「アイザック様……?」
密やかな声で問うと、人影が動く。
近付いたことでその正体が鮮明になる。
アイザックだ。急いで駆けつけたのか、肩で息をしている。
まだ明るい時間帯に彼と会うのは、本当に久しぶりのこと。
夕陽に照らされて燃えるように輝く銀髪。その中にあってさえ、鮮やかさを失わない青い瞳。うっすらとにじんだ汗まで明瞭に映って、いつもと異なる雰囲気に図らずもドキドキする。
「リティス……無事だったか……」
ホッとした笑みを浮かべる彼に、リティスは慌てて歩み寄った。
「アイザック様まで、なぜこちらに? それにそのおっしゃりようは、陛下方に失礼では……」
死地から無事生還した友を出迎えるような安堵ぶりではないか……とまで言うとこちらも無礼者になってしまうので、語尾が曖昧に濁る。
けれどアイザックはそれに答えず、やや性急な仕草でリティスの腕をとった。
そのまま両肩を掴まれ、彼と真正面から向き合う格好となる。澄んだ青い瞳に、間近から覗き込まれた。
「お前が傷付いていないか心配だったんだ。不快な思いをさせられてはいないか? 強引に言質をとろうとしたり、怪しい誓約書にサインをさせられたりなどは……」
だから、言い方。
実の親に対して何て言い草だ。
それでも心配してくれる気持ちが嬉しくて、リティスは頬をゆるめながら首を振った。
「お二方共、それはもう優しかったです。とても素敵なご両親ですね」
「リティス……」
アイザックは目を丸めた。
それから照れくさそうに、どこか嬉しそうに瞳を細める。
彼の眦はほんの少しだけ赤くなっていた。
「それなら、よかった……そうか……」
ぶっきらぼうな態度で目を逸らしたアイザックが、なぜか硬直する。
リティスは彼の視線をたどりながら振り返った。
そこに立っているのは、輝く笑みで見物を決め込むルードルフ。
何というか、アイザックの心境が分かって居たたまれない。兄だからこそ見られたくなかったのだろう。
かくいうリティスも、彼の身内の前で親しげな呼び方をしてしまったことが居たたまれないし。
アイザックは、非難の籠もった低い声音を発した。
「兄上……」
「あぁ、私のことは構わないでくれ。棒か何かだと思ってくれればいい」
「例えるにしても棒って何ですか。こんなにも邪魔くさいところに棒が立っていたら問答無用で切り倒しますし、そもそも腹立たしいほど存在感があって無視なんてできません」
「ひどいな。ならば、ここは熊の置物あたりで……」
「目障りです。今すぐ消えてください」
リティスが青ざめて絶句するほど、ルードルフが雑にあしらわれている。
見てはいけないものを見てしまった気がする。これは王家が徹底的に守り通してきた、重大な秘密とかだったかもしれない。
けれどリティスはふと、少年の頃のアイザックを思い出した。家族について無邪気に語る姿を。
彼が語る家族像は、いつも眩しく輝いているようだった。
愛情と思い遣りに満ちた、幸せな家族。
――これまでは、想像することしかできなかったけれど……。
リティスは今、その一端に触れられたのだ。
心配性な父と、おっとりしているけれど何ごとにも動じない母。そして、世話焼きな兄。本当に、見ているだけで幸せになってくるような家族。
微笑ましい兄弟のやり取りを眺めていると、ルードルフがリティスを振り返った。
「では、邪魔者はこの辺りで退散しよう。クルシュナー夫人、今度はもっとゆっくり話がしたいものだね。特に弟とどのような会話をしているのかを、ぜひ……」
「兄上はリティスにこれ以上近付かないでください。話しかけるのも、目を合わせるのも笑いかけるのも禁止です」
「嫉妬はみっともないぞ、弟よ」
「黙れ」
ルードルフが言葉通りに退場すると、嵐が去ったあとのような静けさが戻ってきた。互いにしばらく黙り込んだまま、どちらが先に口を開くのかを推し量る。
リティスは思いきって顔を上げた。
「あの、アイザック様」
気持ちを奮い立たせて差し出したのは、白い手巾。
銀色の鷲の刺繍を施したものだ。その鋭い瞳の色は、アイザックと同じ青。
日頃の感謝を伝えるため、レース編みのコースターをスズネに贈ったことがある。受け取ってもらう際、アイザックにも何か贈りたいからという方便を使った。
あの時はあくまで方便のつもりだった。
