――それにしても、あの日のリティスは本当に愛らしかったな……。
アイザックは、彼女を初めて抱き締めた記念日を反芻する。
腕にすっぽり包まれてしまうくらい小さくて、柔らかくて、温かくて。
頬を掠るリティスの栗色の髪はふわふわしていた。肌からは、彼女によく似合う瑞々しい花の香りがした。
はじめは強ばらせていた全身から次第に緊張が解け、子猫のように身を預けられた時には――危うく力の加減も自制心も吹き飛びそうになった。
鼻息が荒くなっていなかっただろうかと今さら不安になる。
――なぜ、なぜあんなに可愛いんだ……奇跡か? 神はもう少し均衡や平等というものを意識した方がいいのではないか? 可愛いが偏りすぎているだろう……。
「――アイザック、そろそろ妄想は終わったか?」
密談用の個室には、裏付け捜査に関わる者達が少しずつ集まりはじめていた。
無粋にも、反芻を邪魔したのはルードルフだった。
兄はやれやれと呆れた様子で首を振っている。
「初恋をこじらせた青少年はこれだから困る。抱擁くらいのことで、一体何度妄想をすれば気が済むのだ?」
「さぁ、もはや何度目か数えるのも億劫ですが、一向に飽きることはありませんね」
兄の口振りから、リティスとのやり取りをこっそり覗き見るため、実はあの場に留まっていたことが分かる。本当に無粋だ。
そこに、つい今しがた到着したトマスまで加わった。
「あぁ。やはりアイザック殿下は、長年彼女を思っておられたのですね」
トマスは、我がことのように喜色を露わにしている。
「王太子殿下とは異なり、アイザック殿下の婚約者が選定されることは一度としてございませんでした。幼少期によく会っていたというリティスの話を聞き、もしや……と、ずっと思っていたのですよ」
「そこで、様々な煩わしい噂に惑わされないのはさすがだな。ありのままの事実を素直に受け入れる者があまりに少なく、最近は辟易としていた」
アイザックが婚約者を作らないのは男色だからなのではとか、実はルードルフの妻を密かに思っているのではとか、勝手な想像をまことしやかに噂する者がいるから、美しい息子や娘を紹介する貴族があとを絶たないのだ。
「あと少しの辛抱――となれば幸いですね」
「そのために、こうして集まっているとも言えるな」
トマスに続き、ルードルフもいたずらっぽく笑う。
兄は上品で優雅な貴公子と思われがちだが、中身はアイザックと似たり寄ったりだ。
大切なものを傷付ける相手には容赦しない。完璧に排除するまでは、にこやかに笑っていることもできる。
アイザックは愛する者のため。ルードルフは国のため。
リティスの家族の不正を暴こうとしているのに彼女のためというのは、矛盾と受け取られてもおかしくない。
だが、彼女を顧みることなく虐げてきた者達を、どうしたら許すことなどできよう。
個人的にも、父であるボルツ・レイゼンブルグに対して恨みがあった。突然の政略結婚でリティスと引き離されたせいで、ここまで遠回りをする羽目になったのだ。
隠密行動を得意とする特殊部隊・諜報部の面々も続々と姿を現し、アイザックは表情を引き締めた。
ここからは真面目な話になる。
「――はじめましょうか、兄上」
「あぁ。それぞれ報告を」
ルードルフも、先ほどまでの和やかな空気を一変させた。
覇気に満ちた声に打たれるように、トマスや諜報部の者達が膝下に屈する。
「では、私から。クルシュナー家が主体となって進めておりました、取引で扱われていた物品についての調査結果です」
クルシュナー家の先代男爵に仕えた元執事が所持していたという裏帳簿には、取引相手も商品も不記載の怪しい金の動きがあった。
これの調査についてはトマスに一任していた。
「まず、使用人から聞き取りを行いましたが、現在屋敷で働いている者でこの取引に関わっていた者は一人もおりませんでした」
先代男爵の時代、特に可愛がられていた者達は、既に亡くなっているか辞めているかのどちらかだという。
「辞めていった者の足取りを調査し、何名かから話を聞くことができました」
ある者は、例の元執事の下で働いていた従僕だった。
壮年期に差しかかった元従僕は何も知らないと、さも無関係であるかのように語った。
だが、トマスが少し調べれば、相手の人生を赤子の頃までさかのぼることができる。どのような場所で生まれ、家族構成はどうか。
