レイゼンブルグ侯爵家へ戻るようと、ただ一言だけ素っ気なく書かれた手紙。
父であるボルツ・レイゼンブルグからの命令を、リティスは従順に実行しなければならない。疑問を持たず、何も考えず。
最近多忙を極めているアイザックには、スズネを通して外出の許可をもらった。
本当は、一度彼に会ってから侯爵邸に向かいたかった。
何が待ち受けているのか分からず不安で、心細い。
けれどそれではいけないと、リティスは自身に言い聞かせる。
幸せに慣れすぎてしまっていた。こんなことではレイゼンブルグ侯爵邸で辛い目に遭った時、きっと耐えられない。
心に冷たく、固い鎧をまとうのだ。
昔からそうしてきたように、全ての感情を排して。
そんなリティスを見られたくないという理由で、供を申し出てくれたスズネを拒んだ。
彼女は食い下がったが、最終的にはこちらの思いを汲んでくれた。
そもそもリティスもスズネも王宮で雇われている者同士、勝手に連れ歩いていいわけがない。それに、レイゼンブルグ侯爵家から寄越されるだろう馬車には、使用人が控えているはずだ。リティスの身の回りの世話を心配する必要はなかった。
王都にあるレイゼンブルグ侯爵家の邸宅に向かう当日。
想定通り、家紋の入った馬車がやって来た。
そしてこれもまた想定通り、侯爵家の使用人はリティスに挨拶することも、目を合わせることもない。あまりに代わり映えのしない光景に笑いが込み上げてきた。
レイゼンブルグ侯爵家において、リティスは存在しないものなのだ。
――それなのに、呼び出しなんて……。
嫌な予感がする。
胸騒ぎが治まらない。レイゼンブルグ侯爵家は、いつだってリティスの絶望の象徴だったから。
王宮を出た馬車はすぐに、貴族が多く暮らす街へと入る。
富裕層のみが暮らしているため、整然とした瀟洒な街だ。警ら隊の巡回も定期的に行われており治安がいい。その代わり、一般庶民の立ち入りを固く拒んでいるような、独特の威圧感が街全体を覆っていた。
外出などほとんど許されていなかったけれど、リティスはこの街が苦手だった。住まうに相応しくないと、いつもどこかで爪弾きにされているように感じていた。
誰も乗っていないみたいに静まり返っていた馬車が、その中でも一際豪奢な邸宅を目指して進んでいく。
華やかで、完璧で、冷たい場所。
それがリティスの生家、レイゼンブルグ侯爵邸だった。
敷地の裏口で停まった馬車を降り、使用人や搬入業者用の入場門に向かう。
そうだった。すっかり忘れていたが、リティスは正門からの出入りを禁じられていた。今となっては懐かしさすら覚える待遇だ。
周囲には勤務中の使用人が多くいるのに、歓迎どころか話しかけられることもない。
空気のように誰の気にも留められず、邸宅の中を一人歩いた。
父がいるのは邸宅の大広間だろう。
書斎や談話室といった、家族の私的な空間への立ち入りもまた、許されていないのだ。
――――――
実母が亡くなる八歳の頃までは普通に暮らしていたが、後妻がレイゼンブルグ侯爵夫人に収まってから、リティスの生活はガラリと変わった。
まず、大半の時間を屋根裏部屋で過ごした。
専属の使用人などもいなくなったから、ひどい生活だった。
着替えがないため一日中夜着のままだし、手入れの行き届かない髪もぼさぼさ。清潔な布で体を拭うこともできず、常に垢まみれ。
毎日与えられるのは、一個きりの固いパンと水だけ。空腹で泣きながら厨房に行っても誰も相手にしてくれなかった。
家庭教師も解任されたので、字の読み書きも完璧には身についていなかった。
そうかと思えば、王子の側近や婚約者を決めるお茶会への出席が必須になったからとマナー講師が雇われ、厳しい指導を受けた。
最低限の教養すらないリティスに、マナー講師は常に侮辱の言葉を投げつけた。時には腕や足の目立たない箇所を鞭で打たれた。
それでも、そのマナー講師には感謝している。