けれど思いの外、彼女が喜んでくれたから、本当に作ってみてもいいかもしれないと思ったのだ。
大鷲に太陽は、王家が公式に使う印章。
王家にのみ許されるそれを使うわけにはいかないので、モチーフを鷲のまま、アイザックが持つ色味で表現してみたのだ。
完成したのはずいぶん前のことだが、作った途端にしり込みしてしまい、なかなか渡すことができずにいた。
けれど、今なら。
愛情深いアイザックの家族に会い、彼らに同じような優しさを向けられた今なら、何の価値もないと思っていた自分自身を肯定できる。
好きな人に思いを込めた贈りものをする。
そんな、恋愛小説の中では当たり前に行われていることが、リティスにも許されるような気がした。
指先は僅かに震えている。
閨係の分際でと、自分を卑下する気持ちもまだ残っている。
それでも心が動いたから、今しかないと思った。
アイザックがリティスを心配して駆けつけてくれた。それだけで、どうにかなってしまいそうなほど嬉しかったから。
こんなにもリティスを突き動かすことができるのは、アイザックただ一人。
そんな彼に、ほんの一欠片でも思いを伝えたかった。
「アイザック様を思って、刺繍いたしました。レース編みなどの細やかな作業は得意なんです。素人が作ったものを王族にお渡しするなど、不敬と承知しております。ですが、受け取ってくださると嬉しい……です」
ドキドキと、心臓が凄まじい速さで鼓動している。
参考文献代わりに散々読んできた恋愛小説のヒロイン達を、心から尊敬する。
みんな、こんなにも強かったのか。
こんなにも心許なく、逃げ出したい気持ちと戦って、ヒーローの前に立っていたのか。
「……ずっと、後悔しておりました。先代男爵との結婚が決まった時、私はあなたにひどい言葉をぶつけた。それなのにあなたは、こうして機会をくださいました。今も誠実に向き合ってくださる」
彼は、過去をなかったことにするのではなく、新たな関係を築く道を提示してくれた。
リティスにとって、それがどれだけ得難いことか……言い表すことなど到底できない。
だから、謝罪ではなく感謝を。
涙は見せず、できる限りの笑顔で。
「アイザック様――ありがとうございます」
リティスは久しぶりに、心から笑っていた。
それを見たアイザックの反応は顕著だった。
これでもかと目を見開き、顔中が夕日に負けないくらい赤く染まっている。青い瞳も潤んで揺れ、透き通った湖面のようだ。
一欠片でも伝わったのだろうか。
リティスの熱く狂おしい思いが、届いたのだろうか。
「受け取って、くださいますか……?」
再度問いかけると、彼は無言のまま手巾に手を伸ばした。
その手もまたかすかに震えている。
あちこち彷徨っていたアイザックの瞳が、ひたりとリティスを見据えた。
青いのに、熱い。
熱情を宿した眼差しに、リティスの体温もさらに上がっていく。
「リティス……その、抱き締めても、いいだろうか?」
「――――」
熱に浮かされ、頷けたか分からない。
それでもアイザックの手は、リティスの肩にぎこちなく添えられた。
つい先ほども同じように触れたのに、一応何度も閨を共にしているのに、まるで初めて触れ合ったかのように。
緊張でがちがちに固まったリティスの背中に、アイザックの腕が回る。
傷付いていないか確かめるような、ごく慎重な手付き。
互いの早い鼓動が、熱が、服越しに伝わって溶けていく。
――アイザック様……大好き……。
あまりに心地よくて目眩がする。
リティスはアイザックに体重を預け、そっと目を閉じた。
あれから、どのようにして宮まで帰ってきたのか、リティスは覚えていない。
足元がふわふわとして、ずっと夢でも見ているかのようだ。
ぼんやりとだが、アイザックが別れ際、間近で慈しむような笑みを浮かべた気がする。
それを繰り返し思い出しては、リティスはクッションを抱えて身悶える。
スズネとの閨対策からはじまり、アイザックの家族との対面など、怒涛の一日だった。
慌ただしかったけれど充実していた。
この上なく幸せだった。
……スズネが手紙を持ってきたのは、そんな時。
リティスが王宮にいることを知っているのは、クルシュナー男爵家以外いないはず。
だから、油断していたのだ。
封蝋に捺されたブドウと猫の印章を確認し、リティスの気持ちは急速に冷えていく。
手紙の送り主は――レイゼンブルグ侯爵だった。