア。
無邪気で天真爛漫で、周囲の者も虜にならずにいられない。
そうして誰からも愛されてきたから、自分が望めば手に入らないものはないと、当然のように思っているのかもしれない。
「お義姉様、閨係としてアイザック様のところにいらっしゃるのでしょう? お父様から聞いたの。それは全て、私のためなのだと」
「……え?」
出会い頭にそう切り出され、リティスは凍り付いた。
幸せそうに微笑むユリアの言葉が、うまく噛み砕けない。
彼女は何を言っているのだろう。
リティスが呆然としている間に、周囲の使用人達が口々に騒ぎ出す。
「ユリアお嬢様。あの者とみだりに話されてはならないと、奥方様から言い聞かされているでしょう?」
「またお叱りを受けてしまいますよ」
「ほら、大食堂に行きましょう。今日は、シェフがユリアお嬢様のため腕によりをかけて作った、シフォンケーキが用意されているそうです」
ユリアは頬に指を添えて少し考えると、名案とばかりに琥珀色の瞳を輝かせた。
「そうだわ! それなら、リティスお義姉様も一緒にシフォンケーキを食べましょう! お母様には内緒で、ね!」
誰にでも分け隔てなく、可憐で、心優しい。
使用人達も、ユリアには敵わないと言いたげに、困ったように微笑んでいる。
おそらく義母も彼女を許すのだろう。そうして、怒りの矛先をリティスに向けるのだ。
ユリアはこちらに歩み寄ると、何の躊躇いもなくリティスの手を握った。
「ね、お義姉様! 久しぶりに我が家へ帰ってきたんですもの、せっかくだしヴォルフも呼びましょう! きっととっても楽しいわ!」
ヴォルフというのは義弟の名だ。
彼は今年で十一歳になっているはずだが、果たしてリティスについてどのように聞かされているのか。義母から
リティスは失礼にならない程度にやんわりと義妹の手を外し、小さく首を振った。
「あの……ユリア。気持ちはとても嬉しいのだけれど、今日はお父様に呼び出されているの。残念だけれどケーキはまた今度の機会にして、今は先ほどのあなたの言葉について、詳しく聞きたいわ」
ユリアが閨係のことを知っているとは思わなかったし、それを話したのが父だというのも寝耳に水だ。
そして、リティスがユリアのために閨係をしているというのは、どういうことなのか。
彼女は不思議そうに目を瞬かせ、首を傾げた。
「あら、お義姉様は聞いていないの? アイザック様と結婚するのが私だからよ!」
「……………………え?」
やっぱり理解できなくて、間抜けな声が漏れる。
再び呆然とするリティスを置き去りに、ユリアはうっとりとした眼差しであらぬ方向を見上げた。
「アイザック様って、本当に素敵な方よね。きらきらした銀色の髪に、海のように澄んだ青色の瞳……お友達もみんな格好いいって言っているわ。あんな方と結婚なんて、何だか他の子達に申し訳なくて……」
夢見るような瞳でありつつ、結婚への不安を覗かせるユリア。結婚前の繊細な乙女心というものだろう。――アイザックと結婚するというのが妄想でなければ。
「えぇと……殿下との結婚……というか、婚約は……もう内定しているの?」
「それはまだだけど、お父様がそう言っていたのだから間違いないわ!」
ユリアは清々しいほど真っ直ぐな笑顔で、思わずリティスも空笑いを返してしまった。
「結婚式には、絶対にお義姉様も招待するわ! 大切な家族だもの!」
実に無邪気で、アイザックと結婚する未来を疑いもしていない。
ユリアはとても幸せそうだった。それに、ずっといないもののように扱われてきた義姉を、当たり前のように家族の括りに入れている。
やはり、悪い子ではないのだと思う。
ただ、絶対的に周りが見えていない。
致命的に世間を知らない。
これまでは失敗しても、『仕方のない子だ』と、そうして許されてきたのだろう。
リティスは、一度レイゼンブルグ家を出たことで、家族を客観的に見ることができるようになっていた。
――この子がレイゼンブルグ家を出たら……たいへんなことになるんじゃ……。
何だかくらくらしてきた。
ユリアには、社会性というものが身についていない気がする。
王族どころか、どこの貴族家に嫁ぐにしても混乱を招く予感がした。