人としてあるべき姿を学ぶことができたし、外見を整える大切さも身をもって知れた。
両親や使用人を頼るのではなく、全て自分で何とかしなければならないのだと。
そうして十歳になる頃には、貴族令嬢らしくとはいかないまでも、他家の者から違和感を抱かれないような振る舞いを身につけることができていた。
おかげでアイザックと出会えたのだから、そう悪いことばかりではなかったのだろう。
――――――
冷たい心と切り離すようにして、彼の姿を思い浮かべてみる。
光のように目映い、リティスの人生の救い。幸いの全て。
閨係になるまでは、幼い頃の彼を擦り切れるほど思い返していた。
だが、リティスの目蓋の裏に浮かぶのは、不思議と今のアイザックばかりだった。
大人びた笑顔、大きな手の平。
抱き締められた時は、胸の広さやたくましさに驚いた。
ぎこちない触れ方は思い遣りに満ちていて、やはり彼らしいと安心できたけれど。
そう。アイザックは出会った頃からいつだってリティスを重んじ、尊重してくれた。
当たり前のように、当たり前でない温かさを与えてくれた。
胸が温かくなるにつれ、必ずしも昔のままでいる必要はないように思えてくる。
味方がいなかったから、ここにいる時は常に心を閉じていた。何も感じないことで、リティスは自身を守ってきた。
今はアイザックという存在が支えてくれる。
この場にはいなくても、心を強くしてくれる。
――もしかしたら、家族とも新しい気持ちで向き合えるかもしれない……。
リティスはふと立ち止まり、窓の外に視線を移した。
目の前に広がっているのは、完璧な美しさを誇る庭園。
冷たく近寄りがたいと思っていたけれど、一つ一つの花にこちらを攻撃する意思などない。ただ与えられた場所で、懸命に咲いているだけ。
見方を変えれば、考え方も変わる。
成長したリティスにとって、ここは恐ろしいだけの場所じゃないはずだ。
ずっと俯いていた顔を上げ、再び歩き出す。
その時、廊下の向こうの曲がり角から、見知った人影が現れた。
たくさんの使用人達に囲まれ、無邪気に笑う少女。
彼女の方もこちらに気付き、きょとんと目を瞬かせた。
「――お義姉様?」
金糸のように輝く髪と、柔らかな琥珀色の瞳。
細い手足と華奢な肩、彼女のためにあつらえられた可憐なドレス。
レイゼンブルグ侯爵家の妖精とも称えられる麗しい少女。
三歳違いの義妹、ユリア・レイゼンブルグ。
彼女は、リティスがクルシュナー男爵家に嫁いだ三年間ですっかり女性らしく、より魅力的になっていた。
◇ ◆ ◇
リティスがレイゼンブルグ侯爵に呼び出されたと知った時、アイザックは冷静でいられなかった。
危険があるかもしれない。いたずらに傷付けられるかもしれない。
絶対に外出を許可できないと宣言しかけたところで、兄のルードルフに諫められた。
今は、レイゼンブルグ侯爵が不正に関わっている可能性を調査しているところ。
侯爵にこちらの動向を勘付かれては困るので、所在が分かる状況はむしろ動きやすい。その間に調査を進めるべきだと。
この件に関しては、トマス・クルシュナーだけでなくルードルフとも連携をとっているのが現状。国内を揺るがす案件となる懸念も拭えないので、慎重と万全を期すべきだ。兄の意見は正しい。
冷静に考えれば分かるのに、リティスが絡むとすぐ頭に血が上ってしまう。まるで彼女を囮にしているようだという不満すら湧いてしまう。
そんなに心配なら護衛をつければいいだろうと妥協点を提案されたが、既に彼女はスズネが供をすることを断っている。
頑なな拒否がまたアイザックの心配に拍車をかけるものの、ここで権力を発動して強引に押し切れば、リティスが不快に感じるかもしれない。
せっかく順調に愛を育んでいるのに、ここで全てをふいにするような真似はできない。……スズネには陰ながらついて行ってもらっているが。