幼少期に友人が大切にしていた短剣を盗んだこと。地元の商会で同僚の手柄を奪ったこと。賭博にのめり込んで散財した額、そして現在の窮状ぶり――……。
あくまで淡々と事実確認をするトマスに、相手の顔はみるみる蒼白になっていった。
そうして最後に、『新たな働き口を紹介する』と甘い誘惑をちらつかせれば、元従僕はあっさり屈した。
「余談ではありますが、当然紹介先は良好な労働環境ではありません」
「えげつないな……」
トマスはほんの僅かに笑みを見せ、すぐに話の軌道を修正した。
「元従僕は、取引自体には関わっておりませんでした。ただ、元執事が屋敷を抜け出す時などに、口止め料として――乾燥大麻をもらっていたと」
「乾燥大麻……」
室内が水を打ったように静まり返る。
そんな中、トマスの声が密やかに続けた。
「男爵家が所有する商会内では、収まりきらない額面の取引。となると、かなり高額の物品である可能性が高いでしょう。大麻は、医療用以外での用途を固く禁じられている分、闇の流通経路では高額で取引されている……」
大麻は、痛覚を麻痺させる作用があるため、医療用の麻酔として使われている。
けれど裏腹に依存性が強く、大量摂取によるショック死が深刻な問題となっており、ルードベルグ王国では医療用大麻の個人輸入が法で禁じられているのだ。
医療用大麻に関する国ごとでの政策の違いも、問題となっている。
隣国では輸入が当たり前に行われているし、大麻を栽培し輸出することで経済の根幹を担っているという国もある。
ルードルフが苛立たしげに髪を掻き上げた。
「もし取引していたのが大麻だとすると、実に厄介だな。所持しているところを押さえても、少量ならば公的に輸入されたものだとしらを切られて終わりだ。私的に大量輸入をしているという裏付けでも取れない限り、罪に問うことは難しい」
レイゼンブルグ侯爵が大麻を医療目的以外で使用していたなら、話は簡単だった。
だが、彼には何度か会ったことがある。
大麻を常習していると、焚いた際の特有の匂いが体や衣類に沁みついてしまうらしい。鼻を強く刺激する匂いの中に、独特の甘ったるさが混じるという。
他にも空咳や目の充血といった症状が表れるというが、侯爵からはそのどれも見受けられなかった。
アイザックは顎に指を添えて考え込む。
「大量輸入……といっても、レイゼンブルグ侯爵家の領地は王都に隣接しており、どこの国と交易をするにも微妙な位置です」
「クルシュナー男爵家ならば領地を持たないが、素晴らしい交易網があるだろう。それを利用して輸入しているのではないか?」
ルードルフがトマスに視線を向けるも、彼は首を振った。
「交易に関しては、各支店にて委細全てを帳簿や日誌に残しております。それらを取り寄せ洗いざらい確認しましたが、当時の取引に不自然な点はありませんでした」
つまり、仕入れも売買も商会を通していなかったということになる。
アイザックは深く椅子に座り直し、頭の中で情報を整理する。
状況証拠だけならいくらでも出てくるのに、なかなか尻尾を掴ませない。頭の回る小賢しい男だった。
――侯爵は老男爵を隠れ蓑にしていた。それは間違いないというのに……。
レイゼンブルグ侯爵は、クルシュナー男爵家との繋がりを強固なものにするため、娘を売った。後ろ暗い取引のために、リティスを犠牲にしたのだ。
燃え立つような怒りが込み上げてくると、頭の隅々まで情報が行き渡っていく。アイザックは逆らわず、あらゆる扉が開かれていく感覚に身を任せた。
医療用大麻、交易の難しい立地条件。何か、法の目を掻い潜る方法が――……。
突如、ひらめくように答えが降って湧いた。
「だとすれば……可能性は一つ」
呟くと、室内にいた全員から視線が集まる。
アイザックは自身の推察を披露した。憶測の域を出ないけれど、理論的に考えた中で今最も可能性のある犯行。
ルードルフは、しばらく内容を吟味した上で首肯した。
「――その線で調べを進めていこう。諜報部は半数ほどを、レイゼンブルグ侯爵領へ」
臣下の礼をとると、諜報部の面々が一斉に消えていく。まるで最初から話し合いに参加していなかったかのように、気配すら残さず。
彼らを見送ると、ルードルフはアイザックに向け不敵な笑みを浮かべた。
「さすがの慧眼だな、アイザック。これも愛の力というやつか?」
「どうとでも解釈してください」
澄まし顔で答えると、一気に和やかな雰囲気が広がった。