アイザックとの結婚という点に衝撃を受けるより、義妹の今後への心配が先に立つ。
リティスはつい身を乗り出していた。
「ユリア、あのね……」
「――それ以上、私の娘に近寄るな」
厳しい声音に打たれ、全身が強ばる。
温度のない命令。
無機質な低い声は、リティスの気持ちをあっという間に萎ませてしまう。
『あなたにとって、私は娘ではないのか』。
そんな質問さえ無意味に思えて、心まで凍えていく。
「遅い。あまり私を煩わせるな」
「たいへん申し訳ございませんでした……お父様」
リティスがゆっくりと振り返った先には、壮年の男性が立っている。
レイゼンブルグ侯爵。リティスの実父でもある、ボルツ・レイゼンブルグ。
上質なジャケットをまとった、貴族然とした佇まい。
苛立った時に綺麗に整えられた口髭を撫でるのが癖で、それを目にする度リティスは怯えて縮こまっていた。怒りが過ぎると、彼が愛用しているステッキで、強かに打たれることもあったから。
せっかくの覚悟も、アイザックからもらった勇気も、ボルツを前にすると駄目だった。
怖くて、こわくて。
幼いリティスが、恐怖に震えている。
「お父様ったら。今は私がお義姉様とお話をしているのに……」
「お前は部屋に戻っていなさい。我々はこれから、大事な話をしなければならないのだ」
「……じゃあ、食堂に行っています。お父様の分のシフォンケーキ、残しておいてあげませんからね」
「意地悪を言わないでおくれ。あとで必ず行くから、話の続きもその時にしよう」
「お父様こそ意地悪。私はお父様ではなく、お義姉様とお話したいんです」
それでも、ユリアもさすがに家長には素直に従うようで、ボルツに食い下がることはなかった。
彼らの会話が、どこか遠く聞こえる。
いつも家族の輪から弾かれた時に存在していた、疎外感。リティスの周囲にだけ、透明な薄い膜が張っているような。
ユリアは最後に、リティスを振り返った。
「お義姉様、またぜひ遊びにいらしてくださいね! 約束ですよ!」
明るい彼女が使用人達と去っていけば、その場には重い静けさが立ち込める。
ボルツはリティスに声をかけることもなく歩き出す。
リティスもただそれに従った。
父は適当な小部屋に入ると、おもむろに用件だけを切り出した。
「――第二王子殿下とユリアを婚約させる。お前も協力しなさい」
ユリアの発言から、内容はある程度は察していた。
ボルツは義妹に相応しい相手として、アイザックを選んだ。
そこで、彼の閨係を務めているリティスを、二人の仲を取り持つよう呼び出したのだ。
ボルツはもしかしたら、クルシュナー男爵家に嫁いだあとのリティスの動向も、把握していたのかもしれない。そうでなければ、第二王子の閨係が誰なのかといった詳細を知り得るはずがない。
勝手な行動をしないよう、使用人に監視させていたのだろうか。レイゼンブルグ家の不利益となる事態を避けるために。
――そんな理由で、わざわざ私を気にかける? 何だかしっくり来ないわ……。
けれど違和感は、ボルツが振り向いたことで掻き消される。
鋭い眼光を向けられただけで、リティスは委縮してしまった。
「お前のようなつまらない人間が、可愛い義妹の――ひいてはレイゼンブルグ家の役に立つ時が来たのだ。拒むことは許されないぞ」
名前すら呼ばれない。
それでもリティスは頷いた。
ずっと虐げられてきて、父の命令に背いたことは一度もなかった。
逆らうことなど考えられない。
「はい……お父様」
いつも周囲から愛されてきたユリア。
冴えないリティスと違って、誰だって彼女を求めるに決まっている。アイザックだって彼女を一目見た途端に惹かれるだろう。
所詮、リティスはただの閨係。
何度も自分に言い聞かせてきたではないか。
はじめから、彼と結ばれることはないのだと――……。
ごとごと、ごとごと。
抜け殻のようなリティスを乗せた馬車が、王宮に向かって動き出す。
もう、涙すら出なかった。
それでも、最後に望むことがあるとすれば。
――アイザック様と……今度こそ。
アイザックとの甘い一夜を実現する。
最後に思いを遂げてみせる。
リティスは強く強く、覚悟を定めた。